20話 市政紅旗
明日2025年7月20日(日)が第27回参議院議員通常選挙当日となります。
皆様の気になる政党・候補はございますか?私はあります。
選挙開始以前から、絶対にここに入れようと心に決めた党があります。
熱海の海は、あの日も穏やかに光をたたえていた。
春を告げる潮風が旅館街を吹き抜け、硫黄の香りと温泉の湯けむりが空へと溶けていく。東京から電車で二時間、観光地として賑わいを取り戻しつつあった静岡県熱海市に、思わぬ一報が舞い込んだのは、そんな穏やかな午後のことだった。
社会平和党党首・葉山紅が、突如記者会見を開き、熱海市長選挙への「新たな候補者擁立」を発表したのである。
「この国には、もう日本人だけの政治は必要ありません。真の共生を示すため、多文化都市・熱海から新しい時代を切り拓きます」
壇上に現れたのは、痩身でスーツに身を包んだ分厚い眼鏡の壮年の男。肌の色は浅黒く、硬い髪を七三に撫でつけていた。
「ご紹介いたします。次期熱海市長候補、陳慧光氏です」
フラッシュが弾ける中、陳は無表情のまま一礼し、はっきりとした声で語り出した。
「初めましテ、陳慧光です。ワタシは中国浙江省の出身です。来日から十五年、観光と不動産の仕事通じて、日本と中国の懸け橋ナル努力をしてました。多民族の力でこの町を再生させタイ思います」
一瞬、会場が静まり返る。だが、次の瞬間、葉山は続けた。
「現在、帰化申請中であることは問題ではありません。むしろ国籍の壁を超えた市政こそが、令和時代の自治体のあるべき姿です」
記者がすかさず手を上げる。
「……帰化完了前の外国籍の人物を市長候補に? 公職選挙法に抵触する可能性については?」
「公職選挙法は時代遅れです。国籍で差別をするのはヘイト。私たちはその法律を変えるつもりです」
葉山の断言に、会場がざわついた。
その夜、ネット上では過去に陳が発言していた内容が掘り起こされ、瞬く間に拡散された。
『日本は日本人だけの物じゃない』
『ワタシはワタシの夢のために帰化します。日本のため、中国のためじゃナイ、ワタシの理想を叶えるタメです』
『陳慧光はワタシの本名じゃないです。名前も生まれも別にあるです』
『靖国神社は閉店すべき』
『何があっても戦争してはいけない"戦争禁止法"を作る』
発言の真偽を問う声もあったが、発言は映像付きで残されており、言い逃れは不可能だった。
炎上は一気に拡大した。保守系論客はテレビで「国家への挑戦」と激昂し、SNSでは「外国人による地方乗っ取り」がトレンド入り。だが、葉山は会見でこう一蹴した。
「それはネット右翼による差別扇動です。私たちは人権と多様性を重んじる、未来の日本の先駆者です」
彼女の口調には一片の迷いもなかった。
その翌日、社会平和党は公式に陳の熱海市長選出馬を支援すると発表し、全国の党員に向けて「熱海に転居する方には一律二十万円の住宅補助を出す」とのご親切な文書が配信された。
これに応じる形で、全国の活動家や支持者が続々と熱海に“移住”する。
わずか二週間で、熱海の人口は五千人以上も“急増”した。
市役所の住民課には連日、長蛇の列。現地の行政職員たちは戸惑いながらも住民登録を受け入れ、住民票を交付し続けた。
「短期滞在者がこんなに増えてどうするんですか!」
「選挙後に全員抜けたら、住民基本台帳が穴だらけになります!」
「受け入れを拒否できないんですか?」
「それは…できない…。こいつらはあくまでも合法的に引っ越してきているだけ、それを止めることは…無理だ」
自治体の中から悲鳴にも似た声が漏れたが、県や国は何も言わなかった。葉山がテレビでこう断じたからだ。
