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2話 “一万円札”の男・雨宮誠一

 薄汚れた雑踏の中を歩きながら、蓮は左手を軽く握ったまま顔に近づけた。


 剣と魔法の異世界・エルディアにて得たスキル・アイテムボックスにはありとあらゆる物が収納できる。

 生命体・極端に大きすぎるものは収納できないが、大抵の物が収められるこのアイテムボックスの中には異世界で過ごした五年分の戦利品が多く保存されている。

 世界の狭間を超えた衝撃で破損した物や、エラーを起こして取り出せなくなってしまった物も数多くあるが。


 その掌には、異世界・エルディアから持ち帰った金貨のうち一枚が握られている。


 鮮やかな金の輝き。表面には勇者の加護を示す紋章が刻まれていた。かつて人間諸国家が使っていた正規貨幣。

 純度は極めて高く、表面には一切の腐食や摩耗もない。


 蓮は一度、立ち止まって辺りを見回した。中野──召喚前によく通ったエリアだ。

 かつて「古銭も扱うマニア向けの貴金属買取店」が、あの雑居ビルの五階に入っていたはずだ。


「……あったな、確かこの通りだった」


 彼はかつての記憶を頼りに、鈍いグレーの外壁が特徴の老朽ビルへと足を踏み入れた。

 エレベーターは使えず、階段で五階まで上がる。かすれた看板には【宝誠堂】とある。


 その店は、今も営業していた。

 ドア横の廊下には「コイン・宝石・貴金属 高価買取 宝誠堂」と書かれた看板が出されている。

 ガラスが中央に嵌められた赤い鉄のドアの奥から蛍光灯の光が漏れていた。



 店の奥、カウンターの向こう側には、初老の日本人男性が退屈そうに座っていた。

 丸眼鏡をかけ、扇風機の風に白髪が揺れている。よれた白シャツにネクタイすら締めていない。

 その姿には、かつては真面目一筋だった職人気質の名残と、時代の流れに押し流された疲労が同居していた。


「ごめんください、買取をお願いしても良いですか」


 しばらく来客がなかったのか、完全に気を抜いていた店主だったが、蓮がポケットから取り出した金貨三枚を目にした瞬間、男の目の奥に光が灯った。


「……これは……」


 にわかに腰を上げた店主は手元のルーペで金貨をじっくりと観察しながら、低く唸った。


「ほう……!これは中々珍しい……今までこんなデザインは見たことがないな…。うーん、アメリカでもヨーロッパでもなさそうだ。ペルシア、エジプト、ローマでもないか…私鋳貨にしては精巧すぎるし、状態が新しいから発掘品でもない……うーむ…。デザインは大分西洋寄りだがどこの物か皆目見当がつかんな…。――もしかして…いや、そんな事は関係ないですね。今の世の中、いろんな事情があるでしょう」


 タブレットで金相場を確認しつつ、彼はテスターを金貨に当て、測定を続ける。


「――九十九.九パーセント。まず間違いなくこれは純金ですね。彫りも細かく優雅、腐食も磨きもなし……充分過ぎるほどの本物の仕事ですね。しかしねぇ…由来と真贋が分からないと……」


 頭を悩ませる店主に蓮は無理に買い取ってほしいわけではないと伝える。


「いや、そんなに困ってるわけじゃないですし、何なら買取とかは置いといて、これなら目安でいくらくらいになる、とかでも全然いいですよ」


「せっかく持ち込んでいただいたんですから、商売人としてはお応えしたいんですよ。これがいつどこの国で造られたかがはっきりすれば、納得していただける額を提示できるんですが…。この頃金が高騰してまして、地金としての買い取りでもそれなりの額にはなると思いますが、鋳つぶすには些か惜しいデザインですからね。好事家には受けるでしょうが、これが現行通貨なのか旧通貨なのかもまるっきり謎だとこちらも扱いに迷いますし…」


 首を二度三度と曲げながら悩んだ店主だったが、どうにもならない問題を解決する事をすっぱり諦め、店の奥に向かってスタスタと歩きだす。


「──もういいか。謎の純金メダルとして売れば。もうどうせそんな品物ばっかりなんだから今更だ」


 店主は苦笑しながら伝票を棚から取り出す。

 その表情は商人のものというよりも、かつて理想を持って商売を始めた者が様々な現実につぶされ、疲れ切った顔だった。


「本当なら……こんな裏の物ばかりの店にはしたくなかったんだがな。昔は、ここと骨董通りじゃお客に夢を売ってた。夢だけじゃないな、ロマンとワクワクを……真っ当な趣味の品をな」


