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25話 翼になれ

 翌九月二十四日、早朝五時過ぎ。

 アラームが鳴る前から目が覚めていた白田は早い朝食を摂り、見晴らし亭を出る。

 空はまだ薄闇、辺りは朝霧に包まれていた。山の空気はひやりと冷たく、吐いた息がすぐ白く凍るようだった。


 慣れない登山靴の紐を締め直し、肩からの登山リュックを担ぎ直して目線を上げると、無人のロータリーががらんと広がっていた。

 行楽シーズンは大勢の人でにぎわい、昨日の朝まで活気があっただろうこの場所には全く人がいない。

 これから初めての登山を、この富士山で行う。無謀とも言える挑戦だが取りやめることはない。

 気を引き締めて一歩踏み出そうとした。


 その時だった。


 突如、目の前のロータリーに、淡く光る魔法陣が出現した。真円の文様が空気を震わせ、そこから──人影が、三つ現れた。


 息を呑んで立ち尽くす白田の目の前に現れたのは、父と母、そして小学生ほどの男の子の三人。防寒用の毛布を肩に掛け、疲労に足をとられながらも、明らかに山の上から来た者たちだった。


 白田が小走りに駆け寄り、声をかける。


「すみません……! もしかして、……山頂から……?」


 父が目を見開き、白田を見つめ返す。


「……はい」


「山頂についさっきまでいたんですね?!」


 母が何かに気づいたように白田の顔をじっと見つめ、静かに頷いた。


「……山頂の山小屋から来ました。みんな無事です」


 母の目に映る白田のリュックと装備はどことなく統一感がなくコンセプトがちぐはぐ。新しすぎる服は、傍目から見て瞬時に着慣れていない印象を受けた。


 母親の女性は、つい先程まで時間を共にしていた恩人と、目の前の若い女性が近しい存在なのではないかと、女の勘で悟った。


 魔法について一切言及せず、山頂から来たと既に目星をつけて聞いてきたことに、言葉少なく返答した。


「…他には山頂に誰もいません。きっと、一人です」


 詳細を知らない人が聞いたら別の解釈をするだろう。


 恐らく今から登山を始めればその道のりが孤独な道のりになる、噴火しかけた富士山に登る人は他にいない、と忠告したようにも聞こえるそれは、白田だけには『山頂で、一人、迎えを待つ人がいる』と確かに伝わった。


「――ありがとうございました!」


 白田は一礼して、彼らの脇をすり抜けるように登山道へと足を向けた。その背には、母が何かを言いかけて飲み込む気配があったが、言葉になることはなかった。




 登山道入り口の赤い門を抜けて時計を確認。

 五時半、いよいよ登山開始。

 まだ太陽は昇りきっておらず、道は薄暗い。しかし車が走れそうな広い道幅で傾斜は緩やか。

 二十メートル先が見えない白の視界で雲を吸い込んでいるような濡れた空気の中だが、その先にいる人の存在が、白田の足取りに光を灯していた。


 ──蓮くんが、あの火口のそばにいる。


 急ごしらえの登山装備は頼りない。防寒性能の未知数なジャケット、慌てて揃えた登山靴。昨夜のうちに食料と水は多めに整えたつもりだが、体力面の不安は否めなかった。何せ、今回が初めての登山なのだから。


