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24話 只の人

 激しい轟音が木造の屋根を突き抜けた。乾いた音とともに梁が裂け、粉塵が弾ける。山小屋の天井にぽっかりと空いた穴から、銀の閃光を纏ったひとつの影が降ってきた。


 それは、燃え尽きた流星のように。


 濃紺の装束を纏った身体が重力に従い、そのまま床へと墜落した。床板が悲鳴を上げ、鈍い音が山小屋に響く。


 全身の力が抜けていた。砕けた木片に囲まれ、降ってきた衝撃で彼の仮面が顔から外れ、ころんと床に転がった。


「──ッ!? ……」


 小屋の片隅に身を寄せていた家族──三十代半ばほどの父と母、小学四年ほどの男の子が、一斉に声を上げた。驚き、息を呑み、すぐさま駆け寄る。


 粉塵がゆっくりと晴れていく中、床に仰向けに倒れるひとりの青年。

 か細い呼吸。汗と灰にまみれた頬には、どこか幼さすら感じられる表情があった。短く切り揃えた黒髪。まだ若さの残る顎の線。

 二十代半ばか二十代後半か──まだまだ働き盛りでまさにこれからと言ったような年頃の青年だった。


「……まさか、この人が……?」


 母親が震える声で言う。


 あまりに若く、まだ人生の途中にいるような、どこにでもいそうな風貌の人が、窓の外の上空を飛び回り、さっきまでこの上空で噴火に抗って日本の危機を必死に食い止めていたという事実が信じられなかった。


 父親は小さく唸り、落ちていた仮面を手に取る。その重みを確かめるようにしばし黙した後、そっと枕元に戻す。


「お母さん、包帯あるよ」


 少年が、リュックから救急ポーチを取り出した。母が受け取り、ボトルの水と携帯食を枕元に置くと、息子に指示して絆創膏を取り出させた。


「お願い。貼ってあげて」


 少年はうなずき、小さな手で彼の頬にそっと絆創膏を貼る。その動作は、不思議なほどに静謐で、慈しみに満ちていた。


「……痛くないといいけど」


 少年の言葉に、母親が静かに頷いた。


 しばし、小屋の中は静寂に包まれた。誰も声を発せず、ただ彼の寝息が微かに聞こえていた。


 ふと、風が戸を鳴らした。


 ギィィ……と、山小屋の戸が軋む音がした。


 一人の中年男性登山客が、息を切らしながら中へ入ってきた。手にはスマートフォン。


「い、今……噴火が止まった……!銀の仮面が噴火を止めたぞ……!そしたら、こっちの方に銀の、仮…め……」


 彼は興奮気味にそう言いながら、小屋の中を見回す。ふと、床に横たわる青年の姿と、枕元に置かれた銀の仮面に視線が向いた。


「……お、おい…その人って、もしかして…?」


 小屋の中に、再び沈黙が走る。


 その瞬間、少年が一歩前へ出た。


「その携帯……下ろして」


 静かで、でもはっきりとした声音だった。


 登山者は戸惑い、スマートフォンを無意識のうちに胸元で構えていた自分の姿勢に気付き、ぎこちなく手を下ろした。


「悪ィ……撮影してたのは、上空で……あの人が噴火を止めてたところだけなんだ。今はもう撮ってねえ。でもまさか、こんな若いとは……」


 父親が、落ち着いた声で応じた。


「気持ちはわかります。私たちも驚いています。でも……それ以上は踏み込まないであげましょうよ」


 母親も、しっかりと登山者の目を見た。


「私たちは、いえ、私たちこそ、そっとしておくべきなんじゃないですか。命の恩人ですよ。彼は」


 命懸けで噴火を止め、そして、意識を失って全身灰と煤だらけになって倒れている、自分たちよりよほど年若い青年。


 空を飛び回って大勢の人々を救い、噴火を止め、文字通り日本を救った。


 銀の仮面の奥の顔がこんな風貌かおだったとは。


 始めに沸いた多少の好奇心を、圧倒的な罪悪感と無力感が塗りつぶし、果てしない羞恥心に襲われる。


 登山者は何も言えず、ただ頷いた。そして、スマートフォンをゆっくりとポケットにしまい込む。


「す、すまん。でも分かってくれ。一人で命がけで噴火を止めたんだよ。とんでもねえ魔法で……。あんな凄えことやってのけて、誰もそれを見届けないなんてかわいそうじゃねえか…!この日本をたった一人で救ったってのに、誰にも気づかれずに倒れていくなんて、おかしいって思ったんだ……」


