10話 懐石・涙味の夜
十数分が過ぎ、一向に煮物の鉢を下げに来ない女将に「下げてくれ」と言ったものの、笑顔で一礼して去ってしまった。
……食べ切らなければ次の料理に行けないのか?
いや、草はともかく石など食べられる訳がない。
水を頼めばすぐに来るが、それ以外で呼び掛けてもうんともすんとも言わない。
「このままここに置いておいていいから、次の料理を頼む」
そう言うと、襖が再び無音のまま開いた。
畳の目をなぞるように女将が膝立ちで進み、桐山の座卓の手前に黒漆の長皿を置く。
女将の動きには寸分の無駄もなく、所作はどこまでも静謐だった。
「焼物、『朝影の串焼き』でございます」
短く告げると、女将はその場に正座し、両手を膝に揃え、静かに目を伏せた。
桐山は、わずかに顔をしかめながら皿に目を落とす。
赤ウインナー、焦げたピーマン、斜め切りの魚肉ソーセージ。
割り箸に刺された三種の具材は、すべて不恰好に焦げ、乾いて縮れていた。
(子供の弁当か……? ふざけているのか?)
苛立ちが胸に広がる。だが、対面の女将は一言も発さず、柔らかく下げた目線のまま、ぴくりとも動かない。
むしろ沈黙が、桐山に無言の圧力を与えていた。
(これは…試験なのか?…取引相手が来るまでは、立ち去るわけにはいかん)
桐山は仕方なく串を手に取り、ウインナーの端をかじる。
皮が妙に固く、口の中で裂けず、噛み千切った途端に油の臭気が鼻に上がった。
次いでピーマン。焦げた皮の奥からは苦味と灰汁が立ち上り、前処理をしていないせいか、大量の種が舌の奥にまとわりつく。
魚肉ソーセージも熱しすぎて表面がチリチリに焦げ、砂のような食感を残して喉へと滑っていった。
(まずい……いや、不快だ)
塩が振られていないのに油が大量に纏わりつく不協和音が広がる。
不意に喉が渇き、脇に置かれていた水のコップに手を伸ばす。
一気に三口で飲み干す。
その瞬間、女将がすっと立ち上がり、隣に控えていた水差しから音もなく注ぎ足す。
氷の入ったガラスの器が、再び静かに満たされていく。
桐山は微かに眉をひそめながらも、何も言わず、差し出された水を見下ろす。
女将は再び正座し、口を開いた。
「これは、幼稚園に通う子供が、自分の弁当を“ひとりで”用意した際の食事でございます」
桐山の手がわずかに止まる。
「母親は早朝から職場に出向き、台所に立つのは、まだ包丁も満足に握れぬその子自身。冷蔵庫の隅にあった赤いウインナーを二本、野菜室の奥にあった残りのピーマン、魚肉ソーセージを自分で切り、椅子に登ってコンロに火を点け、割り箸で刺して焼いた――それがこの焼物でございます」
女将の声に、非難や感情はない。ただ、淡々と過去の情景をなぞるような語り口。
「焦げていても、油味が強くても、その子にとっては“いちばん頑張った朝ごはん”でございました。保育士が『がんばったね』と声をかけたあと、静かに泣かれたとか」
桐山の喉が痙攣する。再び水を掴み、一気に飲み干す。
女将は迷いなく、また水差しを取り、桐山の手元のコップにさらさらと注ぎ足す。
器に満たされていく水の音だけが、部屋に広がった。
その清澄な音に、桐山の焦りが逆に強調されていく。
桐山の喉が鳴った。無意識にまた水を口に含む。
それでも、ウインナーの油味と焦げたピーマンの苦み、種が、口中に張りついて離れない。
(――いったい、何を食わされたんだ)
不意に、視線が皿の上に落ちる。
串に残された、焼け焦げたピーマンから落ちた、煤けた種――
それは、本来なら子供が食べたかったはずのごま塩ご飯のようだった。
(食った……俺はこれを……)
ぞわ、と首筋を汗が伝う。
ここまでの二品とはまったく違う。
「不味い」では済まない、もっと根源的な"拒絶感"が、今になって遅れて胸を叩いてくる。
桐山は女将に何か言いたかった。だが言葉が見つからない。
その沈黙の中、女将は丁寧に器を下げ、また襖の方へと下がっていった。
取り残された桐山は、冷たい水をすするようにして口へ運びながら、
いま食べた「焼物」の正体を、静かに反芻し続けるしかなかった。
女将の静かな気配が、また室内に戻ってきた。
畳の上を滑るような足音。桐山はすっかり耳がその足音を憶えてしまっていた。
料理が届くたび、胃の奥がぎゅっと絞られる。
冷や汗で背中がじっとりと濡れ、首元を伝って襟元に染みてゆくのを、指で拭う余裕もない。
女将は、今回も黙って桐山の右前に膝をつき、右前に盆を置いた。
その上にあったのは、からりと揚がった、小ぶりな茶色の塊。一見すると、食欲をそそる「唐揚」のようにも見える。衣はぼそぼそとしていて、よく見ると焦げ目がまだらに浮かび、やや形も不格好だ。
「揚物、『から揚げ』でございます」
淡々と女将は言い、正座のまま盆から手を離して、静かに身を引いた。
桐山は眉をひそめる。先ほどまでの料理の流れからして、これも何かの“模倣”なのだと即座に察する。だが、これまでと違い──見た目は、一応まともに寄っている。それが逆に不安だった。ここに来て、なぜ急にそれらしい物が出てくるのか?
