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11話 余燼の廊

 その姿を見た桐山は、もはや驚かなかった。


 馴染みの店の、あまりにも様変わりした雰囲気。女将の態度。提供される料理。何もかもが不可解で、意味深で、恐ろしかった。


 それがこの銀の仮面の仕業だったのであれば……腑に落ちる。



 部屋に立ち込める異様な空気が、また一段と濃くなる。


 仮面はゆるやかに歩を進め、桐山の前でぴたりと止まる。その姿を見上げた桐山の表情に、驚きや恐怖の色はなかった。


 ただ、瞳の奥に広がっていたのは、深い――深すぎる後悔。


「……やはり、あなたでしたか…」


 しわがれた声で、桐山が呟いた。


 取引など最初からなかった。


 銀の仮面が私と対面する最後の舞台として、この店を、あの懐石を用意したのだと合点がいった。



 仮面は何も言わない。ただ沈黙のまま、懐から分厚い資料の束を取り出すと、桐山の目の前に静かに投げ出す。


 重々しい書類が、紙吹雪のように宙に舞い、部屋中に散らばった。


 幾重にもホチキスで綴られた決裁文書。削減された補助金一覧。交付税配分調整のデータ。特定企業が落札予定価格を事前に把握していた痕跡を示す文書。複数業者から提出された接待や贈答の報告書。形式的に開催された選定会議の形だけの議事録。建設業者からの“謝礼”入金と補助金加算決定が一致した帳票類。事務次官印の押された再開発決定の内部書簡。そして――若葉愛育園を含む周辺地域への「補助金打ち切り指定」の裏付け書類。


 桐山は、これまでに携わった心当たりしかない積み重なった所業にかすかに表情を歪めた。


 ――覚えている。あれも、これも、それも。全部私が一枚噛んだ案件だ。

 ……これはシュレッダーにかけたはずだが、なぜここにある?