「国民主権とは、国籍による排除ではなく、思想と理念による選択です。新しい形の“主権者”が、この国には必要なのです」
この発言がNHKの特集で好意的に取り上げられると、大手メディアも次々と葉山の「先進的試み」を支持する論調に転じた。
朝刊の一面には「静岡・熱海から始まる新たな自治の挑戦」という見出しが踊る。
熱海の駅前には“ようこそ、多民族共生のまちへ”と書かれた横断幕が掲げられた。
一方、地元住民は、苛立ちと不安を募らせていく。
温泉宿の老夫婦は戸惑っていた。
「最近、見たことない若い人が大勢越してきて、地元の公園や銭湯で騒ぐんですよ……」
「『外国人差別だ』って怒鳴られたって、うちの女将が言ってました……」
地元の掲示板アプリでは「街が乗っ取られていく」「声を上げたらヘイト扱いされる」といった悲鳴が飛び交う。
中には地元中学校に勝手に掲示された中国語の横断幕や、スピーカーから流れる中国語の選挙演説への苦情もあった。
だが、それを報じたのはネットメディアと一部の地方紙だけだった。
大手新聞・テレビは「一部の排外主義者による差別扇動」として切り捨てた。
熱海に、静かに、確実に不穏が広がっていた。
熱海市役所の前には、真新しい中国語とハングルの案内板が立ち並んでいた。
“外国人に優しいまち・熱海”と題された市公式パンフレットには、外国人居住者向けの生活支援制度や多文化共生を推進するための助成金制度が大きく掲載されており、日本語よりも多言語表記が目立っていた。
それに気づいた市民の一人が、スマートフォンで写真を撮ってSNSに投稿すると、たちまち数万件のリポストといいねが付いた。
「これはもう熱海じゃない」
「多文化共生って、日本文化の破壊ってことか?」
「日本人の税金で日本を壊すの、マジでやめてくれ」
市民たちの憤りの声とは裏腹に、熱海の街には次々と活動員が送り込まれていた。
長期滞在用の民泊が急増し、その多くが社会平和党とつながりのあるNPO法人や市民団体を通じて手配されたものであることが、ネットの調査で次第に明らかになっていく。
活動員は、街頭で「多文化共生こそ未来のかたち」と印刷されたビラを配り、観光地での外国語スピーチ集会を頻繁に開催。地元の小学校では突如、「外国人の生活を理解する授業」と称して、中国・韓国・中東諸国の文化紹介が行われ始めた。
それを聞いた保護者の一人が、学校に抗議した。
「うちの子、帰ってきて『これからは国籍関係なく市長を選ぶ時代なんだって』って言ったんですよ。いったい誰がそんなこと教えたんですか?」
しかし学校側は、「国の教育方針に準じた多様性教育です」と取り合わない。
警察にも相談が寄せられた。が、県警は慎重な態度を崩さず、「特段の違法行為があったわけではない」「市民団体の活動を規制することはできない」との一点張り。
一方、SNS上では匿名の声が日々増え続けていた。
「公園が占拠されてる」
「昼間から酒盛りしてて、注意したら差別か!って逆ギレされた」
「旅館に外国語スピーカーが設置されて、客が激減した」
地元商店街の理事会では、ついに臨時総会が開かれた。
「このままじゃ商売にならねえ!」
「『外国語話せないならもう来ない』って言われたんだぞ!? なんでこっちが合わせなきゃなんねぇんだよ!」
高齢の理事たちが、次々に声を上げる。
だが、そんな怒りを冷や水のように冷ますような報道が、地上波のニュースで流れた。
『熱海の多文化共生、先進都市モデルとして評価』
『国連人権委員会、日本の地方自治における進展を称賛』
『“新しい日本人”たちが作る未来の地方自治』
スタジオではコメンテーターが笑顔で語っていた。