「……唐揚、ね」
吐き捨てるように呟きながら、桐山はまだ見ぬ取引相手を脳裏に浮かべて自分を奮い立たせた。
席を立って帰るわけにもいかない。もしかするとこの料理の数々は"取引相手として信用に足るか試されている"のかも知れない。
そうならば、ここまで来て今更食べるのを拒む事など出来ない。
女将の表情は一貫して無風。不服の気配など通じる気配はない。なにより、彼女はあくまで礼儀正しいのだ。
桐山は箸で一片をつまみ上げ、口に運んだ。
……途端に、鼻を突き抜ける異臭。
油と甘い何かが焦げたような香り。噛めば衣がぼそりと崩れ、中からふんわりと、ありえない軽さの物が出てくる。吸い込んだ油を口の中で瞬時に吐き出して崩れるそれは──紙、いや……ティッシュ。
「ッ……!」
苦みと焦げた紙の舌触りに思わず桐山は顔を歪め、おしぼりで舌を拭うと、咳き込むようにうがい代わりの水を口に含む。
がぶがぶと音を立てて飲み干すと、女将はすかさず水差しから水を注いだ。流れるような所作。音もなく補充されたコップを見て、桐山は言いようのない不安をさらに募らせる。
「……これは……何だ……っ」
声がかすれていた。
女将は、ゆっくりと口を開いた。
「から揚げ──と申します。正確には、ご家庭にあったティッシュペーパーを丸め、それに小麦粉と水で溶いた衣をまとわせ、揚げたもの。子どもたちが空腹をごまかすため、遊びの中で作ったまねごとの料理でございます」
桐山の喉が、ごくりと鳴った。
「学校からお腹を空かせて帰ってきた子どもが、夜遅くまで働いている母親の帰りを待っていた時、冷蔵庫の中には食べられるようなものもなく、仕方なく見様見真似で作られたものだそうでございます。ティッシュでお肉を模し、から揚げと称して、周りの衣だけをしがんで空腹を紛らわせていたそうな」
その声に込められた感情は、淡々としていて、温度がない。
ただ事実として、誰かの記憶が並べられただけ。
だが──桐山の心臓は重く鈍く鳴った。
「……誰が、そんなことを……」
呟きにもならない言葉が漏れる。
口内には焦げた紙の香ばしさがまだ残っていた。
油を吸い込んだティッシュの甘苦いまずさが鼻の奥に引っかかったまま、吐き出すことも、なかったことにもできない。
また水を飲む。女将が黙って水を補充する。
テーブルの上に、残りのから揚げがまだ三つ、並んでいた。
テーブルの上には石の煮物とティッシュの揚物が残ったまま十数分。
女将は変わらず静かな足取りで部屋へ戻ってきた。
畳に膝をつき、桐山の右前に音もなく盆を滑らせる。
「焼物、『陽だまり』でございます」
たったそれだけの言葉と共に、盆の上に並べられた器が露わになる。
陶器の皿の上には、わずかに炭の焦げ目がついた、薄くて硬そうな茶色の板のような何かが数枚、規則的に並んでいた。
添えられているのは、しおれきった細い葉と、炭のように黒ずんだ何かの欠片。
ほんのわずかに、塩が振られているのが見える。
料理の中心にあるのは──何だ? 何かを模したものか? パンケーキか、煎餅か、それとも。
桐山は器を見下ろす。
焼物、と言われて納得できる見た目ではない。
これも何かの模倣であることはすぐにわかった。だが、模倣であるにも関わらず、極めて質素で、無骨で、粗末だった。
むしろ「真似」にさえ届いていない。
「……これは……?」
問いは反射だった。だが女将はその問いには答えない。
ただ静かに正座を保ち、瞼を伏せたまま、言葉を待つわけでも、拒絶するわけでもなく、ただそこにいる。
桐山は苛立ちを覚えながらも、腕時計を一瞥し、舌打ちを飲み込んだ。
取引相手は来ない。──来ないのか?