 いや、恐らく、本当に銀の仮面は、全部お見通しと言う事なのか。




 桐山は、テーブルにそっと手をついた。


 テーブル中に散乱した書類に、桝とグラスからこぼれた大量の涙が染み込んでいく。


「…………」


 日本中で流された涙は、私が金欲しさで何の気なしに通した書類の奥に、数知れずあったのだと、再確認させられる。


 涙が書類の印鑑部分に触れ、赤みが血の涙となって滲んで広がる。



「……………っ」



 この紙一枚にどれだけの人の悲しみが宿っているのだろう。


 テーブルに零れた大勢の涙は、やがて散乱した書類が全て吸い尽くした。


 まるでどこにも悲しみなど生まれなかったかのように、テーブルはかつての漆の乾いた輝きを取り戻している。



 そこにあったのは、とある再開発計画の書類。


 何でもない書類だが、強情に立ち退きを拒否した児童養護施設があったと書いてある。


 補助金を打ち切り、半ば強制的に退去させることで再開発計画を強行するようなそんな密約や追記がされている書類だが、ここにも桐山の判子が押されている。



 この一件にも、数多くの涙が流されたのだろうか。


 涙でふやけた書類。


 指先を、顔も知らない多くの人々の涙が濡らす。


 これは、家を奪われた子供たちの涙なのだろうか。


 その時、子供たちはこんな風に涙を流したのだろうか。



 私は、その時気付けなかった。



 判子一つの決定で、どれだけの人が涙を流すことになるのか。想像だにしていなかった。



 私は…………間違っていた。





 仮面の奥の視線を感じながら、彼は静かに頭を下げ、そして額が畳に触れるまで頭を垂れた。


「……申し訳、ございませんでした」


 その一言に込められたものは、最初は形だけのものだったのかもしれない。


 だが、次の瞬間。


「私は……私は……!」


 ずるっ、と膝を引き寄せ、今度は両手を大きく広げて床に突き、深く、深く頭を下げた。


「私は……この国の民を、国を、裏切りました……!」


 震える声が、畳に吸い込まれるように落ちた。


「再開発の名の下に……福祉を切り捨て……子供たちの生活を犠牲にしました……!」


 額を打ち付けるように、もう一度、深く土下座する。


「……日本の未来を担う大事な子供たちを……そこにあった幼い命の営みを、私は……紙一枚で消してしまったのです……!」


 額が畳に当たり、鈍く乾いた音がした。


「何も見ていなかった。私は……数字ばかりを追って……その先にいる人々の苦しみを……飢えを……見ようとしなかった!」


 顔を上げた桐山の目には、涙が溜まっていた。顔をくしゃくしゃにしながら、口元を震わせながら、嗚咽を抑えながら――それでもなお、言葉を絞り出す。


「私は、間違っていた。金があれば政治は回ると思っていた……経済が整えば国は良くなると信じていた。でもいつしか…政界の柵に囚われ、方々に特別の配慮をする必要が生まれ、金や、人の流れに裏の思惑が介入し始めてからはどうすることも出来ず、私自身も、悪に染まってしまった……自分の理想を貫くために、自分の今の地位を、命を守るために、庶民の生活を、命を、犠牲にした……!」


 零れる涙をそのままに、両手を畳に突いたまま仮面の奥の瞳を見つめる。


「自分まで腐っていたのに、私はそれを知らないふりをしていたんです…。今が良ければそれで良いと、自分に関係ないことは全く見向きもしないで、国民が苦しんでいる声に、耳を傾けようともしなかった…!」


 自らの判断が、多くの人々を傷つけ、命さえ奪ってきた事実の重みに押し潰されそうになりながら、桐山は、真っ赤になった目で真っすぐに見上げる。


「どれだけの人を犠牲にしてきたのか、今になってやっと……やっとわかった……っ!」


 心の底からの謝罪が、ついに理性の防波堤を崩し、言葉にならない慚愧があふれ出す。


「申し訳ありません……っ、本当に……本当に申し訳ありませんでした……!どれだけの人々が、私のせいで苦しんできたのか……どれほど謝罪してもし切れないがこれだけは伝えたい……!私のせいで、たくさんのものを踏みにじってしまい、奪ってしまい、本当に申し訳ありませんでした……!!」


 桐山は何度も地面に額をつけ、謝罪の言葉を繰り返した。

 嗚咽に言葉の崩れそうなその声は、形ばかりの謝罪とは違う、この世にある地獄を思い知らされた者の本音。

 それは政治家としての責務ではなく、一人の人間として自らの罪を認め、心からあふれ出た悔悟の叫びだった。


 命乞いをするつもりはない。


 首をそのまま差し出すように、桐山は土下座を続ける。


「あなたが……今ここに立っているということは……私は、裁かれるということでしょう……」


 額を畳に付けたまま続ける。


「その覚悟はできています。……この命、差し出します……っ……」



 沈黙が流れる。


 しかし仮面は微動だにしない。


 が、桐山はそれでも、なお、頭を上げない。


 仮面の奥から、小さな声が聞こえる。


「それで終わりか」


「………」


「それで何もかも終わらせたつもりか」



 額を床にこすりつけたまま、桐山は動かない。


 ただ、謝る。真摯に。心を込めて。


 何もできないが、とにかく誠心誠意の土下座をし続ける。


 己の愚かさと不明を認め、その罪に正面から向き合う。



 "だから見逃してくれ"と往生際の悪い悪あがきを謝罪の二の句に継げることなく、謝意だけを示そうとし続けた。




「その前にやる事があるだろうが――」


 表情の見えない仮面の奥。


 声がかすかに怒気を含み、震えている。


 仮面の男は自らを落ち着けようと、わずかながらに震わせつつ、長い息を細く長く、ゆっくりと吐いた。



「私だけに謝って終わりか。そうじゃないだろう。お前が謝らなければならないのはこの国の全国民だ。お前が虐げてきた全ての日本人に対してだ。そうだろう」



 桐山は頭を下げたまま、何も言わない。


 嗚咽で腰を折りそうになるのを必死にこらえながら、仮面の声を拝聴している。



「私だけに謝って"はい終わり、さあ殺してくれ"は都合が良いと思わないか。お前の悪事を世間に隠したままあの世に逃げようだなんて、そうはいかない。お前の罪は私にこの場で簡単に殺されて帳消しになるものじゃない。―――自分の罪を他人に委ねるな」