 彼はちらりと店の奥の棚に目をやる。

 そこには、現在取り扱っている「実用品」──サバイバルナイフ、スタンガン、催涙スプレー、統一感のないスマホ、出どころ不明のジュエリー、おそらく闇ルート経由の薬品アンプル類が並んでいた。


「でも、今は……誰も正直に生きちゃいない。こっちも、生きるためにはそういう波に飲まれるしかないんですよ」


 長いため息を吐いた店主はやがて小さく頭を振り、


「いやはや、悪いね。最近外国人の嫌な客ばっかりだったからさ。つい吐き出したくなっちまったんだよ。すまないね」


 と詫び、気を取り直すように、口調を変えた。


「さて……この金貨、一枚につき百万円で三枚とも買い取らせてくれませんか。これだけの純度と細工なら、通貨ではなくメダルと言う事にしても、マニアには刺さるでしょう。今なら即金で渡せますよ」


 蓮は思わず目を見開いた。

 異世界では大金貨に次ぐ補助として使っていた金貨が、日本で現金化の目途が立った。

 途中やや危うい空気を感じたが、一枚百万円相当の値が付いた。

 しかも、三枚全て買取が成立したので三百万円。たった三枚の金貨で生活再建の目処が立つほどの金額が手に入るとは、予想していなかった。


「ではそれでお願いします。あとは……また必要な時に」


「それが賢明かと。これだけの品を持ち歩くのは、今の日本じゃ危ない。……くれぐれもお気をつけて」


 一通の封筒を添えてトレイに出された札束。三百万円分の日本円。

 それは、失われた十五年の時を繋ぐ現実的な足がかりだった。

 封筒に金を詰めようと札束に目を落とした瞬間、蓮の眉が僅かに動いた。


(……これは……)


 そこに描かれていたのは使い馴染みのある福沢諭吉ではなく──道中のオーロラビジョンやテレビのニュース映像で何度も見た、あの顔だった。

 現在の内閣総理大臣。自民党総裁。反日的な言動を隠そうとせず、中韓への利益供与に明け暮れ、日本を売ることにすら躊躇のないとされる売国政治家。

 あらゆる汚職疑惑が取り沙汰されながら、いまだに逮捕も辞任もされないその男の顔が、日本の通貨の中心に鎮座していた。


 皮肉な笑みが、蓮の唇をかすめた。


(……これが、“価値”の象徴か)


 異世界では、硬貨に刻まれるのは王族か、信仰の象徴だった。

 人々が誇りに思える存在。誰もが敬意を抱ける人物。

 だが今の日本では、金の象徴にすら「腐敗」が描かれている。

 日本の土地や平和を金で売り飛ばしている張本人が、日本の紙幣の最高額面の肖像画に鎮座しているのはなんたる皮肉か。


 蓮は札束と目が合わないように焦点をずらしつつ、ゆっくりと封筒に入れた。


「では」

「ありがとうございました」


 蓮の顔に刻まれたのは、冷たい怒りと、決意の色だった。




 三百万円をすぐさまアイテムボックスにしまった蓮は、街の雑踏へと戻った。


 身を隠すために今日選んだのは、高田馬場地区にある古びた雀荘・スナック通りの一角。明らかに中古の得体のしれない品物を並べる路地裏の店舗は、どこも外国人観光客向けの派手なポップで埋め尽くされていたが、店員は明らかに"壊れた日本"に馴化した日本人だった。


 蓮は簡単なやり取りで、通話と最低限の通信機能がある型落ちの格安スマホを一台購入した。購入には五千円もしなかったが、それで十分だった。


 道中で、今後日本での暮らしを再開するにあたって大量の衣服や消耗品日用品、水と携帯食料などを買ってアイテムボックスにしまい込む。

 つい先ほど換金したうちの四十万円ほどを使ってしまったが、しばらく外出できなくなる状況でも過ごせる体制を整えたかった。


 ひとまずのストックを終えたその足で、近くのネットカフェに向かった。

 かつての日本でもネットカフェはあちこちでよく見かけたが、今の施設はどこか殺伐としていた。


 受付にはアフリカの商店さながらに鉄格子がはまり、明らかにバリケードとして客と店の境界が明確になった。

 壁の薄いブースには、見るからに人生に疲れ希望を見失ったような日本人が多く寝泊まりし、日本人たちのため息と、何人かの異国語の通話音声が筒抜けの天井越しから無遠慮に聞こえてくる。