 それでも、立ち止まる理由にはならなかった。


 砂利を踏む音、石が転がる音、そして自分の荒い息だけが、まだ誰もいない登山道に刻まれていく。

 誰ともすれ違わず、誰にも追い抜かれない。たった一人の道を征く。

 途中、左右への分岐点に差し掛かる。右を進めば上り、左に進めば下り。

 白田は迷いなく、右の道へ進んだ。



 森の小路を抜け、落石防止用と思われるコンクリート造りのシェルタートンネルを通り抜ける。

 程なくして右手には富士山安全指導センターと看板が出ている建物が見えてきたが、周囲含めて無人となっていた。


 この時点で三十分ほどが経ち、六時三分。ようやく六合目となる。

 まだ六合目だが、このあたりで既に額に汗が滲んでいた。暑く、寒い。

 風が吹き、耳を刺すような冷気が、山の気温に馴化していない顔面を削る。指先の感覚が鈍くなり始めたが、それも一歩ごとに思い出が押し戻す。


 ──約束はしていない。それでも、あの人が自分を待っている気がする。


 彼がいるという山頂に、誰もいないのはあまりに寂しい。

 きっとまた魔力切れを起こして動けずにいる。魔石と魔法陣スクロールを置きっぱなしにして、壊れそうな繊細な寝顔で意識を失っていたあの時のように。


 麓や街でなく、あの家族を途中の五合目まで送り返したのは、それが限界だったのだろう。だから、行かなければならない。誰かが、そこへ。



 六合目から見上げる登山道、山頂は遠く果てしない。

 どれほど歩けば着くのかと気圧されそうになるが、白田は進む。


 登山道は上り勾配だが、まだまだ比較的上りやすい砂の道が続く。

 そしてまた左右の分岐点に差し掛かる。

 右が上り、左が平坦。手元の地図には左が下り専用ルート、右が上り専用ルートであると書かれている。


 左右どちらの道にも、人影は一切ない。

 白田は、右の上りルートを登り始めた。



 見晴らしの良い、直線的なジグザグの上り坂。

 五合目の売店で買った杖に体重を預けながら、七合目に向けてつづら折りを登っていく。

 初めての登山ながら、ここまでの比較的緩やかな道のりに「これなら行けるかも」と淡い期待を抱いていた白田に、容赦なく山の厳しさが襲い掛かる。


 斜度が上がり、ひたすらに長いザレ場地獄。息を切らしながら、だんだん粒が荒くなってきた地面を歩くが、三歩進んで二歩下がるような滑る足元。

 地上の平地を行くよりもずっと時間も体力も削られる、無限に思えるようなつづら折り。

 水分を補給しながら、滑る砂利道を、ゆっくりと進んだ。



 七合目に差し掛かる手前で砂利道が終わり、ゴツゴツと張り出した岩場に突入する。


「これ、本当に道なの…?」


 左右にガイドロープが張られており、ここが登山道とされているものの、通常の地上の感覚ではここが"道"とは思えない、黒い火山岩の連続したエリアに入る。

 愕然とした顔で見上げるその登山道の先には、小さく山小屋が点在して見える。


 この岩場を乗り越えれば、チェックポイントに辿り着く。

 既に体力の大部分を使い果たしたつもりだったが、まだ序の口だったことを思い知らされる。自らをなんとか鼓舞して、岩壁のような登山道に踏み込む。



 急激に登山スピードが落ちた。

 空には太陽がしっかりと顔を出した時間帯。足は重たく、息が上がる。

 自分だけしかいない登山道は後ろから煽られる心配がない代わりに、応援の声もない。

 気にかけて前方で足を止めてくれる同行者もいない寂しさは、計り知れないものだった。


『水と食料は多めに』とは良く言ったもので、一本目の一.五リットルの水のうち二割を飲んでしまった。

 お陰で荷物は多少減るが、体力も減っているので軽さを全然実感できない疲労の中にある。


 長い時間をかけて岩の道をよじ登り、標高二千七百メートルの位置にある七合目最初の山小屋・花小屋に着いた頃には、時刻は六時五十四分を越えていた。