 桐山の喉がごくりと鳴る。


 鼻をすすりながら同じ態勢を維持し続ける桐山。


 仮面の男の言う事に、全くの反論の余地なく、瞼を閉じた。


「お前の罪はお前自身が罰するんだ。お前の罪を人々はどうすれば許すか、自分で考えろ。簡単に殺されて全ての罪が許されると思うな」


 土下座のまま、桐山の頭が小さく、ほんの少しだけ縦に揺れた。


()()()()()()()()()と思ったんだろう」


「………っ」


「だから悪事に加担し続けたんだろう。自分が消されないために他人を踏み台にし続けた。だが事ここに至ってそれはもう関係じゃないんじゃないか」



「―――選べ。己の不名誉だけを闇に葬り去ってこのまま後釜が引き続き国民を虐げ続ける日本にするか。それとも―――」


「国益の為に全ての罪を国民に告白し、国の為に殉ずるか――」






 ………土下座のまま、しばしの静寂。


 桐山は、ゆっくりとした動きで上体を上げ、正座に座り直す。


 部屋中に散乱した己の悪行の証。


 数知れぬ国民たちの涙が染み込んだそれは、桐山の根底にあった弱さ、甘さ、情けなさ。


 自分が()()()()()()()に、誰かを()()()()()、墓標のようなものだった。



 正座となり背筋を正した桐山は、涙の残る弱々しさの中にも、確かな決意を帯びた声で言った。


「…………最後に……国民の皆様に謝罪をさせてください……」


「……!」


「私は、誰にも顔向けできないほどの罪を重ねてきました。圧力に負けて………国を売るような真似をしました。……ですから――せめて、最後に……私の声で……真実を……謝罪を……届けたいんです」


 仮面の奥で、表情が変わることはない。

 だが、その視線の温度が、かすかに揺らいだのを桐山は感じた。


「……私は……もう、逃げません。覚悟を決めました。……だから、最後こそは……自分の罪と向き合わせていただきたい……!」


 その肩は、震えていた。

 ひとりの老いた男が、石をなめ、草を食み、涙を味わうような生活を国民に強いたその過去の判断を償いたいと言う一心で、感情を吐き出すように泣いていた。




 桐山は再び深い土下座を捧げた。


 押し殺した涙声だけが聞こえる空間。


 幾許かの時が流れても、桐山はその姿勢を崩さない。


 命乞いや言い訳ではなく……



 ―――心からの謝罪と誠意。



 桐山の年老いた背中からは、それが伝わってくるように見えた。










 仮面の男は無言のまま、水色に淡く輝くスフィアを宙に掲げた。


 嵩の減った桝とグラスの真上にふわふわと浮き、柔らかく回転を始める。


「ならば――全てを、語れ」


 その言葉は低く、しかし確かな響きを持って部屋に満ちた。


「お前がこれまで奪った者たちに。飢えさせ、追い詰めた者たちに。自分の口で、自分の言葉で、懺悔を残せ。お前の知る事全てを明らかにすることが、お前に残された最後の償いだ」


 桐山は、顔を上げた。


 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったその顔には、もはや威厳も肩書きも残っていなかった。


 ただ、罪を悔い、懺悔を望むひとりの“人間”だけが、そこにいた。


「……ありがとうございます。……ありがとうございます……!」


 そして彼は、泣き腫らした顔そのままに姿勢を正し、スフィアと大勢の涙の前に向き直った。










 部屋中にぶちまけられた大量の資料をかき集め、元の紙束に戻ったそれは、桐山が正座で座る畳の右側に積み上げられている。何枚かが濡れ皺となって歪な山を成しているそれは、これまで長年積み上げて来た桐山の隠し続けた暗部。