「なんのかんの言ってもね、日本人は隣人との交流に臆病なんですよ。もっと心を開いて受け止めるくらいの器を見せてやらないと。そろそろ多様性という言葉の本当の意味を理解すべきです」
テレビを見ていた地元の老婆が、吐き捨てるように言った。
「もう、テレビの中の人たちは日本のことなんてどうでもいいんだねぇ……」
その日の夜、X上に、一本のポストが動画付きで投下された。
「熱海が地元なんだけど、知らない国になっていく。住んでるだけで、日本人ってだけで悪人みたいに扱われる。子供も『市長は外国人になるんだよね?』って当たり前の顔で言うんだ。こんな熱海は嫌だ。怖くて夜は絶対に外に出られない。俺は、こんなの間違ってるって、言っていいんだよな?」
その文面の下には1分ほどの映像。
棒を持ってうろついている中国人たちがコンビニの駐車場で一人の日本人男性を取り囲み、口論の末に髪やバッグを掴んで日本人男性を引き倒して、棒などで滅多打ちにするもの。
この投稿は瞬く間に拡散された。
返信が次々と寄せられる。
「ひでえ…これ本当に熱海かよ」
「言っていい、むしろ言うべきだ」
「銀の仮面、見てるか? 熱海はもう限界だ。誰かが止めないと、本当に取り返しがつかなくなる」
「熱海が中国になっちまう」
「銀の仮面、助けてくれ」
「熱海を守ってくれよ、誰か熱海市長選に立候補してくれよ頼む」
熱海市役所前の掲示板に、一枚のビラが貼り出された。
──『銀の仮面へ。私たちは、あなたの裁きを望んでいます』
その下には、百を超える署名が並んでいた。
地元住民の手によって書かれた名前の列。
そのビラを、酔っ払った東洋系の男が無作法に壁から破るように剥がし、鼻をかみ、乱暴に丸めてその辺に捨てる。
夜の熱海はすっかり日本人が出歩くことの出来ない街へと変貌していた。
かつては浴衣のまま外を出歩けた、長閑で風情ある街並みがどんどん紅く塗りつぶされていく。
観光地の賑わいとは程遠い。通りには酒に酔った外国語の怒号が響き、昔ながらの旅館や商店の戸が硬く閉ざされたまま。かつては修学旅行生が楽しげに歩いていた海岸通りに、人影はほとんどない。
だが、その裏側では、確かに何かが蠢いていた。
掲示板やSNSでは、「銀の仮面」の名が一日に何百回も叫ばれるようになっていた。公式サイトには全国からの支援や告発が殺到し、白田は、日ごとに厚みを増す報告を読み上げるたびに、言葉を詰まらせていた。
「……これはもう、黙って見ていられる状況じゃない」
東京・中野の白田の自宅。夜半過ぎ。
白田の眼鏡の奥の目が苦々しく細められるそばで、白田の操作するディスプレイを見つめていた蓮が拳を握り締めながらそう言った。
送られてきた映像には、怒号を浴びせられる老婦人、学校の掲示板に貼られた中国語・韓国語のポスター、地元住民を罵倒する活動員の姿――そして、薄暗い熱海市役所前の壁に貼られたビラの写真があった。
──『銀の仮面へ。私たちは、あなたの裁きを望んでいます』
それを撮影したのは、熱海のとある高校に通う女子生徒だった。
夕暮れの道を一人で歩きながら撮影した彼女は、投稿文の末尾にこう綴っていた。
《熱海は、もう怖いです。けど、私の故郷なんです、逃げたくないんです。……お願いです、銀の仮面さん。助けてください。私たちの故郷を助けてください》
蓮は、胸の奥で何かが静かに燃え上がるのを感じた。
地元住民の苦しみ。日本人としての尊厳の喪失。そして、子供たちが怯え、未来に希望を持てなくなっている現実。
それは、蓮がかつてエルディアで出会った、ある小さな国を思い出させた。