 建物の外からは外国人同士が揉める声が漏れ聞こえてくる。

 日本の世紀末を再確認させられて、蓮は思わず息を吐いた。


 受付近くのドリンクバーの横にあるケータリングの大鍋の前には東アジア系の女性が立っていた。

 紙コップではなく私物の水筒にオニオンスープを何度もお玉でよそう。

 水筒が満タンになると棚に置いてあったお手拭きやガムシロップ・砂糖もごっそりと掴み、さも当然のサービスを受けているだけと言わんばかりにその女性は自分の部屋に去っていく。


 蓮は黙って鍵付きの個室を借り、開けっ放しになっていた鍋のフタを閉じつつ、自分の部屋へと向かう。


 一畳半ほどの部屋にて街中で買っておいた軽食を摂ると、ノートを取るようにスマホのメモアプリを開きながら、黙々と備え付けのパソコンを立ち上げた。


 十五年という空白を埋める作業──それは思っていた以上に骨の折れる行為だった。

 蓮が不在にしている間、日本では何が起こっていたのかを検索していく。

 蓮が二〇一〇年の梅雨時に召喚されて以降の期間をウィキペディアで一年単位で開き、一年間の主要な出来事としてまとめられた事象全てのリンクを開いて読み込んでいくこと十五年分。


 特に重要と思える災害・戦争・事故・事件・転機についてはyoutubeで当時の映像も併せて取り入れる。


 そして“今の日本”を象徴する顔が、画面に浮かび上がってきた。


 ──現在の内閣総理大臣、雨宮誠一。


(……これが、今の“一万円札”ね)


 かつて防衛大臣経験もあるこの男は、自衛隊の存在を「暴力装置」と形容し、憲法改正に対しても一貫して否定的な姿勢を貫いてきた。

 選挙戦では「国民の声を最優先に」と繰り返しながら当選後は「掲げた公約を守るとは言っていない」として公約を反故。就任後は中韓への一方的な譲歩政策を推進。竹島問題を棚上げし、尖閣諸島についても「緊張を高めないような対話的解決が望ましい」との立場を示した。


 だが決定的だったのは、総理就任から一年後に行われた“歴史謝罪演説”だった。

「日本は永遠に加害者であり続けなければならない」と断言したその発言は、国際社会では称賛されたが、日本国内では保守層・中道層を問わず、激しい反発を呼んだ。


 ──にもかかわらず、メディアは雨宮総理を一切批判せず、「和解の勇気」「歴史に誠実な指導者」と持ち上げ続けた。


 SNSでは、彼の発言に異を唱えた著名人のアカウントが次々と凍結された。

 抗議デモは報道されず、検索アルゴリズムからも関連動画が除外されていた。


 まるで、情報そのものが“作られた現実”に塗り替えられているかのようだった。


 蓮は画面をスクロールさせ、雨宮と共ににこやかな笑みを張り付けて並び立つ外務大臣の名を確認する。


 ──三枝信介。


 元防衛副大臣でありながら、韓国との「未来志向外交」の名の下に数々の譲歩を繰り返し、日韓共同管理下に竹島を置く案を提案。

 いわゆる慰安婦合意の再協議を求められた際も、日本側が先んじて「誠意ある再謝罪」を行うべきと主張したことで知られていた。


 外務大臣に昇進してからも、その姿勢は変わらなかった。

 中国国内で邦人が殺害されても一切抗議せず、日本国内で中国人が犯罪を起こしても無言を貫く。

 中国軍機が領空領海侵犯を繰り返しているというのに、中国の趙凱外相と並んで笑顔で会見を開き、わざわざ中国語で挨拶を述べたその映像は、今もSNS上で「忠犬」「売国奴」と揶揄されている。

 対中国へのビザを五年から十年に延長して中国に擦り寄る一方、アメリカとの関係を突き放すような立ち回りもしていた。

 さらに、スパイ防止法案を提出された際、唯一反対票を投じたのはこの三枝であった。「この法案は反発を生むと思う。配慮が求められる」とし、日本の外交や国益を守る立場にある彼は、おおよそ日本の外務大臣とは思えない行動を続けていたのであった。


(こいつらが……“政”を担ってるのか)