 これから何もかもを全国民に明らかにし、闇に落ちた自らに手を下す。


 これを言ってしまえばどうなるのか。きっと無事では済まないだろう。


 ――いや、もう無事などと考える必要はもうない。


 私の人生はここで終える。せめて満足の行く死に様にしたい。



 言うと決めた。


 これ以上裏切り続けることはやめると決めた。


 家族には申し訳ないことをする。だがそれ以上には国民には申し訳ないことをし続けて来た。


 これは当然の報い。


 国を導き、守り、助けなければならない責務にあった者が、阿世した末の当然の帰結。




 葛藤と深呼吸を繰り返した桐山は、しばらくの時間を費やして心を落ち着かせ、腹を決めると、カメラ外に立って見下ろす銀の仮面に目配せと共に、ゆっくり一度頷いた。





 ---



 畳に直に正座して、スフィアの前に座る。


 背景は静かな料亭の客室のオフホワイト色の壁。これまで金に物を言わせて高笑いする有力者たちを見つめていたその壁は、真っ黒な桐山の背を悲壮感に染めている。


 桐山はやがて顔を上げた。目の下には濃い隈、瞳は赤く腫れ、乾いた唇が僅かに震えている。だがその視線は、スフィアの向こう、この映像を見るであろう全国民へ向かって真っ直ぐに向けられていた。



「……私は、桐山貢一。日本国財務省、事務次官を務めていた者です」


 言葉は掠れていたが、決意に満ちた口調で語り始める。スフィアの記録魔法が、その一言一句を逃さず収めていく。


「まずは、全国の皆様に……心から、謝罪を申し上げます。このたびは……このたびまで……本当に、誠に……申し訳ございませんでした……っ」


 桐山は深く土下座。額が畳に打ちつけられ、かすかな呻きが漏れる。沈黙の空間に、彼の嗚咽が静かに沁みていく。


「私のこれまでの行動によって、多くの国民の皆様を苦しめ、怒らせ、涙させ、そして、死に追いやってしまいました。私は、財務省の人間として、国の財政を健全に保つべき立場にありながら、国民から金を搾り取ることばかりを考えていました。私が行ってきたこと、その責任、その代償……そのすべてに、今から向き合い、明らかにいたします」


「教育、福祉、医療、子育て、防災、介護……命を支えるはずの予算を、私は“調整”という言葉で切り捨ててきたのです。私の一筆で、数え切れない数の未来が潰えました」


 彼は天井を見るでもなく、スフィアを見るでもなく、その向こうで失われた多くの想い、一点を凝視していた。


「母子家庭の支援削減。重度障害者への介護補助の打ち切り。離島や過疎地における医療支援の廃止。教育予算の切り詰め。災害復興予算の不自然な縮小。給食費無償化への抵抗。私は、そのすべてに関わっていました。予算編成の現場では、“削る”ことこそが美徳・成果とされます。教育、医療、子育て支援、福祉、災害対策……そうした分野は“削れる余地がある”とされ、躊躇なく切り捨てられてきました。なぜなら、“声が小さいから”です。誰もロビー活動をしない。誰も選挙の票をまとめてくれない。だから、真っ先に削られる。……私も、それに加担していました。『ここの予算は、選挙に関係ないから切っていい』、『この団体はうるさいから増額した方がいい』、そういう判断を、私自身が行ってきたのです」


 手元の紙束から一枚の濡れた紙を手に取る。


「思い出されるのは、数年前に行ったある再開発案件です。東京都三鷹市、老朽化した住宅地とされていた場所に、国家主導の開発プロジェクトが立ち上がりました。民間企業、建設業界、国交省、地元議員……様々な思惑が交錯し、現場では立ち退き交渉が難航していました」


「その中に、ひとつの児童養護施設がありました。その児童養護施設だけが、立ち退きを拒んでいたのです。『施設が再開発に協力せず、交渉が進まない』と、上からの指示と現場からの板挟みに遭い、私は『予算を打ち切れば諦めるだろう』と判断し、実行しました。それが、どれだけ無慈悲で、どれだけ非人道的だったか。そこに住む子どもたちにとっては、何よりも大切な家だった。私が壊したのは、単なる建物ではない。“帰る場所”を、私は消したんです。どれだけの子供たちの心を傷つけ、人生を狂わせたか。今となっては、……想像するしか、ありません」


