何の価値も無かった私の人生
棺の後ろに繋がる黒い列の先頭を、私は息子と並んで歩いていた。背後に並ぶ人々は皆しんみりとした表情で、涙を流している者もいる。
泣きもせず黙している私を咎める者はいない。参列者はきっと、私が愛する夫を喪って茫然自失なのだと思っているのだろう。
こんな時、黒いベールは便利ね。顔中に広がる笑みを、抑える必要が無いのだもの。
◇ ◇ ◇
私とエックハルト・リューデルは政略結婚だ。リューデル子爵家は歴史ある貴族だが、領地は狭く産物を使った事業もパッとしない、所謂名ばかり貴族。しかも相次ぐ災害のせいで借金が膨れ上がっている。そこで先代のリューデル子爵は私の父、ヴィルケ準男爵に縁談を持ち込んだ。
父は国中に支店を持つ大商会の長だ。災害時に多額の義捐金を何度も出した功績で爵位を与えられた。とはいえ準男爵でしかも叙爵したばかりの家など、お貴族様から見れば平民と変わらない。
そこで子爵家と縁付けば箔がつく、貴族相手の商売もし易くなるとリューデル子爵は父へ持ちかけたらしい。
「君がビアンカ?こんな可愛い子と結婚できるなんて、嬉しいな」
初めて対面したとき、エックハルトは優雅に微笑みながら私の手を取った。さらさらの銀の髪にエメラルドの瞳。王子様みたいに美しい殿方にそんなことを言われ……年若い私はすっかりのぼせ上がってしまった。
父はあまり乗り気ではなかったようだが、私が望んでいるのならと縁談を受け入れた。そして我が家がリューデル家の借金を肩代わりすることを条件に、私とエックハルトとの婚約が相成ったのである。
エックハルトはいつも優しくてスマートな態度を崩さなかった。デートの時は、いつだって私が喜びそうな場所へ連れて行ってくれるし、プレゼントはセンスの良いものばかり。「贈った髪飾り、着けてくれてるんだね。そうしてると姫君みたいだ」などと笑顔で言われ、胸をときめかせたものだ。
後から考えれば、それは彼が女性慣れしている故だったのだが。男性経験の無い私はただ素敵な人だと、私だけを愛してくれているのだと信じていた。
私の成人が近くなり、そろそろ結婚式の準備を……という時に、リューデル子爵夫妻が病により相次いで亡くなった。
「私、リューデル家の執務を手伝おうと思うの」
「まだ結婚もしていないんだ。お前がそこまですることはないだろう」
跡継ぎ教育を受けていたとはいえ、突然当主となったエックハルトは慣れない執務に四苦八苦していた。少しでも彼の役に立ちたい。私は父の反対を押し切ってリューデル家へ通った。
商会の仕事を手伝っていたため経理なら自信がある。しかしエックハルトは会計以外にもあれやこれやと私を頼り、二人で徹夜することもたびたびあった。
「君が婚約者で本当に良かった」
うたた寝から目を覚ました私の頭を撫でながら、そう囁くエックハルト。彼を愛している。この人のためなら頑張れる。彼を支えることが私の役割なのだと、その時の私は心からそう思っていた。
「エックハルト、そんなに塩をかけたらだめよ。体に悪いわ」
「味が濃い方が好きなんだよ」
「もうっ、子供みたいなこと言わないの」
ぶーっという顔をする夫の頬を、私はつついた。彼は脂っこいものや塩辛いものが大好きなのだ。料理長には野菜中心の薄味なものを作って貰っている。家で食べる時くらい、身体に良いものを食べて欲しいから。
結婚から既に5年が経過し、リューデル家の状況はようやく落ち着きつつあった。この春には念願の長男、テオフィルも産まれたところだ。
「あ、今日は仕立て屋が来るからよろしくね」
「また?こないだも礼服を作ったばかりじゃない。だいぶ上向きになったけど、まだまだうちの財政は厳しいのよ」