「富士山山頂まで…三.八キロ…、残り……二九五分……!?」


 道程がまだまだ続くことを残酷に伝える標識に愕然とした表情で息を漏らす。


 ここからは道幅がさらに狭くなり、足元の路面状況も悪くなる。

 いくつかの小屋を通過しながら、ドラム缶ほどの岩を避け、上り、踏み越えていく。


 七合目・トモエ館に着くころには、白田はほぼ無意識的に、店先のベンチに倒れ込んでいた。


「はぁ、はぁ、はぁ、……っはぁ…!」


 ザレ場と岩場で足を酷使した白田は、すぐ後ろに広がる大パノラマを一切楽しむ余裕なく、携行の酸素ボトルを吸引する。


 貧乏ゆすりをして足の疲労物質を散らすように血流を巡らせ、水を飲む。短い休憩では脚の震えが収まりきらない。

 おそらく、このペースで行くと高確率であの高山病になると分かる。急ぎたくなる気持ちとは裏腹に、体は悲鳴を上げて自ずとブレーキをかけていた。


 いつまでも休んでいたい気持ちになる。

 だが、好きなだけ休んでしまうとこのペースだと山頂に着くころには夜になってしまう。

 蓮が山頂で一人、孤独と虚脱の中で二泊過ごしてしまう事を想像すると、居ても立っても居られない。

 白田は自ずから重たい腰を上げ、岩場の登山道へ歩き出していた。



 急勾配の岩場が連続すると、石造りの階段に差し掛かった時には感謝の念がわいてくる。

 舗装された道のなんと歩きやすく上りやすい事か。

 このまま山頂までずっと上りやすい階段だったらいいのにと、束の間の幸せが終わる名残惜しさを感じる。


 本来ならもっと人が大勢いるはずの登山道をたった一人で進む。


 ――きっとここで大怪我すれば私は助からないかもしれない。

 でも、それは蓮くんも同じ。


 蓮くんも、一人きりで震えているに違いない。



 白田は、慣れない足取りで、寒さと疲労と戦いながら、一歩一歩上り続けた。



「鳥居……。あそこで、休憩にしよう…あそこまでは行こう…!」


 見上げた登山道の先にはそれなりに近い距離に赤い鳥居が見える。

 そこまでは狭く厳しい岩場が続くが、一歩一歩登り、ここさえクリアすれば休憩が待っていると自らを奮い立たせながら、やっとの思いで赤い鳥居をくぐる。

 山小屋・鳥居荘に到達したのは七時四十九分のことだった。


 昼まではまだ時間がある。ズルズルと休まないように、小休憩を取ることに最初から心に決める。

 チョコバーを開け、一本、しっかりと噛んで味わう。

 キャラメル入りのチョコバーは、昔からあるという理由で何の気なしに買った物だったが、疲労を抱えた体には思っていたよりも負荷がかかる。

 どうにもいつものように食が進まない。チョコバーを一本食べるのに十五分ほど費やしてしまう。

 それよりも、今はとにかく疲れた。足がだるく重たい。

 貧乏ゆすりで疲労物質を散らしながら、このチョコバーを食べ切ったらまた歩こうと繰り返し呟きながら、しばらくの休憩を取った。

 そして次は八合目を目指す。


 石積みの階段を上ると東洋館に差し掛かる。八時二十三分。

 白木のウッドデッキが綺麗に整えられており、建物もきちんと整備されている。

 黒茶色の登山道ばかりを見ていると、こういった建物を見るだけでも目の保養になるのを感じる。

 きっと、平時は営業していて、ここもたくさんの人がいるんだろう。

 ここまで通過した山小屋と同様、ここも営業しておらず、誰もいない。



「ハァ、ハァ……ここで…間違ってないよね……?」


 目の前の岩場に白田は無意識に弱音を吐きそうになる。

 これが本当に道なのかと思えるほどのゴツゴツとした急斜面の岩場は、左右に張られたロープが辛うじて道であることを示すのみで、到底道には見えない。ロープが無ければきっと踏み入れなかったことだろう。


