22話 熱海の風、碧く
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二人の人物が、突如この世から姿を消した。
一人は、反戦と共生を掲げた反日左派政党・社会平和党の党首、葉山紅。もう一人は、その葉山の助力を得て熱海市長選に出馬していた中国人・陳慧光。両者の死は、わずか二日という短い間に連続して判明し、全国を震撼させた。
──そして、例によって今回も、「銀の仮面」の公式サイトに、動画が投稿された。
《第五の天誅──葉山紅・陳慧光》
サムネイルには夜の海と、うっすらと映る筏の影。動画は四十余時間に及ぶ漂流の記録と、最後の瞬間を克明に映していた。終盤以降には、朝鮮人民軍の軍艦が筏に接近し、葉山を機銃で射殺する一部始終も収録されていた。
この映像により、日本の国会議員が、外国軍によって海上で射殺されたという衝撃の事実が明らかとなった。
当然、国内外に激震が走った。
だが、直後──朝鮮民主主義人民共和国外務省報道官は国営メディアを通じ、次のような声明を出した。
「わが国の海上警戒区域内に接近した不審な漂流者に対し、標準的な識別手順が機能しなかった結果、遺憾ながら排除措置が取られた。当該人物の国籍・所属・動機については確認中であるが、一部情報では韓国からの亡命者、もしくは対北スパイの可能性もあるとの報告を受けている。勇敢なる我が朝鮮人民軍の精鋭たちは敬愛する金将軍の領導と日々の弛まぬ厳しい訓練から得た教訓を基に忠実に職務を遂行したに過ぎない」
すなわち、北朝鮮側はあくまで「正体不明の漂流者」を排除したに過ぎないという立場を取り、葉山紅の名前にも社会平和党の存在にも一切触れなかった。
日本政府は抗議を試みたが、銀の仮面による拉致によるものとはいえ、葉山の行動自体が「越境行為」「外国の政治団体との接触の疑い」などグレーゾーンにあり、日朝国交のない現状では、明確な外交的対抗措置も取れなかった。
加えて、地上波テレビや大手新聞各社が報道に用いた映像は、公式サイトのものとは一部内容が異なっていた。特に、葉山が朝鮮民謡を口ずさみ、朝鮮語で名乗り、救助を懇願するシーンがカットされ、海上で単に漂流していた議員が“誤認射殺された”かのような編集が施されていた。
この改変に、ネット上では疑問と怒りの声が相次いだ。
「地上波の報道、ぜんっぜんフル映像と違うじゃん…朝鮮語で喋ってたとこ完全カットされてたぞ?」
「『私は祖国を愛しています、助けてください』って北に言ってたやつカットすんなよマジで。なんで被害者ぽく編集してんだよ」
「銀の仮面は何も喋らず映像だけ出したのに、マスコミが勝手にこういう背景でしたって補足してて草」
「政府のコメントがまるで他人事なんだが?国会議員が外国軍に殺されたのに何もできないって…てかあれ、国会議員じゃなくて「元スパイ」として扱われてんじゃ?」
「あの場面で「北朝鮮軍が引き金を引いた」ことをフル映像で見た人間はもう…。言葉にならん。闇が深すぎる」
熱海市長選は予定通り九月十八日に投開票が実施され、当初最有力と見られていた陳慧光の突然の失踪・死亡により情勢は急変した。
選挙戦終盤には、同党支持者による街宣活動や不在者投票の大量動員の動きもあったが、葉山・陳両名の失踪後は急速に沈静化。彼らを支持していた市外からの“移住者”の多くが、次々と姿を消していった。
最終的に、保守系の日本人候補が圧倒的得票を得て当選。選挙管理委員会によると、葉山派支持者の一部は棄権や白票に転じたとされる。
社会平和党は、党の看板と存在感を失い、事実上の壊滅状態に陥った。
事件を受けて、臨時国会の外務委員会でも質疑が行われた。
「我が国の国会議員が外国軍に射殺された。これを“外交的に問題なし”とするのか!」
野党議員が声を荒らげたが、与党側は明言を避け続けた。