「来月、アンドロシュ侯爵家の夜会があるだろう?新しい服で行かないと失礼かと思ってさ。どうしてもだめ?」
エッカルトが上目遣いで私へ懇願する。いつもの彼の癖だ。そのきらきらと潤んだ瞳に見つめられると胸がキュンとしてしまって、怒りがどこかへ行ってしまう。
「仕方ないわね」と答えた私の頬へキスをして、夫は「いつもありがとう!愛してるよ、ビアンカ」と上機嫌で去っていった。
財政が苦しいからと、結婚式を簡素に済ませられたことも。
その割には夫が高い礼服や嗜好品を度々購入していることも。
夜会で「金を積んで子爵家へ取り入った、身の程知らずの女」と揶揄された私を、夫が庇ってくれなかったことも。
産まれたばかりの息子に「あんまり可愛くないね。猿みたい」と言ったことも……。こうやって甘えられて、全部許してしまった。
――あの人はいつまでたっても子供みたいなんだもの。私がしっかりと支えてあげなきゃ。
そんな風に考えて、心の隅に引っ掛かかったモノへ気付かないフリをししていた。
「あのね、ビアンカ。噂で聞いたのだけれど……」
あれはテオフィルが5歳になった頃だったろうか。実家を訪れた私に躊躇いながらも母が教えてくれた。エックハルトが未亡人の貴族女性と逢瀬を重ねているらしい、と。
情報元は、顔見知りのとある貴族夫人。彼女は馴染みの取引先で、私がリューデル子爵家へ嫁いでいると知っていたため忠告してくれたらしい。
「そんなの、ただの噂でしょう?」
「そうだといいのだけれど……」
口ごもる母に、私は察した。商会長の妻を長年務めてきた母は、根拠のない噂を信じる人ではない。恐らく裏を取った上で話している。
当初は否定していたエックハルトだったが、しつこく問い詰める私に渋々と浮気を認めた。
「夫を亡くして寂しいって、しつこく迫られて……」
「断ればいいじゃない!それに、何度も会っているんでしょう。そんな言い訳が通ると思うの?」
「彼女の夫には以前世話になったから、断れなくてさ。許して?もうしないから。ね?」
懇願する夫の子犬のような表情に勝てず、私は「仕方ないわね……今回だけよ。次は許さないから」と溜め息を吐きつつ答えた。
いつもこうなのだ。甘えられると、駄目だと思いつつもつい許してしまう。惚れた弱みというやつは本当にどうしようもない。
しかしその後も夫の浮気は止まらなかった。未だに若々しく美しい容貌を持ちスマートに振る舞う彼は、女性にとても人気がある。しかも財政難に喘いでいた以前と違い裕福になったからと、夫は惜しげもなく遊興に金を費やした。ここまで立て直したのは私や、私の父の助力のおかげであるはずなのに。
若い頃から女性にちやほやされてきた彼にとって、数多の女性に囲まれるのは当たり前のことなのだろう。
私が怒るたびにエックハルトは「浮気くらい、どこの貴族もやってるよ?それに俺が本当に愛してるのは、ビアンカだけだから」と甘える。そしてほとぼりが冷めたらまた浮気。その繰り返しだ。
夫は分かっていないだろう。甘えを許す度に私の愛がすり減って、諦めが積み上がっていったことを。
「奥様……旦那様のことで、申し上げたいことが」
そんな日々が10年近く経過した頃、執事が言い難そうに申し出た。
夫に新しい愛人が出来たらしい。それは別にいい。浮気に目くじらを立てる期間はとうに過ぎた。しかし問題は相手がまだ15歳の少女だということだ。しかも王都に小さな家を借り、彼女を囲っている。
貴族令嬢ならばデビュタント前。しかも息子と年の変わらぬ娘に手を出すなど……流石に見過ごせない。
「今さら愛人を持つことに反対はしないけれど、デビュタント前の娘さんに手を出すのは控えて」
「ヘンリエッテは貴族じゃないから大丈夫だよ~」