女将の異様な沈黙と、空間を包むこの不穏な空気。まるで何かに試されているような、選ばされているような。
「……何を焼いたんだ」
やはり問いかけに返事はない。ただ女将は黙して微動だにせず、まるで“それが当然”だというように、その場に留まっていた。
桐山は苛立ちとも焦りともつかない感情を喉に押し込むように、箸を手に取る。
器の上の一枚をつまみ、口へと運ぶ。
表面は固く乾いていて、中心部はわずかに湿っている。薄く焦げた香りが鼻をくすぐった。
──パリッ。
破れるような、裂けるような、心細い音。
咀嚼を始めてすぐ、桐山は眉をしかめた。
苦い。いや、苦いというより、苦いふりをした何かだ。
油ではない焦げた何かの味。紙くず。いや、灰。
どこまでも空虚な、噛むほどに口内の水分を奪っていく無情な質感。味ではない。記憶の残滓のような「味もどき」だった。
そして──何よりも、その“食感”。
パサパサと剥がれ、歯に張り付き、次第にわずかに溶けるその感覚。
桐山は咄嗟にコップに手を伸ばす。
水を一気に飲み干す。喉を通る冷たい液体に安堵する間もなく、女将がすぐさま水差しを傾け、無言のまま満たしていく。
コップの中に水が満ちていく様子が、やけにゆっくりと見えた。
女将は器に目を落とし、淡々と語り始める。
「古紙と、段ボールと、乾いた落ち葉を水で混ぜて漉き、空き缶の中で焼いたものでございます」
桐山の手が止まった。
「ある兄妹が、ごみの日まで何も食べられない夜に、家の裏で拾ったもので作ったそうです。パン屋さんごっこ。トーストごっこ。そんなふうに呼び合いながら」
「学校で『うちもトースト食べた』と──言いたかったようでございます」
静かに、語る。
そこに怒りはなかった。ただ、凪いだ湖面のような淡々とした響き。
だが、その言葉の一つひとつが、桐山の中に、鋭く、冷たく突き刺さる。
トーストを食べたと言いたいがために。段ボールと落ち葉を混ぜて焼いた。
噛みしめるほどに、さっき自分が食べたものの「正体」が、味覚と共に蘇ってくる。
彼はもう一度水を口に含んだ。飲み込んだ瞬間、その喉の奥に残った紙の粉のような後味が、水の清らかさと不気味に対比した。
桐山は、汚された口で何かを言おうとするが、言葉が出なかった。
料理は確かに焼かれていた。
自分の舌に触れ、それを味わった、それを否定することはできない。
桐山は口の中の味を消すように、無意識にまたコップに手を伸ばす。
冷たい水が、今だけは唯一、現実感のある救いに思えた。
だが、水はまた満たされる。
終わることなく、透明な静寂が続く。
──なぜ、こんなものを。
彼の心の中で、誰にも届かない問いが、じわりと熱を持ちはじめていた。
座敷の奥、静かに襖が開く。
女将が膝を滑らせるように進み出てくる。手にした丸盆の上には、小ぶりな木椀がひとつ。
それは他の器と比べても簡素で、どこか乾いているようにすら見えた。
「汁物、『しずく椀』でございます」
膝立ちの姿勢から、女将は滑らかに正座へ移り、器を桐山の前へ丁寧に差し出す。
その手つきには、一切の迷いも、慈しみも、気遣いもない。まるで儀式のごとく。
桐山は、椀の蓋に手をかけるまでに、やや時間を要した。
さすがに料理名だけでは中身を想像できない。
だが、すでに四度にわたり、その名の裏に込められた“現実”を叩きつけられてきた桐山にとって、それはただの料理ではなく、毒にも似た恐怖の器であった。
──また、あれか。
内心でそう思いながら、蓋に触れる。乾いた木肌の触感。ぴたりと吸い付くような静けさ。
ゆっくりと、蓋を外した。
ふわりと、湯気が立ちのぼる。
だが、香りがない。
味噌の匂いもしない。出汁の芳しさもない。ほんのわずかに、乾いた草のような青臭さが混じるのみ。
そして器の中には、薄く濁った、白茶けた液体。
底には、濾し切れなかった細かな繊維、細切れの草か何か──まともな食材らしきものは、ひとつとして見当たらなかった。
桐山は眉をしかめ、口元を硬く結ぶ。
「……」
箸は動かない。だが、女将の視線もまた動かない。音も、空気の流れも、すべてがこの器と桐山を一点に集中させる。
桐山はしぶしぶ椀を手に取り、口へと運んだ。
……ぬるい。
いや、微温いとも言いがたい。舌をすり抜け、喉の奥へ落ちるその液体には、旨味も、調味料も、温度さえもなかった。
わずかに感じるのは、生乾きのような臭気──腐敗ではない、だが、清潔とは言いがたい。
舌に残る、微かなざらつきと苦味。