 書類をそっとテーブルに戻し、唇を噛み、数秒間黙る。


「そうやって子供たちから住む場所を奪っておきながら……宗教団体の関連病院には、根拠なき特別交付金。外資系コンサルへの国家戦略名目の数千万の支出。政治家の関連企業が受注しているシステム開発には、実績も検証せず億単位の予算。中国系の党幹部・建設企業には、“日中友好”という名目で、正体不明の会食費・交際費・贈答品に加え、巨額の委託費が計上された約百三十六億円もの報告書。政府高官や与党幹部の企業に対する便宜供与。裏金、裏接待、口利き。私は、その全容を知っていました。いや、私自身が、署名し、押印してきた張本人です」


 膝を震わせながら深く息を吐く。再び、額を畳につけるように深い土下座をした。


「私は、巨悪の圧力に屈しました。総理大臣。外務大臣。財務大臣。党総裁・幹部。教団本部長。総連中央本部長。彼らの一言一言が、私にとっての“命令”でした」


「『これは北京の要請だ』――。『これはソウルの決定事項だ』――。『党の方針に従わなければ君の家族の身も保障できない』――そうした言葉を、私は何度も、何度も聞きました」


「恐怖でした。怒りもありました。しかし……最終的に、私が選んだのは、屈服でした。生き延びるための屈服。その結果として日本人は日本に居ながら外国に踏みにじられ、私は悪魔のような政策を平然と遂行していきました」


 目線を伏せたまま、吐き出すように。嗚咽混じりに言葉を続ける。


「私は、名前も知らない人々を、無数に切り捨ててきました。母子家庭の支援を、“削減可能”として打ち切った。重度障害者への介護補助を、“効果が薄い”として打ち切った。地方の高校給付型奨学金を、“財源が限られている”として廃止した。社会保障維持のためと社会保険料を毎年のように上げ続け、その傍らで支出削減のためいくつもの高度医療・治療法・治療薬を保険適用外にし、国民の皆様の負担を増大させ、治療を、生きる望みを絶った」



「『君がNOと言っても、どうせサインするのは上だ』――。『どうしてもやりたくないのなら仕方ない、首を挿げ替えて続けるまでだ』――。そんな言葉を耳にし続け、私一人が抗っても無駄だ。何も変えられない…。そう悟ってからは、私は考えることをやめ、傀儡となっていました」


「私は自分がやっていることを、“国益”だと、何度も自分に言い聞かせていました。“誰かがやらなければならない”と、心の中で言い訳をしていました。でも本当は、ただの卑怯者だった。自分の身の安全が脅かされないように、……人を殺さずに済む方法を探して、少しずつ、殺していった」


 肩を震わせ、声が詰まる。が、息を強く吸い込み、続ける。


「自分の子供には、塾に通わせ、海外研修にも送り出した。でも、同じ年頃の子供たちが、給食でしかまともな食事を取れずにいたことを、知っていた。それを仕方ない、生まれた境遇の差と、財務官僚としての現実だと、割り切って。……私は、自分の都合のいい真実だけを見て、国民の真実を見ようとしませんでした」


「外国人への生活保護支給を拡大した。入国管理制度を実質的に緩和し、外国人労働者への優遇措置を設けた。人権や国際信頼を理由に掲げたが、その実、外圧と利得のためだった。日本人が追いやられていくのを知っていて、止めなかった」


「企業からの接待を受けたこともある。見返りに優遇措置をとったこともある。それを"平和な日本建設のための文化的交流"だとか“十年後を目標とする所得倍増計画への布石となる便宜の一環”などと呼んで、記録にも残さず、後輩たちに口伝えで“慣習”として教えました。……腐敗の温床は、そこにあった。責任は、私にあります」


 嗚咽混じりに言葉を吐く。


「私はもう、国家の要職を預かる資格はありません。公的権限も、今日で失われました。でも、だからこそ、言える。私は、日本という国を、蝕む側にいました。国民を裏切る側でした。この国に生まれ、この国に育てられながら、この国の未来を、財布をきつく縛り上げ、自らの手で削り取ってきたのです」