「確認中の情報も多く、また北朝鮮との外交関係が存在しない現状では……」
「正確な事実関係の把握と並行し、冷静な対応が求められます」
政府側はそう繰り返すのみで、葉山の氏名にも立場にも具体的には触れず、あくまで“海上における不幸な事案”として処理しようとした。
傍聴席では、ため息と失望の声が漏れていた。
一方、世界各国の報道機関は、日本政府および国内主要メディアの一貫した沈黙に強い違和感と疑問を示し始めていた。
アメリカのFOXニュースは、日本国内で流された編集済み映像と、銀の仮面公式サイトに掲載されていた“無修正版フル映像”を比較分析し、特集番組の中で次のように報じた。
「日本国内の報道では、朝鮮人民軍軍艦から発砲される決定的な瞬間が意図的にカットされており、葉山紅が撃たれた場面が曖昧に処理されている。映像の切除と報道内容のすり替えは、国家による情報操作の一環と見られる」
イギリスのBBCも、現地レポーターを日本に派遣し、熱海市民の声や市長選挙への影響を詳細に報道。特集「DEMOCRACY IN SILENCE(沈黙の中の民主国家)」の中で、こう述べた。
「民主主義国家において、政党党首の突然の死とその映像が世界中に配信されたにもかかわらず、政府が公式見解を示さず、報道機関も核心に触れようとしない。これは明らかに説明責任の放棄であり、国内外の視点に大きな乖離が生じている」
韓国の朝鮮日報や中央日報は「北韓がなぜ旧知の日本議員を処分したのか」という視点から報道し、「かつて北韓に便宜を図っていた人物が、北韓によって射殺された」という皮肉な構図を強調した。
さらにドイツのシュピーゲル誌は、「日本政府は『確認中』という言葉で曖昧に済ませているが、それは沈黙ではなく“意図された不作為”だ」と論じ、フランスのル・モンド紙も「自由主義を標榜する日本で起きた検閲まがいの現象に、メディア倫理の警鐘を鳴らすべき」との論調を展開した。
こうした中、欧州議会の一部議員は「映像が明白であるにもかかわらず、政府が一切説明責任を果たさないのは問題である」と非難。国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)も、公式な声明ではないものの、「銀の仮面の公開映像と日本国内の報道に著しい乖離があり、表現・報道の自由に関わる事態だ」と懸念を表明した。
SNS上では、この報道姿勢の乖離が国民の不信をさらに増幅させていく。
「もはや日本の報道の自由度は、東南アジアレベルか?」
「政府が隠しているのは、葉山の正体か? それとも北との繋がりか?」
「真実を知るには、もはや国外報道に頼るしかない」
「知る権利を行使するには、日本国外のニュースを見ろってことかよ」
特に銀の仮面の公式サイトにおける映像には、射殺直前の葉山が朝鮮語で軍艦に語りかけ、最期に自らの名前と「社会平和党党首」と名乗った音声がはっきりと収録されており、これが地上波では当然のようにカットされて一切それには触れられなかったことが決定的な不信を生んだ。
放送各局のワイドショーでは、コメンテーターが「映像の信ぴょう性を検証する必要がある」と逃げ腰な発言に終始し、ニュース番組でも「外交的配慮のため」として北朝鮮側の軍艦による射撃について深く掘り下げようとしない。
一部のネットニュースや独立系メディアは比較的踏み込んだ分析を試みているものの、視聴率とスポンサーを重視する大手メディアは、依然として「事件性はない」とする政府見解に追従するのみであった。
テレビや新聞は控えめなトーンで「外交上の齟齬を防ぐ」「憶測を広げるべきではない」と報じ、SNSでは「政府が必死に真相を隠そうとしている」「情報の偏向が露骨すぎる」といった怒りが爆発的に拡散していった。