 画面には、反日を隠そうともしないかの国らの海外要人と並んで握手しながらにやける二人の姿が映っていた。

 その笑顔には、国家としての誇りも、国民への責任も、微塵も感じられない。


 ネット上では特に雨宮と三枝の二名への怨嗟の声が凄まじかった。


「日本人の税金を外国人に使うな」

「日本の政治家だろ。日本人を何だと思ってるんだ」

「外国じゃなくてもっと日本の為に税金を使え」

「なんで外国人だけ不起訴になるんだ。ちゃんと裁けよ」

「こいつらが大臣になってから全部狂った」

「日本がたった二人に壊されるなんて」

「絶対に次の選挙はこいつらを落とそう」



 日本全国で、雨宮と三枝に虐げられた日本人たちが泣いているのが見えた。



 蓮は静かに、スマホのメモアプリに打ち込んだ。


 ──《ターゲット:一人目 雨宮誠一》

 ──《ターゲット:二人目 三枝信介》


 その指先は、震えていなかった。


 かつて〈勇者〉と呼ばれ、魔王軍の知将猛将たちと渡り合ってきた男──如月蓮が、日本の腐敗の中枢に向けて、静かに戦端を開こうとしていた。



 二〇二五年七月十五日。

 東京・首相官邸。

 ──いや、かつてそう呼ばれていた建物は、今や「新臨海都市計画」の象徴とされる超高層の複合行政タワーへと姿を変えていた。


 通称・首相官邸タワー。

 数千億円もの税金を投入し、最新の防衛・監視システムが完備されたその建築物は、外観こそガラス張りの未来的な装いを纏っていたが、その内情は透明性など全くない、まさに腐敗と堕落の巣窟であった。


 雨宮誠一は、その最上階にある首相官邸応接室で、三枝信介外務大臣と共にプライベートで豪奢な晩餐を囲んでいた。

 ワインはフランスの特注品、シャンパンは一本百万円を超えるもの。料理は日本国内では提供できないとされる高級食材を、特別ルートで輸入させたものばかり。


 日本人たちが不法移民から虐げられ、外国勢力の圧力と利権に奪われ、増税に次ぐ増税で毎日の食事さえ切り詰めながら納めた、血と涙を一滴一滴絞り集めた税金。

 それらのありがたみを一切感じることも、呵責もなく、グラスにトクトクと注がれた赤ワインは大して味わうことなく飲み干される。


 周囲には、雨宮と三枝に媚びへつらう官邸職員たちと、妙に色気づいた若い女たち──どこかの芸能事務所から“差し入れ”られた顔ぶれが揃っていた。


「これだよ。為政者と言うモノは。頂上からの眺めはこうでなければな」


 雨宮が笑いながら東京の夜景にグラスを掲げると、三枝はどこか薄ら寒い笑みを浮かべながらそれに頷いた。


「既に日本は我々の手中……どんなに増税して絞り取っても、カメラの前では聖人のふりをして、やれ日本の為・将来の為などと涙ぐみ、選挙前に給付金を公約に掲げてやれば、バカでお人好しな日本人どもは我々に喜んで投票するんだ。何度も何度も同じ手口で騙されやがって。いい加減気付けよって、俺も笑いをこらえるのが大変でね。こんなにコロコロ転がしやすい民族は他にはいまいて」


「ははっ……まさにその通りです、総理。多少失言をしてもメディアは全て我々の味方。ちょうどいい塩梅で世論を誘導してくれますしね。都合の悪い事は全て覆い隠してくれますから、我々はいつだって庶民の味方でいられますよ。くっくっく…」


「法案を通しておいてよかったわ。多様化促進とヘイトスピーチ防止のためにネット上の誹謗中傷を取り締まるとそれらしいことを言っておけば、あっさりすんなり通過した。文句を垂れて反対してた奴らは自由な表現がどうたら言っておきながら、結局最後は何もしない。日本は自由な国と正常性バイアスに憑りつかれた平民どもに本当に言論統制を仕掛けているとは気付かない。愚者共のなんと多き事多き事」