「……わかります。でも、今は……ただ、そっとしてあげましょう。私も、あなたも、ここでは何も見なかったことにして」


 母親の声は、柔らかく、温かかった。


 男は沈黙の中、頷いた。

 そして青年を一瞥し、その顔を見て、息を呑んだ。



 ──若え。思ったよりも、ずっと。

 こんな若え男が、たった一人でボロボロになるまで戦ってたなんて。


 映像で見た姿よりも、想像していたよりもずっと………小さかった。



 彼は、深く頭を下げた。


「……ありがとうございました」


 それだけ言い残し、最後にもう一度青年の顔を見てから、そっと山小屋を後にした。


 戸が閉まり、再び静寂が戻る。


 仮面は枕元に戻され、水と食糧が置かれ、頬には少年の貼った絆創膏。粉塵の中、若き命は静かに眠っていた。


 外では風が吹き抜け、遠くから鳥の声が聞こえていた。


 父親がそっとつぶやく。


「……こんな若者が、日本のために命を懸けていたなんて……」


「うん……知らんぷりは、できないよね」


 少年もまた、青年の手に触れながら小さく頷いた。


 火口の怒りは去り、空の噴煙は風に流され薄れゆく。

 天井の穴には夕焼けがにじんでいた。


 誰にも知られぬまま──一人の若き英雄は、ただ、静かに休息を得ていた。




 木造の山小屋は、再び沈黙に包まれていた。


 傾き始めた日差しが、軋んだ梁の隙間から斜めに差し込み、屋根の穴の向こうの空を橙色に染めている。埃を含んだ空気が、まるで時間の流れさえ遅くしているかのように重たく、沈んでいた。


 通常、数十人が寝泊まりすることを想定されたこの山小屋に、今はわずか四人──登山中に取り残された父・母・息子の三人と、仮面を失って気絶したままの青年だけがいた。


 がらんとした空間に広がるのは、ただ深い静寂。


 母親は手にしていた毛布を優しく青年の体にかけると、濡らしたタオルで額の汗と土埃をそっと拭い、そして指先で乱れた髪を整えた。


 父は山小屋の裂けた天井を見上げた。そこから覗く空は、どこまでも澄んだ茜空だった。けれど、その美しさは、地上にある青年の疲弊した姿と対照的だった。


「正義の代行人」と名乗り、政府の要人を次々に天誅してきたその男──

 その仮面が外れた瞬間、三人は目を見張った。


 老練な戦士でもなければ、鉄面皮の処刑人でもない。

 ましてや狂気をはらんだ復讐者でもなかった。


 そこにいたのは、驚くほど普通の青年だった。

 顔立ちは整っていたが、どこかあどけなさを残していて。精悍ではあったが、同時にどこか繊細な気配を帯びていた。


「……嘘みたいね……」


 母が思わず声を漏らした。信じられない、というより、信じたくなかったのかもしれない。


 こんな年若い青年が、彗星のごとく現れた銀の仮面として、壊れていく日本の政治に真正面から殴りかかり、正義の象徴として日本の命運を背負い、そして先ほどまで──富士山の噴火を、たった一人で止めていた。