いずれも「日本政府の反応の鈍さ」に触れ、メディア各社は一斉に民主国家としての情報開示不足を問題視し始めていた。
また、銀の仮面公式サイトに投稿された無修正版と、各社ニュースで報道された編集済映像の内容差に注目が集まり、SNSでは「どこまでが事実か」「誰が、何のために、映像を削除したのか」といった議論が噴出した。
結果、海外の報道が引き金となり、ようやく日本国内のメディアも「なぜフル映像の重要部分が報道から削除されたのか?」という論点を取り上げ始める。
だがそれでもなお、政府の態度は変わらなかった。
【スレタイ】
【三日月党】銀の仮面支援スレ★8【祖国へ帰れ】
【191:無名の日本人】
今回の映像を見て、なんというか……呆れるよりも、虚しさの方が強いわ
日本の未来を考えてない国会議員がこんなにいんのかって
【197:無名の日本人】
祖国へ帰れってスレタイが、まさかあんな形で実現するとはな
陳慧光に向けて言ってたのが葉山も巻き添えにするとは思わなかった
泳いで帰れとまでは言ってねえよ…
【200:無名の日本人】
あの嵐、気象庁が「観測されてない」って言ってたぞ
つまり人工的に発生したってことか?魔法で?マジで?
【203:無名の日本人】
嵐が来る直前に現れた、あの木造船団──あれ元寇じゃね?
鎌倉時代に攻めてきたモンゴルの船、落水した兵士。完全にあの見た目してたわ
神風ってああいう意味だったのか…
【205:無名の日本人】
まさか元軍の船まで出してくるとは……演出のレベルが違いすぎる
歴史的象徴と現代の腐敗を重ねて、神の裁きとして描いたんだな
銀の仮面、エンタメでも説得力でも勝ってる
【208:無名の日本人】
葉山と陳、助けを求めて元軍の幻に叫んでたけど、誰一人助けに来なかった
つまり、日本に敵意を抱く者は、八百年前と同じように神風によって沈む運命ってことか
【213:無名の日本人】
気づけば“日本を守る”というテーマに、あんなに納得したのは初めてかも
神風はただの自然現象じゃなかった。今回は意思を持った風だった
【215:無名の日本人】
陳は海に落ちて葉山は何とか筏に残ったけどさ
元寇で神風に遭ったのは元軍兵士が多かったんだろ?
だから葉山は耐えたけど中国人の陳は波に攫われたって考えも出来るよな
【217:無名の日本人】
>>215
「お前の愛国心が本物なら自力で帰れ」の通り、陳は中国へ、葉山は北朝鮮へ
って言う配慮……なわけないか
【218:無名の日本人】
シンプルに「中国の脅威は断固として許さない」
ってメッセージを銀の仮面が神風に込めたに一票
【219:無名の日本人】
Nice boat.
【220:無名の日本人】
でも考えれば考えるほど銀の仮面の演出には鳥肌が立つ
考察スレもなかなかの盛り上がりっぷりだな
【225:無名の日本人】
てか、あれカットして放送してるのズルすぎん?
北朝鮮に撃たれたの、隠してどうすんだよ
公式からフル拾って来れんのにニュースで濁す意味ある?
早速海外メディアに突っつかれてるやん
【227:無名の日本人】
葉山が最期に歌ってた朝鮮歌謡、あれで全部分かったよ
あの人、日本人じゃなかった
思想も、帰属も、最初から
【230:無名の日本人】
>>227
統一列車は走るって歌ね
南北朝鮮が統一することを夢見て歌われた曲らしいけど
葉山は「どこまで」統一する夢を見てたんだろうな
【234:無名の日本人】
そういや葉山は日韓トンネルの推進派だったな
北京から平壌・ソウル・釜山・福岡を経由して大阪・東京までを繋ぐ鉄道構想
実現しなくて良かったマジで
【237:無名の日本人】
あの筏の上、もう人間の顔じゃなかったよ
絶望ってああいう表情になるんだな
【240:無名の日本人】
>>227
葉山じゃなくて朝鮮名で名乗ってたよな
あいつの根っこはやっぱり朝鮮人だったって訳だ
もう帰化議員やめようぜ?