彼女は没落した貴族の令嬢で、今は平民の身らしい。問題はそこじゃないのに。
「そういう話じゃないのよ。こんなことが広まったら醜聞になるわ。それに父親が自分と同年代の女の子を愛人にしているなんて知ったら、テオフィルが傷つくでしょう」
「テオフィルは関係ないだろう?それに、年の差なんて関係ないよ。俺とヘンリエッテは真実の愛で結ばれてるんだから」
「なに、それ……。じゃあ、私は何なのよ。貴方の妻ではないの!?」
私へ囁く「愛してる」という言葉が口から出まかせであることは、もう理解している。辛いけれど受け止めていた。だけど少なくとも、私のことは正妻として立ててくれていると思っていた。
「もう、私の事は愛してないのね」
「え……?そんなことないよ。ビアンカは大事な家族だ。家族と恋人を比較しても、意味が無いだろ?」
「それはつまり、女としては見てないってことでしょう?」
「だってさ、最近のビアンカはあんまり身だしなみに気を使ってないだろ?髪はぼさぼさで肌も荒れてるし、服だっていっつも同じものだし。若い頃はもっと可愛かったのに……。君と違って、ヘンリエッテはとても愛らしいんだもの。でも、ビアンカの事は家族として愛してるから心配しないで」
夫のふわふわとした返答に、私は言葉を失った。
この人は何を言っているのだろう?子供を産み年齢を重ねれば、見目が衰えるのは当然だ。それに良好になったとはいえ、ろくに執務をしない彼の代わりに社交と執務をやっているのは私。外出時以外はどうしたって、見た目を取り繕うことは二の次になってしまう。
それもこれも、夫の為に、この家の為に耐えていたのに?
「……そんなことを思っていたのね」と呟いた声が聞こえたのか聞こえなかったのか。エックハルトは「話はそれだけ?じゃ、俺はもう行くね」と立ち去った。
かすかに残っていた愛情の欠片が、諦めと共に流れ去っていく。
それからの私はリューデル家を守ること、テオフィルを育てることだけに心血を注いだ。この子に夫のようになって欲しくはない。だから侍従と協力しながら優しく、時に厳しく彼を育てた。
エックハルトのことは、どうでもよくなっていた。諦めを積み上げれば、その先にあるのは無関心しかない。
きっと私の役割はテオフィルを真っ当に育て上げ、リューデル家を継がせることなのだ。そう自分に言い聞かせれば、随分と心が楽になった。
◇ ◇ ◇
エックハルトへ食事を運んだ使用人から夫が息をしていないと聞かされた時、「ああ、やっとか」と思った。夫はここ数年、寝たきりの生活だったから。
出先で突然倒れ、意識は取り戻したものの手足は動かず、言葉もあーうーとしか喋れない状態が数年続いていたのだ。動かない身体は肥え太り、肌は異様なくらい黄色。かつての美貌は見る影もなかった。
日頃の不摂生が祟ったのだろうと医師は言ったが、それだけではない。
私は料理長に指示を出していた。夫の食事のみ、塩をたっぷり入れること。油を使った料理なら油も。
「夫が好きな味付けにすれば、本邸で食事をする回数が増えるかもしれないでしょう……」と目を伏せながら頼む私に、料理長は痛ましい表情になり引き受けてくれた。
倒れる前のエックハルトは相変わらず若い愛人へ入れ込んでいた。何度も夫を諫めてくれた執事を勝手に解雇。愛人に貢ぎ、手持ちが足りなくなると金庫からお金を持ち出す。
しかし決定打となったのは、息子の婚約者へ手を出そうとしたことだ。本人はちょっと身体へ触れただけと言っていたが、怯えてしまった令嬢側から婚約解消の申し出があった。
テオフィルは「彼女には申し訳ないけれど、元々あまり合わないと思っていたんだ。だから気にしないで、母上」と言ってくれたけれど……。息子にまで気を遣わせてしまった自分と夫が許せなかった。夫はもう、この家にとって害にしかならない。
