記録66 ひとりの立候補者について
今日、ひとりの立候補者が申請のために政庁までやってきた。その印象的な男について、ここに書き記しておく。
他の立候補者たちなら、意気揚々と初日にやってきたものだが、その点からして、今日の彼は違っていたわけだ。
執務室に通されたその彼についてまず目についたのは、その肉体の頑健さである。中背ではあるが、必要に応じて備えられたらしい筋肉が肢体に張り付いているのが衣服越しにもわかった。日に焼けたその顔の表情は生真面目で、その無愛想な目の奥には、憂いのある哲学が秘められているように見えた。(この男単身でも、一種の迫力が感じられるのだから、もしも他の候補者たち──上昇志向ばかりは強烈だが肉体的には惰弱な者たち──と横並びでいたら、この迫力はひときわ強烈なものとなるだろう、とわたしは思った)
その彼が一文字に結ばれた口をひとたび開くと、動物の威嚇を思わせる低い声が発せられた。
「執政殿。よろしくお願いします」
たったそれだけの言葉だというのに、わたしはなんだか気圧されてしまった。その言葉に、怒りに似た感情が込められているように思えたからだ。
わたしは、まごまごしながら、書類を受け取った。人別帳の写しとか、納税証明書とか、現職参事の推薦書とか、供託金の証明書とかを最終的な確認を行うのは、半ば形式的であるにせよ、自由都市執政の責務であった。
果たして、補選に立候補したがるような成り上がりの商人たちの中に、こんな男がいただろうか……と内心考えながら、書類を確認していく。
その男は、飛脚等の肉体労働者たちからなる組合の人間だった。……なるほど、たしかに魔術装置による帝都との遠隔通信が実用化されて流通が活発化して以降、むしろ飛脚の需要は高まっている。組合として見てみれば、納税額という条件を満たすことができるのだろう。納税額に関する細則を思い浮かべたが、特に問題はなさそうだった。
しかし──供託金は? 決して安い金ではない。飛脚上がりの組合員にとっては、なおのことだろう。
そのことを確認してみれば、彼はその精悍な顔つきを歪めた。
「……寄付を募りました」
屈辱だ、と彼は言外に言っているように見えた。
実際のところ、組合の人間が立候補するというのは、前例がないことであった。とはいえ、今回は提出書類に形式上の不備はなかったため、彼は初めての、組合からの立候補者となった。
この男が参事になればいいのにな、とわたしは無責任な感想を持った。一度会っただけで、彼の人格がどういうものかはわからないが、なんとなく、彼の不満げな表情が気に入ったのである。
もしかしたら、そもそもこの立候補はこの男にとって不本意なものかもしれない。しかし、不本意であったとしても、なすべきことがあるからこそ、彼は立候補をしたのだ──と、わたしは勝手に思った。そしてそれが本当ならば、実に好ましい機序である。