日本の国政に関わる人間が帰化人なんて一番国益損なうんだからさ
【255:無名の日本人】
みんな、いつもの熱海がやっと戻ってきた
あの静けさがこんなにありがたいなんて思わなかったよ
この一ヶ月、観光客じゃない余所者が押し寄せて来てて見るからに治安悪化してたけど
ようやく枕を高くして眠れそうだ
ありがとう銀の仮面
【261:無名の日本人】
地元の者だけど、熱海が本当に静かになった。
観光客の笑い声が、ちゃんと「日本語」に戻ってる。
中国語ってなんであんな大声で耳障りなんだろう。久々に耳が痛くない外を歩けるよ。
いつの間にか感じてたあの違和感、今やっと抜けた気がする。
【264:無名の日本人】
そう言えば熱海駅前の広場に刺さったあの旗、いつの間にか消えちゃったんだよな
あれ、欲しかったなぁ
【266:無名の日本人】
>>264
あれはファングッズじゃなくてご本人使用の聖遺物だからなあ
どうせしばらく待ってたら誰かレプリカ作るだろ
電波ジャック背景の旗作ってる奴いたし
【280:無名の日本人】
>>266
作った
xxxxx://i.imgur.com/xxxxxxxxx
【283:無名の日本人】
>>280
さすがだwwwwww
【286:無名の日本人】
>>280
はいこれは即買いwwwwww
熱海の町は、久しぶりに本来の温もりを取り戻していた。
駅前のロータリーには、浴衣姿の親子が手をつないで歩き、旅館の仲居が笑顔で客を出迎える。商店街には地元の年配客と観光客が混ざり合い、軒先では蒸したまんじゅうの湯気が風にたなびいている。
以前まで聴こえていた大音量の外国語スピーカーは、影も形もない。代わりに、ゆったりと流れる地元ラジオが、「熱海に来てくださってありがとうございます」と穏やかに告げていた。
地元の銭湯では、老人たちが肩を並べて湯につかり、湯船の中で「やっぱりこれでないとねえ」と語り合う。
洗体も掛け湯もせず湯船に飛び込む中国人や、バシャバシャと飛沫をあちこちにまき散らしながらワーキャーと騒ぐ中国人がいないだけで、とても広く快適にゆったりと過ごせることを、身に染みて実感する。
その会話の中に、怒りも警戒もなかった。ただ、長く続いた重苦しさが、少しずつほどけていくような、安堵の吐息だけがあった。
公園では小学生たちが遊び声を上げ、放課後の部活動帰りの中学生が制服のままベンチで笑い合う。かつて選挙用に貼られていた“共生”の横断幕はなく、掲示板には地元の学童クラブのチラシが、紙の端を風に揺らしていた。
静かだった。
そして、その静けさこそが、かつてこの町の人々が「日常」と呼んでいたものだった。
この数週間、多くの住民が声を上げることすらできず、自分の町がどこか遠くの知らない場所のように感じていた。日本語が通じず、秩序が乱され、異様な熱に浮かされたような街並みの中で、人々は「ここに居てはいけないのではないか」とさえ思い詰めていた。
だが今、あの異様な喧騒と旗とシュプレヒコールの代わりに、海風と温泉の香りと、地元民の笑い声が帰ってきた。
かつての町が、確かにここにあった。
熱海市役所も、目に見える形でその変化を示していた。
庁舎前に設置されていた中国語・ハングル併記の看板はすべて撤去され、代わりに「日本語での丁寧な対応を心がけます」という紙の掲示が、市民課の窓口に貼り出されていた。
かつて市議会で可決されかけていた「多国籍市民代表枠の創設」案や「外国語による議会同時通訳の常設化」案は、今回の熱海市長選に当選した保守派の新市長により、関係資料ごと市議会公式サイトから姿を消し、担当課の職員が「現在その議題は凍結中です」と、申し訳なさそうに説明していた。