ごく、と嚥下する際に、喉が一度反射的に跳ねた。
桐山はすぐに水に手を伸ばした。
ごくごくと勢いよく飲み干す。
すぐさま、女将が黙って水差しを傾け、涼やかな音を立ててコップへ水を満たす。
「……」
女将が、静かに口を開いた。
「こちらの椀は、とある都市部の団地で生まれた汁物でございます」
桐山の眉が微かに動く。
「母子二人暮らしの家で、水道・電気・ガスがすべて止められた日がございました。けれども子どもは空腹を訴え続ける。母は、雨の日にベランダに置かれた洗面器に溜まった水を室内に持ち帰り、残っていた乾燥わかめの切れ端と、雑草を刻んで加え、カセットコンロの最後の火で、これを温めました」
桐山の喉が、ごくりと鳴る。
「ほんの一椀でも、おなかが温まると安心するもの。母はそれを笑顔で出し、子どもは『おいしいね』と何度も言ったと申します。その家の台所では、それが最後の食事だったそうでございます」
桐山はもう、器を見られなかった。
目を伏せ、額にじんわりと汗が滲む。
汁物を飲んだはずなのに、身体は冷え切っていた。
背筋を何かが這うような、得体の知れない不安。胃の底が重く、鉛のような何かが沈み込んでいる。
女将は一礼し、襖の奥に去る。
再び、重たく沈む静寂。
水だけが、また一杯、満たされていた。
──どうして水だけは、こうも潤沢に提供されるのか。
桐山の中に、かすかな疑問と、どこまでこの辛苦が続くのか、恐怖が芽生え始めていた。
テーブルの上に、またひとつ器が増える音がした。
すでに食卓は埋まりかけている。
泥をそのまま煮込んだような「石の煮物」、表面だけ取り繕った「ティッシュのから揚げ」、取り繕う事さえしなくなった「ダンボールトースト」、そして未だ生ぬるい温度を保つ「雑草の雨水スープ」。
どれも桐山の前で食べ残され、少しばかり左に退けられるが下げられることなく、淡々とそこに並び続けている。
相変わらず、正座の姿勢を崩さないまま、膝を滑らせるように近づき、器を桐山の前へと置いた。
「七品目、酢の物──『酢漬けの夜明け』でございます」
器は小ぶりな朱塗り。中には白濁した酢の液体が少量注がれ、そこに千切りになった白と淡緑の繊維が沈んでいた。
色味こそ清楚だが、決して上品な盛り付けではない。むしろ、乱雑に刻まれた大根の皮や、キャベツの芯のようなものが目に入る。
桐山は一瞬、箸を取るのをためらった。
嫌悪というより、ただ、もう……食べたくない、という心の声が先に立つ。
胃が張っていた。
空腹ではない。むしろ、逆だった。
この一時間少々の間、桐山の体内に入ったのは、水ばかりだった。
ティッシュの揚げ物も、ダンボールも、草のスープも、まともに食べられるようなものではなく、口の中の不快感を、水で流し込むしかなかった。
五杯、いや、六杯か七杯か。数えても意味はなかった。飲めば飲むほど、満たされていくのは胃袋ではなく、むしろ不快感だけだった。
そして今、桐山の目の前にはまた一つ、皿が増えた。
女将は変わらぬ表情で正座し、伏し目がちに器を静かに見つめている。何も言わない。
けれど、「食べない選択肢」は、やはり許されていないのだと、桐山は察していた。
──取引相手が来るまでは、ここを動けない。
そう自分に言い聞かせながら、箸を伸ばす。
白と緑の繊維を、ほんのひとつまみ口に運ぶ。
口の中に、鋭い酸味が突き刺さった。
甘みも旨味も、何ひとつない。
酢の刺激だけが、舌と歯茎を刺すように広がり、鼻の奥まで痺れが走る。
思わず咳き込んだ。喉が絞まり、吐き気に近い衝動がこみ上げる。
慌ててコップを取り、水を流し込む。
……気づけば、また満たされていた。
水差しは空になっていない。女将は、いつの間にか再びコップに水を注いでいた。
この女は、俺が飲むたびに、すぐに水を満たす──。
桐山は内心で震える。無言のうちに、逃げ場を塞がれている感覚。
逃げるように水を飲むことさえ、すでに手のひらの上だと知らされているような。
「……この酢の物は、調味料を買う余裕もなくなった家庭で、わずかに残った古い酢を水で薄め、皮や芯を刻んで作られた献立でございます」
女将の声が、囁くように届いた。
「食べられる部分はごくわずか。火も通さず、煮炊きもできぬ寒い朝に、これを家族全員で分けて食されたこともあったとか。芯の歯ごたえと、皮の苦味が、冬の記憶をよみがえらせるようでございます」
桐山はもう、その言葉に反応する力も残っていなかった。
