記録30 思いついたことについて
結論から言えば、信心深い人びとからの反発を抑えることは無理だった。それどころか、反発は日々強まる一方である。
市内の聖堂の改修予算を組んだり、わざわざ礼拝に赴いてこれ見よがしに寄進をしたりして、さもこの自由都市執政は砦の修道会の道徳を重んじていますよという態度をとって見せた。(それはある意味で、敬虔な人びとがそうするよりも努力が必要だったというのに!)けれど、なにをやったところで批判を弱める効果はなく、むしろこちらの腹積もりを見透かされていたようで、うわべだけ取り繕いやがってと余計に軽蔑を受ける始末だった。
相手方の要求が『魔術装置の使用を止めろ』なのだから、そもそも解決などしようがない話だったのだ。……もう無理だといったん受けれてしまえば、なんとも単純で自明な結論に思える。なんとかならないかと試行錯誤していたときは、ひどくもどかしかったのだが、いまとなってはなんとも清々しい気分だ。
清々しいついでに、ひとつ思いついたことがある。もしもこのまま、一部市民からの反発が強まっていけば──わたしは、自由都市執政という立場から降りることができるのではないだろうか? つまりそれは、これまで懸念していた自由都市への背任(実際的には、参事会の老人たちへの背任)という罪名による弾劾と投獄という形ではなく、市民の批判に応じての退陣という比較的穏当な形を実現できるのではなかろうか?
逆転の発想である。この天啓に、わたしの胸は高鳴っている。もしかしたら、全てがうまくいけば、自由が手に入るかもしれない。
信心深い人びとの慰撫を参事会が命じてきたということは、それが参事会の老人たちにとっての懸念点であるということに他ならない。おそらく、市民たちによる参事会への有形無形の突き上げがあるのだろう。
ああ、信心深い人びとの反発! ついさっきまで疎ましいものだとばかり思っていたが、まさかわたしに自由を与える救いの手だったとは!
さて。
であれば、わたしがやるべきことは、その反発をさらに煽ることに違いない。──どのようにして? いろいろやり方はあるだろう。とりあえず、明日も礼拝にいって、これ見よがしに寄進をしてやることとするか。