料理長が私の言葉を本心だと思ったのか、あるいは裏の意図を読み取った上で従ってくれたのかは分からない。どちらにしろ、夫の死期を早めたことには違いないだろう。
念願かなって寝たきりとなった夫を訪れるのは医師と、世話をする使用人だけ。父親の所行を知っている息子は彼を嫌っているので、顔も見たくないと見舞いを拒否した。私も当主代理で寝る間もないほど忙しかったから、ほとんど会いに行ったことはない。
ちなみにあの女は夫が倒れたと聞いて、早々に逃げたようだ。真実の愛が聞いて呆れるわね。
今はテオフィルが当主を継ぎ、私はその補佐を行っている。経験不足で戸惑う時もあるものの、おおむね問題無いようだ。跡継ぎ教育をみっちり行った成果ね。後は息子が妻を迎えれば……私の役目は終わり。
「母上。結婚したい相手がいるんだ」
テオフィルの結婚相手を探してはいたものの、なかなか見つからなかった。エックハルトのやらかしが広まってしまっていたのだ。息子は学院での成績も上々だったし女遊びもしていないというのに。
こんな家へ嫁いでくれるというだけでもありがたい。息子がいいという相手なら尚更だ。私は場を設け、テオフィルの恋人と会うことにした。
「紹介するよ。彼女が俺の恋人、ヘンリエッテだ」
「初めまして、奥様。ヘンリエッテ・ドナートと申します」
彼女をひと目見たとき、私は息が止まるかと思った。
――目の前の相手が夫の愛人だった、あの娘だったから。
同姓同名の別人ということは断じてない。私は一度だけ彼女を見たことがある。
エックハルトが未成年を囲ったと聞いた際、こっそりと探りに行った。道から丸見えだというのに夫は庭園で彼女とじゃれあっていた。
ブルネットの艶やかな髪に少し垂れ目の大きな瞳、華奢な身体。10代という若さも相まって、当時の彼女は危うい美しさだった。囲いたくなるのも分かる。だけど中年男がそんな彼女を膝に乗せ、眉尻を垂れて撫でている様は……吐き気がするほど醜悪だった。
20歳を過ぎたはずなのに、ヘンリエッテの少女のように華奢で庇護欲をそそる佇まいは健在だった。さぞ殿方に人気があるだろうに、なぜよりにもよって元愛人の息子と結婚しようなどと思えるのか。まともな神経の持ち主ではない。
「テオフィル、私は反対よ」
「どうして?確かに年上だけれど、三歳差くらいなら珍しくないだろ。それとも、ヘンリエッテが平民だから反対してるの?彼女、元は男爵令嬢だよ」
「理由は言えないけど、とにかくあの女性だけは止めて。彼女以外なら、平民だろうが出戻りだろうが反対しないから」
「意味が分からない。ちゃんと理由を言ってくれなきゃ納得できないよ」
恋人が父親と愛人関係にあったなんて知ったら、息子は傷つくだろう。そう思って黙っていたものの、このままでは埒が明かない。仕方なく事情を話した私に返ってきた言葉は――「見損なったよ、母上」だった。
「新妻に対して姑が嫉妬するという話はよく聞くけれど……。いくら嫉妬したからって、そんな根も葉もない悪口を言うなんて!」
何度話をしても息子は頑なに私の嘘だと決めつけ、信じようとしなかった。
夫はヘンリエッテを本邸に連れてきたことは無かったため、使用人たちも彼女を知らない。せめて前の執事が残っていれば息子を窘めてくれたかもしれないが、とっくに別の職場へ再就職している。
「本当なのよ、テオフィル。信じて頂戴」
「これ以上彼女の悪口を言うなら、母上でも許さない。貴方がなんと言おうと俺は彼女と結婚する。俺たちは、真実の愛で結ばれているのだから!」
「……は?」
――”真実の愛”ですって?