器の中で酢液がわずかに揺れ、また膨れ上がった腹の中で、水がごぼりと音を立てた気がした。
水で膨れた胃。食べかけの料理の山。女将の無言。自分だけの空間。
桐山の手は、膝の上でこわばったまま、動かなかった。
無言で料理を待つ時間が、いつの間にか耐え難いものになっていた。
体の芯まで水で満たされたような感覚。胃袋が張り裂ける寸前なのに、空腹は癒えず、むしろ濁った満腹感が脳を鈍く侵していく。
食べかけのまま残された皿の数々が左側で渋滞を引き起こしている。
どれも箸が進まぬまま、卓に沈黙の山となって積もっていた。
いつになったら取引相手は来るのか。
救いを求めるような気持ちと、散々な目に遭わされた怒りと、何でもいいからこの空気を換えてくれと縋りたくなるような心細さ――それらが精神をかき乱す。
だが、それでも部屋にやって来るのは女将ただ一人。
女将が、また膝立ちで陶器の器を持って現れる。
「御造り・瑞霞の彩三点盛でございます」
大葉や大根のつまなどがなく、皿に直に並ぶ三つの色とりどりの直方体。
明るい桃色、鮮やかなオレンジ、そして瑞々しい黄緑。まるでゼリー菓子か、精巧な練り切りか。
だが近づくにつれ、強烈な人工的な甘い香りが鼻腔を満たす。
いちご、みかん、マスカット――そう書かれたケースに収められた物。
……匂い付きの消しゴム。
脳が異常を訴える。食べ物ではない。だが、女将は一切説明せず、ただ正座で静かに頭を垂れている。
――これも、食べるのか
そう訊く勇気はもうなかった。もはや桐山に残された選択肢は、“従う”か“逃げ出す”か。
そのどちらにも踏み出す気力はない。
震える手で「いちご」と記された桃色の物体を箸で摘まむ。表面に小さな彫刻のような溝があり、わずかに歪んでいた。
……まるで、子供の手で何度も握られたような痕跡だった。
桐山は、唇に近づけた。
そしてそのまま、角のごく一部にだけ歯を立て――
鼻の奥だけが甘い。異常な甘さだ。
しかし口の中ではゴムっぽいようなプラスチックの味が主張し、芳香剤のケミカル臭を混ぜ込んだようなえぐ味が舌の上で踊る。
噛めば、ぐにりとした抵抗。どこかから軋むような音が漏れた。胃が拒絶している。
女将と目がかちりと合う。
しかし女将は一切表情を変えず、笑みを湛えたままこちらを透かしたように見てくる。
ここまで来て引き下がるわけにはいかない。吐いてはいけないのだ。
そう思いながら、せり上がる胃を無理矢理ねじ込むように、水の力を借りて共にごくりと飲み下した。
そして、女将が口を開く。
「これは……ある親子が使っていた匂い付き消しゴムでございます」
声は静かだった。けれど確かに、室内の空気を切り替えた。
「果物というものを買う余裕がないご家庭でございました。この“いちご”“みかん”“マスカット”の香りを、男の子はとても気に入り、大切にしておりました。学校へ行く前に机の引き出しから取り出しては、鼻に近づけ……“これはきっと、果物の匂いなんだ”と、想像していたそうでございます」
桐山の胃が軋んだ。鼻孔に残る甘ったるい匂いが、吐き気を誘う。
「……そして、ご病気で床に伏せていたお母様も、男の子が学校へ行った後、こっそりとその消しゴムを枕元に持ち出し、同じように香りを嗅いでいたといいます。……果物を、もう何年も食べていなかったそうでございます」
女将の声は淡々としていた。あくまで説明。物語を語る語り部としての距離感だった。
「これは……そうした香りだけの御馳走でございます。口にするものではなく、ただ、香りを楽しむためのもの。……とはいえ、実際に食べてしまう方も……いたのかもしれません」
女将は一礼し、静かに下がっていった。
桐山は動けなかった。
胃の奥がきしみ、胸が熱くなり、呼吸が喉の途中で引っかかる。
目の前の皿に残った、みかんとマスカットの“御造り”。
もう視界に入れたくないその皿を左手に退かす。
三種の甘い香りが混ざった不快な空気の余韻に、思わず胃がビグッと蠢く。
咄嗟に息を止めて暴れようとする胃を力ずくでねじ伏せ、落ち着かせ、やがて、か細く長い息をついた。
ふと、左手にある水のグラスが満たされていることに気づく。
女将が補い置いていったのだ。何度飲んでも、必ず満たされるこの水だけは、常にここにある。
そして、それだけが今の桐山にとって、唯一“救い”に思えた。
皿の数が増えていく。
料理とも呼べぬ何かがテーブルの左側に溜まっていくこの状況に、桐山はぼーっと空中の一点を焦点の合わない目で見つめていた。