市役所内では一部の職員が机を囲み、小声で囁き合っていた。
「……なんだか夢みたいだよな」
「正直言って、俺たちも疑問だったんだ。でも“ヘイトだ”って言われるのが怖くて」
「あの人が動いてくれなかったら、今ごろまだ……」
その「あの人」が誰を指すかは、もはや明らかだった。
一方、地元メディアにも、微細ながら変化の兆しが現れていた。
かつて、熱海の“多文化化”を手放しで称賛していた地元の週刊誌『伊豆日報』は、最新号の巻頭に「混乱からの再出発――熱海の選択」と題した特集記事を掲載した。
記事の中では、外国籍候補による政治工作の危険性を初めて明確に指摘しつつ、今回の市民の静かな抵抗と、結果的に熱海市が守られた事実を伝えていた。
番組出演もしていたあるフリー記者は、編集後記でこう綴っていた。
「私はかつて、“多文化共生”という言葉を無邪気に使っていた。しかし、それが日本文化の否定に繋がる現場を見て、初めて自分の言葉の軽さを知った。日本人は譲り合ってお互いの間に緩衝地帯を作り、それを侵さないように暮らす人種だが、どこぞのお国の方々は譲られた分、全部自分に与えられたものと受け取って好き放題に踏み荒らすし、「もっと寄越せ・もっと下がれ」と強請ってくる。そもそもの価値観や常識が違う人に日本式で対応することが間違っていた。"郷に入ってくれる"と驕っていた部分が日本人側にあったと再認識した。今、改めて考える。真の多様性とは、一方的に譲って、注意すべきことを注意せずに飲み込んで我慢して、自分たちの土台を壊すことではないと」
それは、熱海という小さな町から、じわじわと広がる気付きの始まりだった。
テレビではいまだに言葉を濁す大手局もあったが、地元紙と地元ラジオは、はっきりと市民の声を伝え始めていた。
「外国人排斥ではない。町を守りたかっただけだ」と。
新市長として熱海市長に当選したのは、元市職員出身で保守系無所属の会社員男性だった。
帰化申請中の中国人が立候補するという危機的状況に矢も楯もたまらず名乗りを上げた、ごく普通の人物である。これまでに政治に関わった経験はなく、目立った実績があったわけでもない。だが、生まれも育ちも熱海で、地元では子どものころから顔なじみも多い彼は、市民の信頼を静かに積み重ねていった。
素直で誠実な性格、地元を知り尽くした中庸な立場の人物として、選挙戦でも最後まで中傷合戦に与せず、市民の「静かな暮らしを取り戻したい」という声に耳を傾け続けていた男である。彼の演説は地味ではあったが、町の空気に寄り添っていた。平穏な熱海を静かに訴えた結果、獲得票数はダントツ。外国人票が突如消えた影響もあり、開票速報では一位確定までにわずか十五分もかからなかった。
その静かな勝利は、多くの熱海市民にとって当たり前の生活を取り戻す第一歩となった。
そして、新市長が初登庁した週のうちに、熱海観光協会は異例とも言える速さで記者会見を開いた。
「これまで、国際化や多文化共生という方針で一部施策を進めて参りましたが、今回の一連の出来事を受け、今後は“日本らしさを大切にする町づくり”、“心のふるさと・熱海”を軸に再出発を図ります」
協会会長のこの発言は、市民だけでなく全国の保守系メディアや伝統文化関係者に驚きをもって迎えられた。その場には地元新聞、観光業界紙、さらにはテレビ局も駆けつけ、会場は静かな熱気に包まれた。
「温泉旅館での和のおもてなし」「地元神社での年間祭礼の復活」「純和風旅館への補助金拡充」「日本語ガイドの育成と雇用支援」など、具体的な施策案が次々と発表される。