 その言葉に、三枝が先陣を切るように高笑いし、目配せされた若い女たちが合わせるように乾いた笑い声を上げた。


「おっしゃる通り!生まれもっての才覚と器の違いと言うやつですな!はっはっは!」


 そう笑う三枝だが、何かを思い出した雨宮はどこか退屈そうな顔で口をつけ、タブレットで金融資産の推移を確認しながら、つまらなそうに呟いた。


「さて……明日の記者会見ではまた“国民の生活のための改革”とでも言っておくか。近々日中首脳会談もあることだし、心づけが…」

「おや、もうその時期ですか。年を取ると、時間が経つのが早いですな」

「全くだ」


 公式に言える訳もないが、心づけをすることで日中関係が円満に運んでいると言っても過言ではない。

 我々の蜜月は、平民どもから搾り取った金で成り立っている。

 この関係を維持するためにはこのまま税金を搾り取り続けなければならないが、何をするにも名目が要る。

 もはや完全に腑抜けとなった日本人にも一応のおべっかは使ってやらないと、スムーズに法案を通せない。

 もう言い訳すらまともに取り繕わなくてもいいと感じて来ているが、念には念を入れる。

 根回しをしてやらないと進まないなど、全くもって七面倒くさい慣習だ。


 ああだこうだ言ってデモなんかやっても、結局今の日本人は口だけ。民衆に国を変えるほどの力なんてない。

 昭和の学生運動や武力闘争なんてものの足元にも及ばない、耳障りなだけで、力を持たない羽虫共に過ぎないのだ。


「どうせ何を言っても信じるさ。……民衆は、自分の首を締めてる縄の色すら選べない」


 その目には、野党時代に声高に国防論を主張していた頃の熱意も、国民への愛情も、国を守る責任感も、一切存在していなかった。




 ──だが、その夜。

 新臨海都市計画の中枢に位置する官邸タワーに、ひとりの影が忍び寄っていた。


 静かに、そして確実に。


 雨宮は差し入れられた女を抱きながら応接室の隠し戸を開け、特別寝室へと向かう。

 本来なら職場たる官邸には不適切な特別寝室。キングサイズのベッドが置かれた寝室の隣には、四人が同時に浸かれる大きな浴槽と、複数人が寝そべることができるほど広い洗い場を備えた豪華な浴室が存在する。

 女を寝室に残し、雨宮は一人で先に浴室に向かう。


 三枝は酔いに任せてこちらにあてがわれた女を侍らせていたが、いつのまにか潰れてしまい、応接室のソファでそのままいびきをかき始めた。



 応接室と特別寝室の明かりのみが残る官邸タワー。


 時刻は午前一時に差し掛かろうとしていた。


 応接室の隅にある格子窓、そのわずか二〇センチ四方の通風口から、微かな風と共に〈異界の気配〉が忍び込んだ。


 三枝が暢気に眠りこけるすぐそばを風が流れ、それは浴室の方へと吸い込まれるように漂っていく。






 浴室のミストが立ち込める中、裸のまま雨宮が鼻歌交じりに笑っていた。


「いやぁ、やっぱり特権階級ってのはいいもんだ……」


 日本の政治権力において事実上のトップに上り詰めた雨宮は、完全に成功した自分の人生に陶酔していた。

 全てを手に入れた。何もかも意のまま。自らの地位を脅かす存在などこの国にはもう存在しない。


 しかし、時に地位や名誉よりも重要な部分がある。


 歳を取ると加齢臭や皮脂臭が酷くなる。他人事に感じていた中年あるあるは雨宮自身にも例外なく訪れた。

 それだけでなく、頭頂部も薄くなってきているような感じがするし、腹も出てきた。


 そして近年、男の自信が衰えてきてしまっているのを痛感する。

 何物にも負けなかった若い頃の鋼の自信は、最近では長続きしなくなってきていた。

 なんだかんだ若い気持ちのままでいたが、体もずっと若いつもりではいられないと雨宮に知らしめた、庶民の中年男性と等しく寄る年波。

 日本の全てを手に入れた雨宮が、今まで当然あった物をこれから衰えによって失うとは、簡単には割り切れなかった。


 特に今ようやくすべてを手に入れて何もかもが思い通りになったというのに。

 まさに今これから男の夢を謳歌しようという時に。

 一番大事な部分が役に立たないなど、あってはならないのだ。


 笑って流せるものではなかった。

 そこはやはり男の本能として抗わなければならない。


 脱衣所に隠すように置いていた箱の中からデオドラントスプレーと薄毛隠しパウダーを取り出し、念入りに付ける。

 一通り整え終わると、箱から続いて出した錠剤と精力剤を一気に景気よく流し込む。

 ゴミを箱の中に入れ、再び箱を分かりづらい定位置に隠すと、鏡の中の自分の最高の角度を確かめ、ニヒルでチョベリグな笑みを作り、頷く。


 体を清め、全ての準備を終えた後は、いよいよお待ちかね。

 夜の意見交換会だ。


「おーい、入ってきて良いぞー」





 その言葉を最後に、雨宮は違和感に気づく。






 ──音が、消えていた。


 タイルに当たっているシャワーの水音、浴室ファンの唸り、すぐ壁の向こうにいるはずの女の気配、その一切が消失していたのだ。

 そして、振り返った先に──それはいた。


 銀の仮面と星鎧の(スターライト・)礼装(レガリア)