胃が、張り裂けそうに重い。
食べた量は少ないはずなのに、水ばかり飲んでいるせいか腹が膨れ、胸の奥で何かが逆流しそうだった。
――なのに、水が止まらない。
ずっと空腹で、ずっと口の中が不快感に支配されている。
すするように飲むたびに、女将は音もなく現れて黙ってグラスを満たす。
さながら“喉の渇き”だけが許された地獄のように、透明な液体だけが延々と供され続けていた。
女将が戻ってくる気配に、桐山は瞼を閉じた。
――もうやめてくれ。次は何を持ってくるつもりだ。
不快感と疲労困憊を隠す事さえなくなった桐山は、糸の切れたからくり人形のように、力なく座椅子の背に全てを預けていた。
膝立ちのまま、女将が盆を持って近づいてくる。手には黒漆の丸盆――三つの器が並んでいた。
「九品目、御飯・香の物・止椀でございます」
その言葉が耳に届いた瞬間、桐山の目に飛び込んできたそれは――異質だった。
白米。
香ばしく炊き上げられた銀色の粒が、きらきらと光っている。
薄黄色のたくあんが二切れ。味噌汁は見た目にもとろみがあり、湯気と共にふんわりとした出汁の香りが立ち上る。
あまりに“まとも”だ。
ここまで積み上げられてきた、到底料理とは言えないような塗炭……悪夢の連続の中で、これだけがあまりに現実的で、美しい。
桐山は、言葉を失ったまま、身じろぎもできずにいた。
だが――。
何かおかしい。いや、おかしいはずだ。
この料理が“まとも”であることが、逆に不気味だ。
箸に伸びかけた手が止まる。視線を茶碗に移す。
白い、光る米粒が、湯気の向こうでゆっくりと揺れていた。
「……これは……」
ごくり、と唾を飲み込んだ。
喉が、乾いていた。
身体が、否応なく反応している。
だが、その一方で――頭は警鐘を鳴らしていた。
この白米も、模倣なのではないか?
プラスチックで出来ていたりしないだろうか。
だが、香りが、意識をかすめる。
たまらず箸を取った。恐る恐る、ひとつまみだけ口に運ぶ。
恐る恐る噛んでいくと、一切の固い感触や違和感などがなく、きちんとした柔らかな食感をもって口の中でほろほろとほぐれていく。
――うまい。
噛むたびに甘味が増す。
口の中にほぐれて広がる、柔らかな粒と、絶妙な歯触り。
胃が熱を感じた。もっと熱々の方が好みだがそんなことは関係ない。
白米の自然な甘い香りが鼻を抜けて脳を満たす。
桐山は震えた。
「……う……っ……」
わからなかった。
涙が出そうなのか、吐き気なのか、ただの錯乱なのか。
たくあんを一切れ。
――パリッ。乾いた音が、静かな室内に響いた。
噛み締める度、たくあんのうまみが広がる。
飲み込むのを遅れさせたくなるほど程、しっかりとした風味が口の中にあり続ける。
わざと嚙まずに飴のように味わいたくなるが、空腹のあまりにガリガリと噛み砕いていて、つい飲み込んでしまった。
味噌汁を一口。わかめと出汁の旨味が舌を包む。
鰹と昆布の上質な出汁。丁寧な処理をしているのが良く分かる、澄み切った味だ。
味噌も適切な温度管理の下で加えられたもので、大豆の味わいをしっかりと残す。
わかめの食感も素晴らしい。ぐにぐにとした柔らかな歯応えは、噛むとその奥から磯の香りと旨味があふれ出す。
消しゴムなんかとは比べ物にならない、純粋で歯切れのよい弾力。思わず、椀の底を浚って纏めてひと掬いに頬張る。口中にわかめの存在感を確かめながら、もぐもぐと、名残惜しさを感じながらも、ごくんと飲み込んだ。
気づけば、箸が止まらなかった。
我に返った時には、全てを完食していた。
白米の粒ひとつ残さず、汁もすべて啜りきり、器の底が見えるまでになっていた。
ふう、とため息をついて箸を置いた手が、微かに震えていた。
女将はゆっくりと視線を桐山に向け、そして淡く語った。
「……かつて、白米は当たり前の食事でございました」
それは、断罪でも諷刺でもなかった。
ただ、悲しみを宿した物語の語り手のような口調だった。
「ですが……歯止めの効かない物価高と海外への輸出偏重政策により、白米は贅沢品となりました。増大する税負担、各種手当・年金の大幅減額、医療費の高騰、生活保護支給基準の大幅な引き上げで到底手が届かない代物となったのです。減反政策の影響で米作りに適した土地は縮小、さらに農業補助金の削減や肥料・燃料代の高騰なども拍車をかけ、市場から白米は姿を消していきました。国民負担率は五十パーセントにまで伸び、食事を満足に摂ることも出来なくなった市民は雑穀や芋などを混ぜて嵩増しし、水を足して伸ばして飢えをしのいでいたのです。いつの間にか、白米は日本では手に入らない、“死んだ後にしか口にできない”食べ物になっていたのです」