「申し訳ありません……。心から、謝罪いたします……」


 頭を下げ、数秒間、深く沈黙。


 そして、桐山は右手に置いてあった紙束を手に取ると、これまでに深く関与してきた悪事や癒着を事細かに明らかにしていく。


 一枚ずつ機密書類をスフィアに見せながら、いつ・どこで・誰の指示で・どんな力が働き・どんな利益があり・どんな人物や団体が旨味を得るのか・その為に誰が何をしたのかを、端的に分かりやすく告発していった。


 それは官僚閣僚が国会答弁の際、責任逃れの為煙に巻くような長く曖昧で要領を得ない、明言を避けた答弁とは全く逆のものであった。


 立て板に水の如くスラスラと語る桐山は水で喉を潤しながら、積み上がった紙を全て説明し切る。

 紙束が右隣から左隣に全て移動する頃には一時間半ほどの時間が経過していた。


 あまりにも長い説明であったが、桐山の目には何故かほんの僅かばかりの達成感と開放感が滲んでいた。


「……これが、私の全てです。私は、もう逃げません。自分の罪と、責任を、この命を持って向き合います。どのような罵詈雑言も、どのような非難も、……すべて受け入れます。どんなに飢えても食べ物を買うお金さえなく、仕方なく水で空腹を紛れさせるしかなかった人を、この日本に大量に生み出してしまった罪の重さを、身をもって痛感しました……。草を食み、石を舐め、雨水をすすり、紙を口にするまでに至らしめてしまったのは、全て私のせいです………。これは、他の誰かに言わされた言葉ではありません。原稿もありません。……これは、私が心の底から感じ、気付いたものです」


「これが、最期の奉公です。この映像が、誰かの目に触れ、国を変えるために誰かが考えるきっかけになれば、……私は、……少しだけ、……報われます」


 桐山、スフィアに向かって深々と頭を下げる。


「……これまでの長い間、私のせいで悲しみ、苦しみ、諦めさせてしまった全ての方々へ改めてお詫びをさせていただきたい。――皆様の大切なものを奪い、台無しにし、涙を流させてきてしまった事、誠に申し訳ございませんでした。私の非を全て認め、心から謝罪いたします………!!」



 約三十秒ほど、これまでに仕出かした己の罪を贖うため、畳に手を突き、額を擦り付ける。


 桐山は何も言わず、無様な泣き姿を晒さぬよう、ぐっと奥歯を噛み締めながら、最期の生き様を示すよう、潔く頭を深く深く下げ続けた。


 スフィアの向こうにある全国民と、これまでに流された数多くの涙に向けて。



 ---





 室内を包んでいたスフィアの青い光がゆっくりと収束し、淡くきらめく余韻とともに静かに沈黙を迎える。



「――もういい」


 銀の仮面がスフィアを止めてもなお土下座し続けた桐山は、そう言われてようやくゆっくりと額を畳から離した。


 スフィアと、左手に積み直された分厚い紙束を音もなく掴み取り、ゆっくりと濃紺のマントの奥の亜空間にしまい込んだ。衣擦れがわずかに鳴るが、その微かな音すら、この静けさの中では重く響いた。




 桐山は、畳に直に正座したまま、頭を垂れていた。


 その背中はすでに幾度となく折れ、肩は力なく萎れているかのようだった。

 だが彼はもはや銀の仮面に縋ることも、許しを乞うこともなく、ただ静かに、仮面の男の気配を――死神のようにゆっくりと近付こうとするその影を、畳に突いた手に近付く影を、固唾を飲んで見つめていた。