魔族勢力圏と程近い位置にあった、とある人間の小国家は、定期的に金と生贄を納めれば町や村を襲撃しないと言う魔族との取引を受け入れ、それによって生き永らえていた。だがいつしかその小国家に魔族の住民が増え、魔族の商人・有力者が入り込み、都の運営や経営にまで絡み始め、城門の閂に手が掛かってから一瞬にして国は乗っ取られた。
外から来た者によってその国の王族・市民・全ての人間は一人残らず捕らえられ、滅んだ。
壊された秩序。奪われた生活。束の間の偽りの平穏を享受し、油断したところを一気に突き崩す。
初めは弱火でじっくりと温め、気付かぬうちに釜の中は茹でられていた。静かな侵略だった。
――熱海は、あの国と同じだ。
同じ末路を辿るその前に、誰かが声を上げなければならない。
「……決めた」
蓮は席を立った。
白田が顔を上げる。
「行くんですね」
「ああ。あいつらは美辞麗句を並べて絶望をばら撒いている。それによって助けを求めている人がいる。ならば、俺がやるべきことは一つだ」
白田は、眼鏡を外してそっと頷いた。
「そう来ると思ってました。私はいつでも準備OKです。あとは蓮くんの決断待ちでしたよ」
蓮は、亜空間から銀色の仮面を手に取り、その冷たい金属の感触を確かめるように指先で撫でた。
「日本は、俺たちのものだ。調子の良い事ばかり言って、中国の好き放題にさせてたまるか」
冷静な口調の中に、確かな怒りと覚悟が沸き起こる。
窓から見える東京の空にも、いつの間にか雲が立ち込めていたが。
正義の名のもとに、日本を覆い隠そうとする暗雲を晴らすべく、静寂の中に熱い火を灯した。
二〇二五年九月十五日。
夜の熱海駅前広場には、選挙戦最終盤の喧騒がこだましていた。選挙カーのスピーカーからはけたたましい音量で演説が流れ、煌々と照らされたライトが顔を照らし、ボランティアたちは手を振りながら通行人に笑顔でビラを配る。その光景はまるでフェスティバルのようだったが、聞こえてくる言葉のほとんどは日本語ではなかった。
広場を包むのは、簡体字とハングルの混ざった喧騒。まるでここだけが異国の飛び地となったかのような、重く湿った空気が漂っていた。
選挙カーのルーフステージの上でマイクを握るのは葉山。背筋を伸ばして両手を広げ、観衆に向かって誇らしげに声を張り上げる。その隣には、中国人でありながら帰化申請中という立場で熱海市長選に立候補している陳慧光が堂々と立っていた。
社会平和党のスタッフが選挙カー背後に大型ディスプレイを設置し、そこでは「熱海を国際都市に!」というメッセージが、日本語の小さな字幕を添えて、主に中国語と韓国語で繰り返し流れていた。
配布されるビラの文言も「共通アジア経済圏をつくろう」「民族主義にレッドカードを」「アジアの仲間たちと新たな未来へ」といったもので、活動員たちは外国語のシュプレヒコールを夜空に響かせていた。
「日本は日本人だけのものじゃないんです!これからの日本は、アジアのすべての人たちと共に歩むべきです!」
葉山は紅潮した顔で絶叫し、右手を空へ突き上げた。その眼は異様な熱気に満ち、陶酔とも錯乱ともつかない光を帯びていた。
「熱海を、国際観光都市として再生させましょう!ワタシたちの政党が実現します!」
陳もまたマイクを取り、カタコトの日本語で熱弁を振るう。だがその発音は明らかに不自然で、滑舌も悪く、発言内容の多くはプロンプターに表示されたスクリプトの読み上げでしかなかった。
市民たちは次第に口を閉ざし、徐々に広場を後にし始めていた。集まっていたのは、演説に熱狂するのではなく、様子を見に来た冷ややかな目の市民たちだった。
その瞬間――
天空を切り裂く閃光が走った。
雷鳴のような轟音と共に、白銀の閃きが夜空を貫き、地上へと突き刺さる。
ズドンという重低音が響き渡り、選挙カーのすぐ近く、歩道の中央に一本の旗槍が突き刺さった。