静かに、茶碗の底を指でなぞる。
「――生きている間は一粒も食べられず、ようやく“あの世”で供される白米。人々は、これを“死人のための飯”と呼ぶようになったそうです」
桐山は、膝の上で拳を握り締めていた。
口の中に、あの白米の甘味が、まだこびりついていた。
胃の奥では水を吸った白米がより強い膨満感を主張して渦を巻いている。
白米は確かに美味かった。だが――それはまるで、自分を死者として祝福するかのようだった。
テーブルの上には、石の煮物。ティッシュのから揚げ。ダンボールトースト。雑草のスープ。消しゴム三点盛。
食べ残しの山が、じっと桐山を見つめ返しているかのようだった。
女将は、静かに一礼し、空になった茶碗・汁椀・漬物皿を盆に乗せ、音もなく部屋を去っていった。
一応の腹は満たされたが、言いようのない嫌悪感と不快感が胸と腹を渦巻く。
部屋には、湯気と死臭が入り混じったような、曖昧で重たい空気だけが漂っていた。
畳敷きの個室には、もはや空調の音も聞き取れぬほどの静けさが満ちていた。
長い食事を終えた後の満腹――とは真逆の、底なしの虚しさと嫌悪感が桐山の腹に巣くっている。
食べ残した品々は、テーブルの上を埋め尽くし、異臭を放ち始めている気さえした。
――もう、これで終わりにしてくれ。
そんな祈りを抱きかけた時だった。襖がわずかに引かれ、女将が再び姿を現す。
手にしていたのは、黒塗りの木盆。その上には、空の檜枡と、透明な小さなグラス、大振りの徳利が丁寧に並んでいる。
ゆっくりと正座し、桐山の右隣に膝立ちになった女将は、枡を桐山の正面にそっと置き、グラスをその中央に重ねる。
そして、盆から持ち上げた淡い藍色の徳利を手に取り、傾けた。
コポッ――コポポ……。
透明な液体がグラスを満たし、やがて縁を越えて枡へとこぼれる。
静かな“もっきり”の音が、桐山の鼓膜に重たく響く。
「こちらが最後になります。『涙味の夜』でございます」
女将は、深く頭を垂れた。
桐山は眉をしかめた。耳に残る“るいみ”という語感。何を差している?
また何かの模倣のつもりなのか?だが、女将の横顔にふざけた色は一片も見られない。
彼女は相変わらず伏し目がちな眼差しで、畳からテーブルの間あたりの空中をじっと見つめている。
桐山は躊躇った。
胃の中では、すでに無理矢理食べさせられたあれこれがごった煮になっている。これ以上の飲食は、さすがに身体が拒否していた。
だが――グラスが注がれたそのままに枡の中央に置かれている以上、それに手をつけねばならない雰囲気があった。
食べ残したものは山ほどある。
なのに、この一杯は、目の前で注がれたという事実によって、どうしても無視できない。
仕方なく、桐山はゆっくりとグラスに指をかけた。
ガラスの冷たさが、やけに重い。
匂いはない。まるで純水のような透明さ。
だが、それが逆に――不気味だった。
唇を湿らせるだけ、そう思ってほんのひとくち口に含む。
……その瞬間。
舌先に強い塩味のような鋭い刺激が、じわじわと口内を覆っていく。
塩分というより、もっと――鉄。血の匂い。涙腺に伝わる、あの独特の塩味と、熱いものが込み上げる時の、生理的な苦さ。
喉を通る頃には、味覚そのものではなく、“感情”が流れ込んでくるような錯覚すら覚えた。
「……っ……なんだ、これ……」
声が漏れた。
コップを置く手が震えていた。
グラスの中の残りの液体が、わずかに揺れている。
女将はその揺れが収まるのを待っていたかのように、静かに口を開いた。
「泣き声を上げることも許されぬまま、朝に、夜に、誰にも見えないところで泣いた日本中の国民たちの涙を、すくい集めたものでございます」
「……国民の…涙…」
そう呟いたつもりだったが、声が喉の奥で震え、かすれていた。
「ある人は、学費が払えず進学を諦め、工事職場でいびられ、屋上でただ一人泣きました。ある人は、ただでさえ少ない食事を減らしながら子に栄養をまわし、仏壇の前で泣きました。ある人は、働けど働けど税と保険料に追われ、子を施設に捨てるしかなくなった父が、深夜の公園で泣きました。その涙を、ひと雫ずつ集めました」
桐山は俯いた。否、俯かずにいられなかった。
胃の中でぐらぐらと液体が渦を巻く。