 乗ると崩れそうに見える不安定な岩を避けながらジグザグと進むことを余儀なくされ、足の踏み場も、杖の突き場所もない険しい登山道を進む。


 富士山頂まで残り二.七キロ地点。八合目・太子館に九時一分到達。

 気が付くと、途中まで視界を覆っていた霧・靄を通り抜けていて、それらは眼下に広がる雲海と化していた。


「はぁ……!」


 疲労の色濃い息を大きくつく。

 テレビや映像で見たのとは全く違う、雲海の上からの景色に思わず足を止めた。


 ここまで登って来た長い道のりを振り返りつつ、まだ上方には長い道のりが続く。


  「誰もいない道を登るって、こんなに孤独なんだな……」



 これから進む道程が険しい物であると分かっていながら、それでも一人で進む蓮は、こんな感情を胸に抱いたままこれまでの半生を歩き続けて来たのかと胸を締め付けられる。


 多くを語らない蓮から聞いた、数少ない異世界の情報。

 そこから察するに、数百年続いた人間と魔王の戦いに終止符を打つべく進んだ蓮たちの足跡は、きっと容易ではなかったはず。


 苦楽を共にした仲間と過ごした日々が長い程、一人になった時の寂しさは倍掛けになる。

 蓮が魔王を倒すために、後ろからの敵を食い止める盾となってその場に立ち止まった仲間の事を考えると、蓮は胸を裂かれる思いだっただろう。


 魔王を倒す為にはそれがその時に取れる最善だったのかもしれない。でも、人の気持ちはそう簡単には割り切れない。

 そんな状況になった時、多くの人はどうしても全員が助かる方法を考える方に気持ちが行ってしまう。


 でも蓮は、()()()決断をした。

 その結果、蓮は日本に帰ってこられた。


 ――私は、目的を果たすために、味方の犠牲を受け入れるその決断を取れるか。

 きっと、無理だと思う。


 ゲームとは違う。間違えたら戻ってやり直すなんてことはできない。

 致命的な損失と後悔をずっと自覚させられながら、浮上の目がない転落ルートを最後まで進み続けるしかないなんて辛すぎる。


「いつもこんな気持ちだったのかな」


 辛くても進む。

 苦しくても歩き続ける。


 一人きりでも、目標の為に自分に鞭を打ち続けるのは、並大抵の精神力では出来ないことだ。


 やっぱり蓮くんは普通の人じゃない。




「………」



 また、悪い癖が顔を覗かせそうになる。


 どうせ私は普通になれないんだからと諦めそうになる。


 学生時代はそんなことなかったのに、大人になってから臆病になった。

 挑戦しても誰かに成果を奪われるか、もしくは無駄な挑戦に終わるか。


 頑張ってもまともに評価してくれなかったり、予想外の方向から妨害を受けたり、満足の行かない結果になることがずっと続くと、いつしか頑張る事さえ出来なくなってくる。心を守るために。


 今はもうその環境じゃないと分かっていても、一歩踏み出すことが怖くなる。

 また人と自分を比べて落ち込んで、出来ない理由を無理矢理探して自分の心を守ろうと言い訳する。


 もうしないと決めたはずなのに。



「そう簡単に変われないよ……」



 もしかしたら、もう、蓮くんは山頂から下山しているかもしれない。

 きっと回復していて助けは要らないかもしれない。


 私が行かなくても、案外平気なのかもしれない――。


 だって、蓮くんはすごいから―――。




 太子館の先には下山道への合流分岐がある。

 このまま下山するにしても、まずはしっかり休んでからにしたい。

 あまり食べられる気がしないけど、朝昼食ブランチにしよう。


 白田はおにぎり・パンを一つずつと、スマートフォンを取り出す。


 疲労がピークを迎えているため、なかなか食事が喉を通らない。

 左手に一口だけかじったおにぎりを持ちながら、右手でスマートフォンを操作する。


 スマートフォンは圏外。だが、銀の仮面公式サイトには繋がる。

 龍脈を介した通信は、通常の通信回線とは無関係。この富士山は日本列島を通じる龍脈の中でも特に太い大動脈が通っており、一瞬でアクセスできた。

 何も考えず公式サイトの画面を開くと、サイトのトップには「LIVE」の赤いマークが灯っていた。


「……え」


 指先でタップ。


 映し出されたのは、どこまでも晴れた空と、その下に広がる火口の縁。そして、そこに静かに立つ、あの三日月の旗──


 姿は映っていない。生中継を開始してから四時間が経過しようとしている。


 おそらく、四時間のあいだ、ずっとこの角度のままとなっている。だがその映像からは確かに“彼”の気配があった。


 生きている。

 そして、今も。そこにいる。


 今朝魔法陣に乗って、五合目のロータリーに現れた家族の存在。

 助けを待つ彼が今も山頂にいる予感を五合目で確信し、その確信が今揺るぎなき真実へと変わった。


「――ごめん。ごめんね、蓮くん」


 自分に負けそうになった。

 どうすれば出来るかではなく、どう言い訳すればやらずに済むかを考えてしまっていた事を恥じた。

 一番近くにいるのが私なのに、私が諦めようとしていた。

 私が一番助けなきゃいけないのに、いつの間にか自分の事を考えて、引き返そうとしてしまっていた。


 あの日、力になりたいって言ったのは私だったじゃないか…!