 神託を受け魔王に挑む勇者だけが着用を許された、星々の光を宿した神聖な礼装。

 異世界の勇者としての役目を終えたが、この日本でも勇者としての役目を求められ、舞い戻った勇姿がそこにあった。


 静寂の夜空をそのまま取り込んだような装束。

 深い漆黒を基調とし、まばらに織り込まれた鈍銀の糸が、遠くの星々の鼓動を想わせる。

 濃紺のマントは風もなく揺らぎ、光を拒むように沈黙を纏って背を覆う。

 その胸元には、魔王討伐への志を共にエルディアで戦い、道半ばで倒れた相棒、リヴァイアサンの蒼環晶セルレイン・オルビスのペンダント。


 異形の静寂を纏った銀の仮面の男が、まるでこの世界の物理法則そのものを拒絶するように、あらゆる警戒・チェックをすり抜けてそこに立っていた。


「……誰だ?」


 思わず口を開いた雨宮だったが、浴室で放ったその声は、反響することなく無響室のように壁に吸い込まれた。


「―――――重圧呪縛グラビティバインド


 仮面の男が黒革の手袋を着けた右手をかざして何かを呟いたのに気づいた時、雨宮の全身にとてつもない重圧が圧しかかり、一瞬にして浴室の床に組み伏せられた。


「な、なんだこれは、き、貴様…この私に何をした──」


 言いかけた言葉が終わる前に、男が指を鳴らした。


 その瞬間、浴室の空間そのものがゆがみ、天井と床がまるで別世界の裂け目で隔てられたかのように歪曲しながら重圧を増した。


 銀の仮面が、低く──だが確かな怒りを込めて告げた。


「雨宮誠一。これより“天誅”を執行する」


「て…天誅だとっ…?ふざけるな…っ…貴様……!何者だ……っ……ど、どうやってここに……」


 浴室の床に突っ伏して苦悶の表情を浮かべる男を、仮面の男が静かに見下ろす。


 首相官邸タワー最上階。

 全て税金で造られた首相応接室の隣に、明らかに私的利用のために作られたに違いない、豪華で広々とした浴室。

 この国の中枢を乱す男の安らぎの場所が、今宵、裁きの場と化す。


 蓮は、銀の仮面の下で冷徹に観察していた。

 ついさっきまでこの世の春を謳歌していたはずの男。

 濡れた浴室の床に五体投地しながらねめつけてくる雨宮誠一の姿は、かつてテレビや会見の場で威風堂々と嘘を並べていた頃の影もない。


「雨宮誠一。お前はこの国を私利私欲で穢した。その代償を、今ここで払ってもらう」


「ま、待て!何か勘違いをしている。私は、ただ日本の明るい未来のために――っ!」


「日本の明るい未来だと?」


 蓮の声が、氷の刃のように空気を切り裂く。


「お前が推進した“日中経済融合法”で、いくつの日本企業が潰された?“外国人参政権拡大”で、いくつの地方自治体が乗っ取られた?“協和五箇年計画”で、どれだけの日本人の命が失われたか知っているか?お前が言った"日本の明るい未来"が本当に叶っているのなら、何故街の人々は全員怯え隠れている?何故通りの真ん中を、大手を振って歩けない?」


「し、しかしだな、それは……っ、わたし一人の責任では――っ!」


「責任逃れも見苦しい―――無界静殻ゼロ・クレードル


 蓮が手をかざすと、空間が揺れた。


 次の瞬間、最上階フロア・浴室を中心に不可視の球状結界が展開される。

 全ての扉は固定され、外部との連絡手段は完全に遮断された。

 二つ隣の応接室のソファで酔いつぶれている三枝のすぐ手前までが効果範囲となっているが、三枝は全く気付かない。

 聞こえるのは無音結界サイレントバリアによって無響室のように全く音が反響しない浴室の中、蓮と雨宮の会話のみ。


「泣き叫ぼうが、喚こうが、助けは来ない。誰もここには入れない。どれだけ這いずり回ろうと――な」


 雨宮は愕然とする。


「そんな……こんなことが……っ」


 どうにか重圧呪縛グラビティバインドに抗いながら正座に近い体勢に持ち直す雨宮。だが、次の瞬間、彼は左手をタイルの壁に向けて伸ばし、小窓に隠していた小型拳銃を取り出した。