旗は銀と黒の布地。中央には光り輝く三日月の紋章。
突如として吹き荒れる突風。
旗を中心にして、足元から広がる青白い魔法陣が地面を包み込み、螺旋を描くように光を放つ。その幾何学模様は、まるで封印を解くかのように徐々に強さを増していた。
「な、なに……?なにが……!?」
葉山が恐怖に歪んだ表情でマイクを落とし、陳は足をもつれさせて後ずさる。
魔法陣は選挙カーのルーフステージの上へと駆け上がり、二人の足元に鮮やかな光輪を描いた。そして次の瞬間、巨大な光柱が地を貫き、空へ向かって噴き上がった。
光の柱に包まれた二人の姿が、溶けるように消える。
音が消えた。風も止まった。
そこに残されたのは、三日月の旗だけだった。
静まり返った広場のあちこちから、低くざわめく声が上がる。
「三日月の旗……銀の仮面……?」
「天誅だ……!天誅が始まったんだ!」
誰かがスマホを取り出し、銀の仮面の公式サイトにアクセスし始める。それが合図のように、周囲の人々も次々と画面を覗き込み、騒ぎ始めた。
やがて選挙カーの後ろに取り付けられていた大型ディスプレイがブラックアウトし、そして再び明転した。
画面に映し出されたのは、漆黒の海原。
月も星もない空の下に、粗末な筏が浮かんでいた。
その上には、葉山紅と陳慧光。
二人とも、足元の安定しない木製の筏にへたり込み、呆然と海を見渡している。
そしてその頭上。
暗雲に閉ざされた夜空の中に、ひときわ輝く銀のシルエット。
銀の仮面。
マントを翻し、足元に魔力の円陣を浮かべて宙に浮くその姿は、まさにこの世の裁定者のごとき威容だった。
そして、静かに語り始める。
「葉山紅──お前はこの国の法を盾に、裏切りを多様化と呼び、反日を人権とすり替えた。存在しない従軍慰安婦問題を捏造して日本人の名誉を深く貶めた。外国勢力との癒着、国家機密の流出、国民の生命財産の切り売り、そのいずれもが許されざる背信行為だ。到底、国政政党の党首としての振る舞いに相応しい物とは言えない」
「陳慧光──お前は帰化申請中の身でありながら、堂々と外国旗を掲げ、日本の自治に干渉しようとした。これは侵略であり、工作活動であり、日本国民への侮辱に他ならない」
「よって、ここに流刑を執行する」
「ただし、お前たちにはチャンスを与える。愛してやまぬ祖国へ、自力で辿り着くがいい。お前たちの愛国心とやらを見せてみよ」
海がざわめいた。
低い唸りを上げて、遥か彼方の空で雷光が閃く。
銀の仮面はそれ以上何も言わず、霧のように姿を消した。
筏の上には、オールが一本だけ。
呆然とした葉山と陳だけが取り残される。
水面には星の光すら映らず、月も見えない。
静まり返った夜の海の中、たった二人だけの、孤独で絶望的な漂流が始まった。
その光景は、熱海駅前で、銀の仮面の公式サイトでライブ配信され、同時接続数は瞬く間に数百万を超えていった。
筏の上には、呆然とした葉山と陳だけが取り残された。
水面には星の光すら映らず、月も見えない。
海も空も真っ黒に塗りつぶされた果てしない闇を、命を預けるにはとても頼りない小さな筏が揺蕩う。
ネット上では次々と「#天誅第五号」「#銀の審判」といったタグがトレンド入りし、掲示板やSNSは騒然となる。
波間に揺られる筏。風も波もほとんどない、不気味な静寂が支配する中、やがて陳が眼鏡を直しながら震える声で言った。
「……な、なんなのアレ……どうなってるデスカ……!? 夢か何かデスカ……!?」
「ふ、ふざけんじゃないわよ……!こんなやり方が許されていいわけがない……!私は、私は国会議員なのよ……!」