また、長年観光協会の下で黙々と働いてきたある女性事務局員が、マイクの前で小さな声ながらもはっきりと語った。
「ようやく……“らしさ”を誇れるようになるんだと思いました。浴衣や風鈴、手ぬぐいの柄、畳のにおい……そういうものを“古い”って馬鹿にされるのが、ずっと悔しかったんです」
この一言は、SNSでも話題となり、「#熱海の誇り」「#和のおもてなし再興」などのタグが一時トレンド入りを果たす。
市内の旅館組合もすぐさま連携に動き、静かに過ごせる日本らしい宿という新たなブランド構想を掲げて再編に着手。都内の旅行代理店や修学旅行プランを提供する教育事業者との連携を再開し、かつての観光都市・熱海の魅力を再び全国へと発信する体制を整え始めた。
市役所観光課もその動きに呼応し、駅前の外国語スピーカーを撤去したスペースに、古風な木製の案内看板を設置した。檜を用いた丁寧な造りのそれは、通りかかった誰の目にも温もりを感じさせた。
看板には、毛筆の筆致でこう記されていた。
「ようこそ、和のまち熱海へ」
通りすがりの観光客が足を止め、懐かしげにシャッターを切る姿が少しずつ戻ってきた。宿の若女将が浴衣姿で手を振る。駅前の足湯には久々に子供たちの笑い声が響き、小さな神社では夕刻に篝火が焚かれ、鈴の音が風に揺れる。
秋の足音が、海風にほんのりと混じり始めた夕暮れの頃。熱海駅から少し歩いた高台の遊歩道に、二人の男女が佇んでいた。
スラックスにシャツ、肩から小さなリュックを提げ、観光客らしい服装の男性。
膝丈のスカートに落ち着いた色味のカーディガンを羽織った女性。
二人は言葉少なに並んで歩きながら、眼下に広がる街並みと、穏やかに輝く海原を見渡していた。そこには、かつて混乱と喧騒に包まれた面影はなかった。
鳥居の前で手を合わせる子供たち。駅前で浴衣姿の若者を見送りながら頭を下げる女将。焼きたての温泉まんじゅうの香り。紅葉しかけた山の緑。どこを切り取っても、日本人が日本人らしく呼吸できる空間が、確かにそこにあった。
「……随分、静かになりましたね」
女が小さく呟いた。
「うん。空気が……澄んでる」
男もまた、頷く。視線は遠く、山裾の方へ向けられていた。
そこには、まだ先年の土石流災害の爪痕が残る傾斜地がある。二年半前の大雨によって、かねてからの違法盛土が土砂崩れを引き起こし、大規模な土砂災害を及ぼした地。草がまばらに生え、露出した地肌が生々しく、傍らの擁壁もいびつに欠けていた。
男はふと立ち止まり、指先をそっと掲げる。周囲に人影がないのを確かめると、静かに目を閉じ、小声で何かを唱えた。
その瞬間、風もないのにシャツがふわりと揺れ、淡い光が地面に波紋のように広がる。崩れかけた斜面に、滑らかな石材のような壁が音もなく築かれていった。表面には苔を模した文様が浮かび、遠目には自然と同化するような柔らかな色合いをしている。
「……せっかくの休みなのに、そんなことまでしちゃうんですか」
女が微笑ましげに言うと、男は少し照れたように肩をすくめた。
「つい、ね。ごめん」
「謝ることないですよ。……らしいと思いますよ」
女がそう返すと、男も口元を緩めた。
二人はもう一度だけ町の景色を見渡し、それからゆっくりと歩き出した。
誰にも気づかれぬまま、喧騒を残さずに。
ただ、その背に差し込む西日だけが、確かにそこに“何か”があったことを、静かに語っていた。
そして熱海の街は、今日も静かに、穏やかに、暮れていく──。
次話は明日20時投稿予定です。
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