「う、動くなっ……お前が何者かなど関係ない……!死ね……!」


 その瞬間、蓮の身体が閃光のように動いた。

 鋭い回し蹴りが雨宮の手元を正確に跳ね上げ、銃は回転しながら蓮の手中に収まる。

 乾いた金属音が結界の中でむなしく響いた。


「がっ……ああっ……!」


 更に蓮の膝が上体を上げていた雨宮の腹にめり込む。

 雨宮は苦悶の呻きを上げ、再び額から床に崩れ落ちた。


「抵抗は不要だ。お前に選択肢など無い」


 蓮はゆっくりと歩を進める。

 その足取りは、一歩ごとに重く、運命の鉄槌が迫るようだった。

 期せずして、雨宮は土下座の体勢になっている。


「ひ、ひぃぃぃっ……た、たすけ……たすけてくれ……っ! わたしは、わたしは悪くない……! すべては、官僚どもが勝手に……わたしは操られていただけなんだぁっ!」


「お前が全部やったんだ、雨宮誠一。国民の信頼と期待を裏切り、重税に苦しむ国民に更なる重税を課し、自分だけ贅沢三昧。歴代の総理大臣の中で最も醜い男。先人が築いてきた美しい日本と、日本を守るために命賭けで必死に戦った英霊に託された未来をすべてぶち壊しにした。それどころか日本の代表の総理大臣でありながら、自国の事より中国韓国を優先する。中国で日本人が殺されてるのに、韓国に領土や文化財や農産物を盗まれ続けてるのに遺憾だとしか言わず、何の対策も抗議もしない。日本人が貧困に喘いでいるのに、搾り取った税金の使い道は海外支援ばかり。外国に日本の土地を売り、誇りを傷つけ、日本国民から生きる希望を奪ったその代償に自分だけが女と金を散々貪ってきた――」


 仮面の奥の目が紅く光る。


「……お前の罪は、“売国”の二文字では到底収まらない」


 一陣の風が、銀の仮面を揺らす。


 次の瞬間、蓮の掌から“異界の炎”が迸った。

 紫電のような漆黒の火が、突っ伏す雨宮の背中を焼き、醜い言い訳しか吐かない口を封じる。

 それは単なる物理的な炎ではない――魂の罪を焼く、審判の焔。


「この国でお前の失政により亡くなった者たち、職を失い、家族を壊された者たち、絶望して命を絶った者たち――その怨嗟を身をもって知れ」


「ぐぎっ………ま、待ってくれ……何でもする……カネもある!情報もある!何でも言う事を聞くと誓う。しょ、消費税も撤廃しよう!給付もしよう!ガソリン税の暫定税率廃止だって約束する。だから……ぐっ……見逃してくれぇっ頼むううう!」


「……黙れ。お前の言葉に、もはや一片の重みも信用もない」


「―――審断(ジャッジメント)之炎(フレイム)