 今、力にならなくて、いつ力になるのよ――!


 白田は胸元をぎゅっと握りしめた。脈が早まる。涙が浮かびそうになるのをぐっと堪え、ひとつ深く息を吸い込んだ。


「……待っててね。蓮くん。私、諦めないよ」



 食べられないと情けない言い訳をする胃におにぎりやパンを詰め込み、水で流し込んだ白田は再び立ち上がる。


 左右の登山道の分岐。

 左には下山道へ向かうなだらかな傾斜の合流ルート。右は山頂へ続く急峻な登山道。

 山頂まで残り二.七キロ。


 白田は、左からの甘い誘惑をばっさりと断ち切るよう、右の道を登り始めた。



 八合目を越えて、冷気はさらに鋭くなっていく。


 足取りは鈍るが、決して止まらなかった。

 どんなに険しくても、どんなに遠くても。

 この登山の先には、必ず“彼”がいる。


「頑張れ、頑張れ。痛くない、辛くない。全部気のせい。全然平気」


 一人きりの登山道。はっきりと声に出して白田は上り続ける。



 東京の街中では考えられない程の岩場とつづら折りを抜けて、海抜三二五〇メートル、八合目・元祖室へ九時五十三分到達。


 ようやく路面が岩場から砂利道基調に戻り、ほんのわずかに登りやすさを感じる。

 赤茶色の登山道を登り、石積みの階段を上り、本八合目。

 ようやく看板は残り一.三キロを示す。


「疲れた――、いや、疲れてない…。これくらい……へっちゃら……」


 十時三十八分、八合五勺・御来光館到達。


 焦げ茶色に変わった登山道を登り、白橡色の鳥居をくぐり、十一時十五分、九合目到達。


 疲れ切った登山者に止めを刺すように、再び岩場となった登山道を登りながら、白田は上を見続ける。


 ――あそこにいる。

 ――あそこで蓮くんが私の助けを待っている。


 ただその一心で、動かない足を前に動かし続ける。

 一歩一歩踏み出すたびに、靴擦れの痛みが絶え間なく襲い続けるが、一向に歩みを止めない。

 弱音を吐きそうになったら上書きして進み続ける。


「いまさらこんな所で休むな……山頂でたっぷり休めるでしょう……っ!」


 ワイヤーで支えられた白木の鳥居をくぐる。

 崩れそうになる体を根性で叩き起こす。


 寒さにカチカチと震える奥歯をグッと噛み締め、鋭く睨みつけるように山頂を見る。



 絶対に諦めない。


 翼になれ、白田つかさ―――!








 道中、手頃な高さの岩を見かけるたびに何度も腰を下ろしそうになった。足の筋肉はとっくに限界を超え、呼吸は荒く、乾いた喉がひりつく。それでも、白田は立ち止まらなかった。


 そして。


「着いた……やっと、着いた……!」


 掠れた声で呟いたその瞬間、膝ががくりと折れそうになる。だが、その声には確かな歓喜と達成感が込められていた。



 ―――十一時五十七分。富士山山頂に到達。



 登山経験のない彼女が、急ごしらえの装備で、水と酸素缶を頼りに、約六時間半もかけて辿り着いた頂上。凍えるような風が肌を刺し、汗で濡れた衣服が体温を奪っていく。それでも、彼女の足取りは揺らがなかった。


 ぐるりと連なる火口の縁。その先に──夜を切り取ったような黒と銀の三日月の旗が、風に揺れていた。


 黒地に銀の糸で描かれた三日月。その傍らには、濃紺の影がひとつ、岩に寄りかかっていた。


 ──蓮くん。


 胸の奥がきゅっと締め付けられる。


 白田は、駆け出したい衝動を抑えながら、慎重に足を運ぶ。足元の砂利が音を立て、登山靴の底を通して細かな振動が伝わってくる。彼女は途中、立ち止まり、自身のスマートフォンを取り出して公式サイトの生中継を切断した。