葉山は震える手でスマートフォンを取り出すが、当然ながら圏外。GPSも反応せず、ただ「圏外」とだけ表示された画面に、彼女の顔はみるみる蒼白に染まった。
「……通信が……通じない……ッ、ありえない……これは……これは違法拘束、女性誘拐!外患誘致だ!国際問題だ!国連に訴えてやるッ!団体が黙っていないわよッ!!」
葉山が喚き立て、筏を揺らすように立ち上がるが、不安定な足場に体を取られ、よろめく。
「落ち着いて葉山サン!揺らさないで!」
陳が叫びながら筏の端を掴むが、葉山はなおも足元を踏み鳴らして憤る。
「どうして私がこんな目に……!誰か……誰か助けて……!! 政府はどこ!?外務省は!?これは国家の危機よ!……どうせネトウヨの仕業なんでしょ、私には分かるわ。全部ネトウヨが悪いって私にはお見通しなんだからね!!」
その瞬間だった。
海がざわめき、空が唸った。風が吹き始めた。
最初は微かな潮風だった。だが、それは次第に強く、鋭く、唸るような突風へと変わっていった。
波がうねりをあげ、黒い雲が空を覆い始める。
遠くの水平線の先、暗闇の中にぼんやりと浮かぶ影。
幾十、いや、幾百もの木造の大艦隊が松明の明かりに浮かび上がる。
「な、なんだアレは……!? 船……? 漁船じゃない……?」
陳が指さし、葉山が目を凝らす。
それは現代ではもう見ない、かなり古めかしい様式。
綱で結ばれた帆船の艦隊はさながら絵巻で見た古の艦船。遣隋使や遣唐使の時代のそれに酷似していた。
怒涛のごとき波に押されてこちらへと進んでくる。
「た、助けて!そこの船、私たちを、助けてください!!」
葉山は必死に手を振り、喉を枯らして叫ぶ。
陳も続けて何か中国語で叫びながら、服を脱いでオールに結んで振る。
しかし、船は何の反応も示さない。まるで彼らの存在を認識していないかのように、直進してくる。
風がうなる。波が高鳴る。
次の瞬間、先頭の船のひとつが突風に押され、横転。
続く艦も次々と帆柱を折り、船体をぶつけ合い、木片を撒き散らして海に沈んでいく。
「な、なによこれ……船が……沈んだ……!?」
「そんな……オカシイ………ッ……!!」
その叫びをかき消すように、天が裂けた。雷光が奔り、暴風雨が襲いかかる。
筏は大きく傾き、二人は必死に縁を掴んでしがみつく。
だが、波が突き上げた瞬間、陳の手が滑った。
「──ッアァアアアッッ!!」
そのまま、暗黒の海に投げ出された。
「陳!!」
葉山が手を伸ばすも届かず、陳の姿は波間に消えた。
無数の木片が海に浮かび、先ほどまでの艦隊の残骸が潮に流されていく。
葉山は残された半壊の筏にしがみつき、叫んだ。
「うそ……やだ………なんで私が……こんな目にッ…!」
嵐はなおも勢いを増し、世界を覆い尽くすかのような咆哮を上げ続けた。
空からの雨は刃のように肌を打ちつけ、海は巨人のようにあらゆる物を押し流そうとしていた。
その中で、木造艦隊の残骸から溺れかけた人影がいくつか浮かび上がる。
彼らは皆、鎧兜をまとった兵士姿。重く不揃いの鎧を着けたまま沈んでいく。
彼らは叫ぶことも出来ず、海面から助けを求めるように手を突き出しながら、海に沈んでいった。
陳は海中に投げ出され、もはやその消息は分からない。
半壊した筏には、葉山紅ただ一人。
オールを失った筏は行く宛ても分からず、海流に全てを任せて押し流されていく。
その行き先に何が待つのか、葉山はまだ知らない──
が、視聴者はすでに予感していた。
この流刑の果てに、彼女が迎える運命を。
次話は明日10時投稿予定です。
この話が面白いと思った方は★★★★★を押していただけると幸いです。
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