 誰に指示されたわけでもなく。

 誰に報われることもなく。


 青年の呼吸は浅く、顔色も蒼白で、額には冷や汗が浮かんでいる。


 富士山の噴火を人の手で止めるなどという有り得ない事を、現実として目の前で彼はやり遂げた。

 頂上から登山道までを埋め尽くしていた大勢の人々を魔法で避難させ、その上で噴火まで食い止めるだなんて、絵本や映画に出てくる主人公でないと出来ないような芸当。


 常識や固定観念では到底片付けられない出来事が立て続けに起こったが、ただ確実に言えるのは、彼は未知の力で大勢の人々を救い、日本列島を噴火から守り抜いたという事。


 そのおかげで、私たちは助かった。


 これを奇跡の一言で片づけてしまうのはあまりに勿体なく、その功績に見合っておらず、とても失礼とすら感じてしまった。




 父は、枕元の仮面を見る。

 金属製のそれは空の茜色を取り込み、赤銅色のような輝きを放っていた。


 見た目以上に、その重みが訴えてくるものがあった。

 この仮面を被り続けてきた彼が、どれほどの覚悟を抱いていたのか。


 これまで幾人もの政治家を裁いてきたその“仮面”の内側に、まさかこんな青年がいたなど、誰が想像しただろうか。


「……中身は、人間だったんだな……」


 父の独り言に、母と少年がそっと頷いた。


 冷酷非情な制裁者──そう信じていたのに。

 現実は違った。


 この青年は、自分を捨てて正義の仮面を演じていたのだろう。

 本来の自分とはまったく異なる仮面を被り、断罪者となり、悪を討ってきたのだ。


 自らの信念のために、自分らしさを押し殺し、孤独を背負いながら。


「……俺たちは……どうすればいいんだろうな」


 父の呟きは、天井へ向けた問いだった。

 母は肩を震わせながら、それでもしっかりとした声で答えた。


「……そっとしておいてあげましょう。顔も姿も知らなかったことにする。それがきっと一番」


 少年は毛布の端を整えながら、そっと青年の耳元に顔を寄せた。


「……ありがとう、って言ってもいいのかな」


 母は微笑んで頷く。


 少年は、声にならないほどの小ささで囁いた。


「ありがとう。ぼく……今日のこと、絶対に忘れないから」


 父は少年の肩を抱き、眠る青年の顔を見つめた。


「……名前も分からない。でも、命の恩人だってことだけは、決して忘れない」


 少年は、青年の手を両手で包み込むように握った。



 沈黙が、小屋を包む。


 どこか遠くで、かすかに救助ヘリのような音が響いた気がした。

 しかしそれも、風が運んできた幻想のように、静かに消えた。

 少年が再び青年の顔を見つめ、ふっと笑みをこぼした。


「……普通の人、なんだね」


 その“普通”という言葉の中には、無限の敬意と、深い感謝が滲んでいた。


「そうね。ただの人。でも、すごい人」


 そのつぶやきに、母も父も静かに頷いた。





 天井から覗く空がすっかり夜の色に染まってしばらくの時が流れた頃。

 かすかなうめき声とともに、蓮はゆっくりと目を開けた。


 視界はかすみ、天井の梁が逆光の中で滲む。

 喉は焼けるように乾き、全身に痛みと疲労がまとわりついていた。


 そして気づく──“顔が涼しい”。


 毛布のぬくもり。頬には小さな絆創膏。

 視線を落とすと、膝を抱えて座っていた少年が、こちらをじっと見つめていた。


「起きた……! お母さん、起きたよ!」


 駆け寄る足音。すぐさま傍らに駆けつけた母。


 蓮は、ごくりと唾を飲む。顔を見られている──仮面が外れていた。

 正体が知られているかもしれない。

 左手が無意識にゆっくりと持ち上がる。手のひらに、微かな魔力の光が灯る。


 この数時間の記憶を消すくらいなら影響は少ないか――。


 乗り出せば彼らの頭に触れるまではすぐの距離。


 だが──


「お水、飲みますか?」


 少年が差し出す水筒。

 母が毛布を丁寧にかけ直し、父は入り口の近くに腰掛けたままこちらを振り向いた。


「お腹すいてたら、これどうぞ」


 板チョコレートとカロリーブロックを取り出し、板チョコレートのアルミ箔を剥く。

 手ずから蓮の口元に運ぶ。蓮が小さく角をかじると、少年は小さく微笑んだ。


 水筒のコップに注いだ水も口元に運び、慎重に傾ける。

 蓮が無事に喉を鳴らすと、また少年は笑顔になり、カロリーブロックの包装を剥いて同様に蓮の口元に運ぶ。


 口の端にわずかに零れるのを母がすかさずタオルで拭う。

 時折、額の濡れタオルも交換しつつ、親子ともども、病人や怪我人にするような当たり前の介抱をし続けた。


 そこには詮索も、疑念も、恐れもなかった。

 ただ同じ山小屋で同じ時を過ごす人として接するように、名前も事情も何も聞かず、蓮の様子を慮る。


 入り口のそばに腰かける父親は扉を開けて外の左右を見ては閉扉し、家族の様子を離れたところから窺うを繰り返す。

 それは門番と表現するより、()()()()()の見張りのような振る舞いに見えた。


 蓮の手から、魔力の光がゆっくりと消えていく。