 スフィアが火口の様子を無音で映しているその場所に、傷付いた重たい足で近づいていく。


 蓮の背に寄り添うようにして、彼の隣にそっと腰を下ろす。仮面を着けたその顔は煤と灰に染まっている。だが、その胸はかすかに上下していた。確かに、生きていた。


「……着きましたよ、蓮くん」


 小さな声で囁いた。返事はなかったが、それでもその姿に、彼女の心は救われていた。


 静かに彼の右手に触れる。指先は冷たいが、命のぬくもりがあった。


 白田はほっとした息を漏らすと、蓮の隣の岩に背を預けた。


「良かった……――痛っ!」


 歩き通しで靴擦れした足の痛みに不意にバランスを崩し、少しだけ彼の肩を押してしまう。すると──


 仮面が、かすかに揺れた。


「………うっ」


 静かに、重たそうに左手が上がる。そして仮面を外し、蓮の素顔が露わになった。


 疲労にまみれた青白い顔。額にはうっすらと汗が滲んでいる。それでも、その目には確かな光が宿っていた。


「……白田さん」


 かすれた声だったが、確かにそれは蓮の声だった。


 白田は、こみ上げる涙を堪えるように目を細め、微笑んだ。


「……蓮くん」


「……どうしてここに?──まさか、歩いてきたんですか」


「はい。…登山道の空いてる日を狙ってきましたよ」


 その冗談めいた返しに、二人の間に静かな笑いがこぼれる。


 風が吹いた。


 火口は、静かだった。


 もはや爆発の兆しはない。灰色だった空は青に染まり、すべてが静寂の中にあった。


「……本当に、止めたんですね。一人で」


 白田がぽつりと呟いた。


 蓮は、力なく笑いながら頷いた。


「全部……無理矢理ね。…情けない」


「まさか、情けないなんて」


 白田は、そっと彼の手を包むように握り直した。


「たった一人で、誰にも知られずに国を救って、全員無事に助けたのにそれを情けないなんて言うのは、逆ですよ。どれだけすごい事をしたと思ってるんですか…!」


 遠くから、風の音が吹き抜けた。火口の縁に立つ旗が、ゆったりと揺れていた。


 誰にも気づかれない山頂で、誰にも知られないまま、自らの身を削って国を守った男がいた。


 そして今、その隣に寄り添う者がいた。


 その時間だけが、確かな真実だった。


「……ありがとう。来てくれて」


 蓮の声は、かすかだったが、風よりも確かに白田の胸に届いた。


「……噴火を止めたら、すぐに戻って迎えに行こうとしたんですよ。でも、無理でした」


「知ってます。だから、来ました」


 火口の奥深くから、わずかに立ち上る煙が、空へと消えていった。


 白田は、その煙の先を見上げながら、そっと呟いた。


「あの日から私は、半分背負うって決めてましたから。何もかも全部、一人で背負わないで」


 蓮は、まぶたを閉じて、しばらく風の音に耳を傾けていた。そして小さく呟く。


「……ありがとう。本当に」


「――お腹空いてませんか。私ご飯持ってきたんです。ちょうどお昼ですし、蓮くんも一緒に」


「…もうそんな時間だったんだ。…じゃあご相伴に預かろうかな」


 白田は、リュックから売店であらかじめ買った小さな弁当を取り出した。


 冷めてはいたが、食べ応えのある塩鮭おにぎりと漬物の味が、蓮の疲れた身体にじんわりと染み込んでいくようだった。


「お水いります?」

「んん」


 一.五リットルの水ペットボトルからステンレスのカップに注いだ水を受け取り、口をつける。


 水や食料は、蓮のアイテムボックスを探せば入っているだろう。


 だが、白田が自ら重たい思いをして六時間かけて運んできてくれた水の味は格別だった。


「うまい」

「…良かった」


 二人の間に、言葉はもういらなかった。


 火口の風が、静かに吹き抜けていく。


 青空の下、日本一の景色を独り占めするように、ふたりの影が寄り添っていた。


次話は明日20時投稿予定です。

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