記録10 暗殺未遂について
今日の出来事については、驚いたとしか言いようがない。
白状してしまえば、わたしは気が緩んでいたのだ。帝都の共和政府からの助力を得たことで、なんだかすべての問題に解決のめどが立ったかのような気分になっていたのだ。
もしも気を引き締めたままであったら、あの衛兵の顔が見慣れぬものであることに、警戒心を抱いていたかもしれない。けれど、わたしは特に気にもとめず、その衛兵の横を通って執務室へと入った。
執務室では、秘書のアデーラとともに黙々と書類仕事をこなした。すると、ふと扉が開き、その衛兵が中に入ってきた。彼は何事もないように後ろ手で扉を閉じた。
このとき、何事かと顔を上げたわたしは、さぞまぬけな表情をしていたに違いない。
次の瞬間、衛兵は懐から短剣を抜き放った。彼は呆けているわたしに飛びかかり、その白刃を突き立てようとした──そして真横に吹っ飛んだ。
暗殺者の横っ面を張り飛ばしたのは、ほかでもない、アデーラであった。
彼女は普段とまったく同じ冷徹な無表情のまま、しかし想像だにしていなかった機敏な動きで倒れた暗殺者に飛びかかった。短剣が握られていた方の手を踏み砕き、脇腹のあたりにつま先を突き刺した。暗殺者がよろめきながら立ち上がろうとするところに、彼女の拳が何度も、容赦なく叩きこまれた。肉と骨が砕ける音──
暗殺者が完全に無力化されてから、アデーラはこちらに振り返った。返り血を浴び、髪は多少乱れていたが、それ以外については、普段とまったく変わりがないようにも見えた。
「お怪我はありませんか、執政殿」と、彼女は言った。その声は涼し気で、息の乱れ一つなかった。
聞けば、アデーラは元は砦の修道騎士として修業を積んだ女武芸者だという。人は見た目に寄らないものだ。
しかし、砦の修道騎士とは! そりゃあ、強いわけだ。男人禁制の本山を警護する彼女ら修道騎士は、幼少期から虐待まがいの厳しい修行を積んでいると聞く。そしてその修行の末に、彼女らは『奥義』を体得し、男以上の膂力を手に入れるという。その力を実際に目にするのは初めてだったが、感服するほかない。
そんな元修道騎士がどうしてこの自由都市に流れ着いたかは知らないが、なるほど、要人護衛としてはこれ以上ない人材であろう。……そんな彼女を秘書として寄こした参事会の老人たちは、つまり、こちらのことを守ろうとしてくれているということだろうか? 心情的には、素直に受け入れたくない話であるが。
無論、風向きが変われば、アデーラのその武技が、今度はわたしをぼこぼこにするのに使われる可能性だってあるわけだ。たとえば、参事会の老人たちがわたしを見限って、切り捨てることを決定した場合など。そうなってしまえば、わたしはなすすべもないだろう。……どうせなすすべもないことだから、あれこれ考えても意味がない、ともいえるか。
さて、件の暗殺未遂事件である。いま思いだすだけでも、心胆を寒からしめるものがある。目前に迫ったあの白刃。あとたったの数歩で、わたしは殺されていたに違いないのだ……
今回はアデーラのおかげで辛うじて難を逃れたが、しかしそれも偶然の作用というか、確率の問題に過ぎないように思える。いまわたしが生きているのは、たまたま賽子の出目が良かっただけといえよう。……やはり、自由都市執政なんぞ、なるべきものではないのだ。
あの暗殺者が紛れ込んだ経路を調査するとともに、警備計画も見直さなければならない。衛兵個々人に信を置くのではなく、仮に一人二人の不届きものが混ざりこんだとしても、総体として暗殺の実行を阻めるような、そんな体制を構築する必要がある。