「……ありがとう」

「――うん!」


 そう小さく呟いて、蓮はそっと目を閉じた。




 深夜が近づき、山小屋の中にはまた静けさが戻っていた。


 蓮は少しずつ身体を起こし、壁にもたれかかる。

 痛みは残るが、魔力はわずかに回復していた。

 アイテムボックスを開けて中身を探るくらいは出来るだろう。


 マントの内側を探るふりをして、飲みかけのポーションを取り出し、二口飲む。

 そしてマントの内側の亜空間に戻し、蓮はふうと息を吐いた。


 続いて、スマートフォンを取り出す。

 時刻は二十四時十二分。バッテリーはしっかり残っているが、電波が圏外となっている。

 これでは白田さんに連絡が出来ない、と蓮は肩を落とし、力なくスマートフォンをマントの中に戻した。


 家族は三人で固まって少し離れたところに移り、交代で寝ている。

 今は母と息子が眠り、父が壁に寄りかかって起きている。


 父と目が合い、小さく会釈を交わす。

 特段会話が始まることはなく、父はまた目線をすうすうと寝息を立てて眠る家族へ移した。


 やがて、蓮は右手人差し指を空中で小さく巻き上げるように動かし、座標リンクが切れていることを確かめる。


 朝、二人が起きるのを待って、富士五合目ロータリーを目標とする半径一メートルの魔法陣なら展開できそうだ。


「明日の朝……あなたたちを、五合目まで送ります」


 父は顔を上げると、小さく頷いた。



 枕元には、板チョコレートとカロリーブロックが残っている。


 蓮はそれをしっかりとした一口で食べ、飲み込む。


 アルミ箔のパリパリとした音だけが深夜の山小屋の中に小さく響いた。






 富士山山頂付近の日の出は早い。

 早朝五時半ごろ、遥か彼方の雲海の先に眩い御来光が見える。

 地上の残暑を忘れる澄んだ山頂の秋風は、日の出も相まって特別を演出していた。


「―――修復(リペア)


 突き破ってしまった山小屋の屋根を修理し終わると、家族三人と共に山小屋を出る。


「あの……大丈夫ですか」


 母親が体調を気遣って声をかける。


「はい。おかげさまで大分良くなりました。ありがとうございます」


 仮面を着けた姿で、小さく頭を下げる。

 父母はそれよりも深く頭を下げた。


 少年は一歩前に出て、真っすぐに蓮を見上げる。


「ありがとう。……今日のことは全部忘れるから。安心して、銀の仮面」


 蓮は少年の目線に合わせて腰を下ろし、少年の頭を撫でた。


「……覚えてていいよ。でも、秘密」


 蓮は口元に人差し指を立て、頷いた。



 母が蓮におずおずと問いかける。


「本当によろしいんですか、私たちだけで?」

「はい。完全に落ち着いたのかを見届けてから帰ります。安心してください」


 落ち着いたように見える火口を一瞥して、蓮は小さく胸を張った。





 そして、家族から五歩離れ、振り返る。


「良いですね」

「…はい」


 蓮が左手をかざし、家族の足元に魔法陣が回り出す。


「―――瞬間移動テレポート


 淡い光に包まれた三人の姿は、数秒の静寂の後に消えた。

 父母は頭を深く下げ、少年は、笑顔で手を振っていた。




 再び独りになった山頂。思わず片膝を折る。


「くっ……ハァ、ハァ……」


 蓮は、重たい身体を引きずるようにして火口へ向かう。

 頭痛や目眩をこらえながらふらつく足取りで岩場へと向かい、小さなスフィアと三日月の旗槍を取り出し、岩陰に突き立てる。


 火口を望む位置にスフィアを設置し、魔力を慎重に注ぐ。


「―――幻理綴界ミラージュ・コード……」


 ──映像に映るのは、三日月の旗と、鎮静化した火口だけ。

 銀の仮面本人の姿は、どこにも映らない。


 風の吹く音以外、一切声もない。影もない。


 ライブカメラのように富士山の火口を映し続ける。


 蓮はスフィアの稼働を確認すると、その場にゆっくりと腰を下ろした。


 朝の風が、三日月の旗をかすかにはためかせる。




 火口からは、もはや噴煙の気配すらなく。ただ風だけが静かに通り過ぎていく。


 蓮は岩に背中をもたれさせ、そっと目を閉じた。


 全身の力が抜けていく。


 ――ちょっとだけ。

 ――昼まで、ほんのちょっとだけ休もう。


 そう言い聞かせながら、意識を手放した。






 銀の仮面の公式サイトには、常時開かれている匿名の問い合わせフォームが存在する。そこには、過去にも賛否両論、怒りや賞賛、時には罵倒に近い感情まで、様々な声が寄せられていた。


 しかしその日、そのフォームに届いた一通の投稿は、明らかに異質だった。


『はじめまして。私は、今日富士山に登っていた者です。富士山の噴火が起きる直前、山頂の火口の上空で魔法を使い、噴火を食い止めていた人を撮影しました。その人は、たぶん銀の仮面だと思います。映像の最後には彼が空から墜落する姿が一瞬だけ映っています。本人や関係者にとって不都合があれば公開しません。ただ、命がけで日本を守ったこの行動が、誰にも知られず、なかったことになるのはどうしても見過ごせません』