 炎が這い上がり、雨宮の全身に燃え広がる。

 土下座のまま、身じろぎすることも出来ず、雨宮は絶叫しながら焼かれていく。


 その焔は一思いに雨宮の命を奪わない。

 ゆっくりと、じわじわと、雨宮によって苦しめられた人々の怨念の分だけ魂の奥底を灼き尽くしていく“処罰”だ。


 炎に包まれながら、雨宮の口から上がる悲鳴は、まるで獣の断末魔のようだった。


「ぎゃああああああッッ!!熱いッッ!熱いぃぃぃぃぃッ!!やめろぉぉおおおおおッ!!助けてくれえええええぇぇッ!!ぐああああああッッッ!!!」


 しかしそれすら、結界の外には届かない。

 誰にも気づかれず、誰にも助けられず――この国を売り払った男は、静かに、しかし確実に裁かれていく。


 やがて、焔の勢いがゆっくりと弱まった。

 床には土下座の体制のまま、黒く炭化した肉体が、かろうじて人の形を留めて転がっている。

 首を無理に横向きに捻じ曲げたせいか、死の瞬間まで恐怖に歪んだまま顔が浴室の壁を覗いていた。

 漆黒の炎で魂を焼かれた者が逝くときに見せる、石炭のような、あの独特の黒光りした絶望の色――蓮は、それを静かに見届けた。


 彼は一歩、また一歩と、焼け焦げた死体に近づき、その横にしゃがみ込む。


「これが、お前が撒いた種の結末だ」


 そう呟いたその声に、怒りも激情もなかった。

 あるのは、ただ虚無と、ほんのわずかな哀れみ。


 蓮は立ち上がり、右手を軽くかざす。


「―――浄火結界パージ・ドーム


 新たな結界が起動し、浴室全体が柔らかな白い光に包まれた。

 異界の焔で汚れた空間が浄化され、灰すらも消滅していく。

 まるで最初から何もなかったかのように、床は白く、美しく、乾いたタイルに戻った。


 蓮はその様子を一瞥し、銀の仮面に手をかけることなく、シャワーの水を止め、浴室から応接室へ〈異界の気配〉を纏った風に乗って流れゆく。



 雨宮の断末魔を耳にすることなく酔っぱらったまま応接室のソファに横たわる三枝のいびきを尻目に、封蠟した手紙をテーブルに置く。



 今夜の天誅は雨宮誠一総理大臣一人のみ。

 三枝信介外務大臣の天誅はもうしばらく後。


 彼の罪もまた、見過ごすにはあまりに重い。

 天誅を下す前に、まだもう一仕事してもらう。


「まずは、"仮面の男"がこの国に現れた事を語ってもらおう」


 全てを片付けると、応接室の通風口から、新たな時代の幕開けを告げる風に乗って、漆黒の夜へ消えた。




 その翌日の早朝、首相官邸タワー最上階・官邸応接室。

 昨夜は総理と共に酒池肉林の一夜を楽しんだが、ついつい酒を飲み過ぎてソファでつぶれてしまった。重たげなシーツに包まれた身体が、揺らぐように目覚めた。


「……う、ん……」


 外はまだ薄暗く、時刻は午前五時ごろ。酒の残滓がまだ脳を霞ませていた。

 しんと静まった応接室。

 総理はまだ奥の部屋だろうか。それとも執務室にいるのか?

 まだ朦朧とした頭で三枝信介は起き上がり、ぼーっとソファに腰掛ける。



 そばのテーブルの上に、一通の封筒が置かれていた。


『三枝信介 様へ』


 丁寧な筆文字の筆跡。だが、その裏には銀色の封蝋が押されている。


 封蝋付きの封書なんて今日日珍しいな、と思いながら開封した彼の目に、整った文章が飛び込んできた。



『――売国総理・雨宮誠一は、今宵その罪により天誅を受け、この世を去りました。


 私は正義を成す者。日本を取り戻す者。


 売国奴、反日分子、日本にありながら日本を貶める者は、誰であれ見逃さない。


 次は、三枝信介様の番です。


 お会いする時を楽しみにしています。


 正義の代行者・銀の仮面』



 その文面を読み終えた瞬間、三枝の背筋をぞくりと寒気が這い上がった。

 まるで闇の中から見つめられているような錯覚に、心臓が激しく鼓動を打ち始める。


 誰が?どうやって?この厳重な官邸の中に、こんなものを?


 しんと静まり返った部屋。

 隣から気配を感じない。


 慌てて特別寝室に飛び込むが、そこには誰もいない。

 昨日総理と共に入っていった女の姿もない。




 まさか……本当に……?




「……殺された?まさか……いや……」


 そんな事、常識的に考えて有り得るわけがない。

 応接室を通らずに特別寝室には入れないはずだ。

 私は一晩中ずっとここに居た。誰もここを通っていない。

 誰かが通ったなら、ましてや殺そうとする動きがあれば物音や大声で絶対に気づくはずだ。


 そう自答して落ち着かせようと空笑いしてみるが、自分一人しかいない応接室の静寂に、急に恐ろしくなる。

 突然背後からナイフが飛び出てきそうな予感がして、バッと後ろを振り返った。

 しかし、ここには三枝一人だけしかいない。


 手紙を持つ指が震え、無意識のうちに後退る。

 だが足元はふらつき、再びソファに腰を落とした。


 ――次は、三枝信介様の番です。


 その一文が、脳裏に焼き付き、離れなかった。


次話は明日15時投稿予定です。

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