ただの塩水ではない。身体が、“これは飲んではいけないものだ”と訴えている。
だがもう、飲んでしまった。
その“涙”を。
「必要な書籍や学習ツールを購入できず、知識を深め昇進する機会を奪われました。
治療すれば治るのに、高額な治療費を理由に治療を諦めて死ぬことを選びました。
交通費を節約するために毎日長い距離を自転車で通った結果、飲酒運転のひき逃げに遭い命を落としました。
よれよれになって破れた古着を着続け、寒さと恥ずかしさに震えながら外を歩きました。
引っ越し費用が払えず、ストーカーから逃げられなくなった結果、そのまま自宅で殺されました。
まともな食事が出来ず、栄養失調になり、骨がスカスカになって歩けない体になりました。
バイトをしても充分な貯蓄が出来ず、実家を出るまで毎晩のように実父実兄から襲われ続けました。
他人の家に金を盗みに入り、鉢合わせした住人を殺して人生を棒に振りました。
両親の遺した家の相続税が高額過ぎて払えず、家を手放し、親と家と生活を同時に失いました。
親にスマホをねだっても買ってもらえなかった結果、学校で孤立しいじめられ、自殺を選びました。
ひったくりに突き飛ばされ地面に頭を強打し、二度と目を覚まさない植物状態になりました。
子供に心配をかけないよう退職金で老後の貯えのためにネットの知り合いの投資に乗った結果、全財産を失いました。
働き詰めでも生活が成り立たず、未来への希望を失いました。
生活資金に余裕がなく、パートナーとの結婚を諦めました。
娯楽を一切諦め、人生の楽しみを何も持てなくなりました。
お金があれば出来たはずの事、安心して過ごせる日々、助かったはずの命、生まれてくるはずだった命が、桐山様が自分の事だけを考えて判子を押したせいで、永遠に失われました」
――泣いた。
気がつくといつの間にか大粒の涙が頬を伝っていた。
目の前が見えない。
声を上げず、ただ目を伏せて、唇を噛んで、泣いた。
その涙の一滴を、今、自分は――飲んだ。
「……っあ……ぁぁっ……!」
呻き声にも似たものが漏れる。
喉が熱い。目が焼けるように痛む。
嗚咽が止まらず、止め処なく涙腺がひくついていた。
こんなものを……。
こんなものを飲ませる料理が存在するのか? 存在していいのか? いや――
生み出してしまったのは、自分のせいだ。
この世の人々に、これだけの涙を流させたのは他でもない、自分だ。
「俺が……俺が……」
これだけの悲しみを生んでしまった。
大勢の人が、こんなに沢山の涙を流した。
テーブルに広がる料理を食べながら………。
言葉にならない。瞼を開いても、閉じても、涙が溢れてくる。
座椅子の下半身は沈み込むように重く、立ち上がることが出来なかった。
手を伸ばしたコップの水も、もう喉に通らなかった。
静かだった。
女将は、ただ深く一礼すると、そのまま膝で下がり、襖の向こうへと去った。
再び、部屋にはひとり。桐山貢一だけが取り残される。
太ももの上で握り込んだ拳の中の、爪が自分の手の平に刺さる。
その拳の上に涙が零れ落ちる。
グラスと桝に並々と注がれた国民たちの涙を目の前にして、桐山は頬を伝う自らの涙を味わった。
国民が味わった苦痛。貧困。失望。無念。
それがまざまざと見せつけられる、食卓。その記憶。
大事に大事に取っておいた、しなびた大根。
石と草を煮た、泥臭い汁。
幼子が孤独の中不慣れな包丁と火を扱い、焦がした串。
親の帰りを待ちながら、母の味を想って真似して作った唐揚。
食べられるはずがないと分かりながらも調理に望みをかけた、ダンボール。
雑草と雨水のスープをありがたがって迎えた最期。
消しゴムの匂いだけでも満たされようと縋りついた、飢えた親子。
そんな人々が生前欲しくてたまらなかった白飯が、死後に供えられる。
――手遅れになってから、ようやく同情される。
一億もの日本国民を、そんな地獄に突き落としたのは―――
「………ぅぅぅっ………!」
――そして。
部屋の空気がふっと変わった。
襖が、音もなく、わずかに開く。
入り込む冷気とともに、仮面の影が差し込んだ。
桐山の背筋が、凍りついた。
これまで顔を合わせていた女将ではなく、そこに立っていたのは黒い影。
銀の仮面。
黒い衣と白銀の仮面を纏い、政府を恐怖のどん底に陥れたあの映像の男が、音もなく足を踏み入れる――。
次話は明日20時投稿予定です。
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