 投稿には、三分ほどの映像が添付されていた。

 通知を見た瞬間、胸の奥が跳ね上がるのを感じた。


 確認する。再生ボタンを押す。


 画面には──燃え上がる噴火口と、その真上で両腕を広げ、空中に浮かびながら幾重もの魔法陣を展開し、吹き飛ばされながらもひたすらに炎を抑え込もうとする銀の仮面の姿。


 ──そして、映像の終盤。


 炎が鎮まり、噴煙が収まると、彼は一瞬揺らぎ、光の尾を残しながら山小屋の方向へと急降下。

 画面が乱れ、映像はそこで切れた。


 白田の指が止まる。


 間違いない。あれは蓮だった。


 白田は、富士急ハイランドのベンチで富士山から立ち上る煙を遠く眺めていた。

 スマホの中に映る映像は、その近景。灼熱のマグマを間近に日本滅亡を食い止めようと必死に抗う蓮の姿があった。


 何かあればすぐに暗号アプリで連絡が来るはず。

 こちらから連絡をしてみたが、昼なのに既読がつかない。


 …恐らく蓮は、今もあそこにいる。この映像の山小屋の中にきっと今も、動けずにいる。


 白田は静かに立ち上がった。


「……待ってて、蓮くん」


 そう呟く声は、静かに、しかし確かに熱を帯びていた。





 白田は、迷うことなくタクシーに乗り込んだ。


「……蓮くん……」


 胸中で呼んだその名は、震えるように胸の奥に残った。暗号アプリには、既読のつかない一行が灯ったまま沈黙を続けていた。


 午後六時過ぎ、タクシーは富士スバルライン終点・富士山吉田口、五合目ロータリーに滑り込む。既に周囲は夕闇に包まれ、高地特有の空気が肌を刺すように冷たかった。


 白田がドアを開けかけた瞬間、運転手が焦ったように声をかけてきた。


「ちょっと、お嬢さん。まさかその格好でこれから登るつもりかい?」

「………」

「それは無謀ってもんだ。もう陽も落ちる。いくらか収まったとはいえ、この先の山小屋は閉まってる可能性が高いし、下手すりゃ命に関わるよ」


 運転手の忠告は、誇張でも過保護でもなかった。


 白田の服装は、あくまでも富士急ハイランドに遊びに来るための軽装だった。薄手のカーディガンとワンピース、街歩き用のスニーカー、一泊分の着替えが入った小さめのリュック。とてもじゃないが標高三七七六メートルの富士山山頂を目指せる装備ではない。


 しかし──それでも行かなくてはならなかった。


「……このあたりに泊まれる場所、ありますよね? 防寒具や装備が手に入るところとかは」


「ああ、あそこの見晴らし亭とかは素泊まりで入れるはずだ。防寒着や水なんかもあそこで売ってる。けど……今から登るのはよした方が良い。例年ならこの時期、登山道は閉鎖してるはずだったし、あんなことが起きてるんじゃ、もう誰も山頂にはいないと思っておいた方がいい」


 白田は黙ってうなずき、料金を支払うとすぐさま五合目の売店と小屋へと向かった。


 登山靴、登山リュック、手袋、防寒インナー、ウィンドブレーカー、ヘッドライト、携帯食、水、地図。急ごしらえながらも、必要な装備を一通り登山リュックに詰め込む。コインロッカーに小さいリュックを預け、借り受けた寝袋を肩に担ぎ、夜風に吹かれるまま、小屋の裏手にある簡易な談話室へと入った。


 地図を広げ、映像の中にあった山小屋の外観と火口の位置を照らし合わせる。登山経験はない。けれど、慎重に登れば、きっと彼のもとに辿り着ける。


「絶対に見つける……」


 そう小さく呟きながら、白田は拳を握った。


 山の夜は早い。午後七時を過ぎた空は、すっかり星々の海へと変わっていた。


 ──蓮は、まだ山頂にいる。きっと今も一人、倒れたままで。


 白田は逸る気持ちを押し殺し、リュックを枕にして身を横たえた。


 急いては事を仕損じる。今は明日に向けてしっかりと睡眠を取り、力を蓄えることが何より大切だと、理屈では分かっている。


 それでも、目を閉じたまま──彼女の心は、ずっと頂上を見つめていた。

次話は明日20時投稿予定です。

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