「……覚悟は……出来ています。どうか……この命、今ここで……」


 声はかすれ、弱々しいが、それでも言葉には確かな意志が宿っていた。

 逃げることを選ばず、自ら罪に向き合う決意が、そこにあった。


「………」


 銀の仮面は何も言わず桐山を見下ろす。影が桐山の後頭部に落ちる中、客室は静寂が支配する。


 じっと、見下ろす。


 すべてに蹴りを付けた男は、呼吸を落ち着けてその時を待っていた。




 雨宮総理や三枝外相のように、一思いに殺されるんだろう。


 だが、仕方ない。これまでの罪を思えば言い逃れのしようもない。


 あとはこの命を持って償うだけ。


 もう、覚悟は出来ています。


 ですから………早く…………。




 桐山はそのまま首を差し出すような土下座を続けていたが、己の頭上に伸びた影が動いたのを感じた。




 銀の仮面は襖の方へ静かに振り返る。

 無言のまま、襖に手をかけそのまま去ろうとするが、動きを止めた。


「お前の罪は……お前自身が裁け。他人に罰してもらおうとするな。逃げるな。最期くらい、自分の手で幕を引け」


 声色には暖かさや冷たさはないが、その言葉には、桐山に対面するまで渦巻いていた復讐心や殺意のようなものは、今はもはや抜け落ちている。


「これまで他人の命令に従い、多くの命を無造作に切り捨ててきたお前だからこそ、その終わりだけは……自分の手で選べ。それが、唯一お前に残された、ほんの僅かな罪滅ぼしだ」


 その言葉は、まるで剣よりも鋭く、魂の奥に突き刺さるようだった。


 桐山の身体が震え、目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。

 嗚咽が喉を突き上げ、桐山は顔を歪めて土下座し、畳に額を何度も何度も打ちつけた。


 それは銀の仮面という個人に対してではない。日本という国を壊し、国民の尊厳を奪った自身の業、そのすべてへの悔悟。

 そしてたくさんの夢と営みを潰す書面にサインをした、その咎の全てを――あの仮面の向こうの、自分のせいで犠牲となってしまった誰かに対して――許しを請う姿だった。


 銀の仮面は襖に手をかけたまま、畳に額を何度も打ち付ける音を背で聞く。

 だが、やがて言葉を発さぬまま、何も言わず襖を開け、静かに部屋を後にした。




 仄暗い木造の廊下に、鈍い月光が射し込んでいた。襖を閉じる音が廊下に小さく響く。


 そこに一人の女将が、板張りの廊下に正座をして佇んでいた。

 表情は一点をぼうっと見つめて硬直しており、目の焦点も定まらない。

 その顔には喜怒哀楽のどれもなく、ただ忠実な人形のようにそこにいた。


 銀の仮面は静かに近づき、女将の背に触れるように、何かを剥がした。

 それをマントの奥の亜空間にしまい込む。


 すると女将を包む空気がふっと震え、魔力の気配が弾けるように拡散していく。

 直後、女将の身体がぐらりと揺れた。


 反応のない目がカクンと閉じ、膝が崩れる。銀の仮面は即座にその身体を抱き留めた。

 片腕で女将の背を支え、もう一方の手でそっと襟元を整える。着物がはだけぬよう丁寧に直し、壁際へと身体を寄りかからせる。


 額に浮いた汗を指で拭い、彼女が完全に気絶していることを確認すると、ゆっくりと立ち上がる。


 仮面の男は板張りの廊下を、全くの無音で歩き、店の玄関へと向かった。




 苔むした石畳を踏みながら、銀の仮面は無言のまま歩く。

 夜の空気は重く、濃く、蒸すような湿気が残っている。背後から聞こえるのは、風鈴の微かな音と、遠くで鳴く蝉の名残。街灯はひとつもない。


 これまで、この夜の闇に紛れて政治家たちは下卑た笑みを浮かべて密談を交わしていた。



 銀の仮面は立ち止まり、ふと空を仰ぐ。月はまだ高く、朧な光が瓦屋根を照らしている。


 ひゅう、と強い風が吹く。


 そして次の瞬間――風が吹き抜けた刹那、仮面の姿はかき消えた。


 煙のように、風のように、銀の仮面は夜に溶けて消えていった。




 透明な結界が晴れた料亭には、近くを通る車のタイヤの音が再び届き始める。


 薄い月明りの下、柔らかな明かりが灯り続けた。

次話は明日20時投稿予定です。

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