記録11 入力と出力について
ふと、以下のようなことを思った。
自由都市執政というものは、いわば大掛かりな鍵盤楽器みたいなものだ。鍵盤を叩けば、それに応じた音色を返す。入力と出力──それが全てだ。
自由都市執政という鍵盤楽器は、入力された仕事に対して、結果を出力する。ここで重要なのは、あくまでも鍵盤楽器というのは装置であり、演奏者ではないという点だ。この場合の演奏者というのは、つまり、参事会の老人たちのことである。鍵盤楽器に主体はなく、次々と叩かれる鍵盤に対して、内部では仕掛けが激しく動作し、摩耗し、損耗しながら、なんとか期待されている結果を返していく。けれど、演奏者はそんな内部のことなんてお構いもなしだ。果てには、一つの鍵盤楽器に対して、複数人の演奏者が連弾なんかを始める──こっちは一人だというのに! 間断の無い複数の入力に対して、同時並行的に、しかも即時に対応をしていていかなくてはならない。弾いている側は、鍵盤を叩いて、音を聞いて、そりゃあ楽しかろうが、こっちはたまったものではない。
結末は目に見えている。故障だ。
楽器の内部構造がすり減り、調律が狂っていくように、わたしも疲労し、狂っていく──
ひとつ、恐ろしいことがある。日中の激務に晒されているあいだ、わたしはむしろ苦痛を感じていないという点だ。躁的な忘我の境地にあるといってもいいだろう。仕事をこなすために頭を働かせているはずなのに、一種の麻痺というか、鈍麻に陥っているのだ。そして夜遅くにようやく解放され、ふと我に返った時に、そこでようやく愕然とする。寝床の中で正気に戻り、こんなことをやってはいられないと考え、自分の置かれた状況に怒りを感じるのだが……翌日の執務が始まると、また忘我の境地へと陥っている。
入力と出力。結局は、これが全てなのだ。自由都市執政という存在は、その入力と出力の間にある経路にすぎず、それ自体の人格が尊重されているわけではない。あるいは、尊重されていないどころか、人格というものは入力と出力の邪魔とさえみなされている。