よりにもよって、貴方がそれを言うの?
「……あはっ」という乾いた笑いが口から零れた。
「ははは!あーはははははは……」
「は、母上……?」
度重なる夫の浮気にも耐え、必死でこの家を守り、息子を育て、夫が早死にするように仕向け……。全て息子のためと思って、我が身と精神を削ってやってきたのに。
結局はあの女の思う壺になってしまった。いずれ女主人となったあの女に、この家はいいようにされてしまうだろう。そして私がどんなにそれを止めようとも、息子は姑の醜い嫉妬と決めつけて妻の味方をするのだろう。
私のやってきたことは全部無駄だった。私の半生は無価値だと、突き付けられたようなものだ。
狼狽える息子を余所に、私は狂ったように笑い続けた。
「何も出て行かなくても……」
私はリューデル家から出て行くことに決めた。既に離籍届けは提出済みだ。
「貴方は私が何を言おうと、彼女と結婚する意志は変えないのでしょう?だったら私も、家を出る決意は変えないわ」
「どうして分かってくれないんだ。俺はヘンリエッテと母上、三人で幸せに暮らしたかっただけなのに」
私から夫と息子を奪った女と一緒に暮らすなんて、死んでも御免だ。「後から戻りたいと言っても知らないからな!」という息子の声を背に、私は婚家を後にした。
実家の両親や兄夫妻は温かく私を迎えてくれた。とはいえ、いつまでも居候でいるわけにはいかない。私は父の商会で働かせてくれと頼み、女性向けの小物や服飾品を扱う部門を任せて貰う事になった。
子爵夫人だった頃の人脈を使ったこともあり、私の店は順調に伸びていった。人手が足りないほどだ。そこで従業員の募集を掛けたところ、思った以上に女性の希望者が集まった。『女性は大歓迎』と打ち出していたからだろう。大抵の求人は男性限定だものね。求職希望者の中には親や夫から虐げられ、逃げ出してきた人もいた。
放っておくわけにもいかず、私は彼女たちを雇って仕事を教えることにした。接客だけでなくそれぞれの特性に合わせてお針子や商品管理、帳簿付け等々。行く当てのない彼女たちは真剣に仕事を覚え、今では優秀な部下となっている。おかげで売り上げはさらに伸びて、支店を増やすまでに成長した。
そんなこんなで数年経った頃、突然テオフィルが訪ねてきた。
「母上の言う通りだった……」
私が出て行った後、テオフィルはヘンリエッテを妻に迎えた。しかし彼女はいつまで経っても女主人という自覚が無く、のんびりとお茶を飲んで過ごしているだけだったそうだ。
テオフィルが「当主夫人なのだから、家政が君の仕事だろう」と叱ったところ、「だって、よく分からないから…」としくしくと泣き出す。ならばゆっくりでいいから覚えてくれと言っても何もしない。そのくせに金遣いは荒く、やれ茶会だ夜会だと言っては高価なドレスを買いまくる。
夜会に出れば、余所の男性と親しげに語らう。手を触れ合うことさえあった。問い詰めても「話しかけられたから、お応えしただけよ。何が悪いの?」とニコニコしながら答えるだけ。そこでようやく、息子は私の言葉を思い出した。まさかと思いながらも辞めた執事を探し出し、私の言っていたことが真実だと知ったのだ。
「だましたな!」と責め立てるテオフィルに対して、妻は「え?だって、聞かれなかったもの……」と首を傾げて答えたそうだ。離縁を言い渡したものの、ヘンリエッテが認めないため泥沼状態。
エックハルトとの関係は結婚前であるため、不貞の罪に問うことはできなかった。結局、婚姻後の無駄遣いと当主夫人としての能力不足を盾に、何とか離縁へ漕ぎつけたと息子は語った。
「あいつの無駄遣いのせいで財政は苦しいし、社交界でも悪評が広まってる。我が家は破綻寸前だ。母上、戻ってきて下さい」
「だめよ。私には商会の仕事があるもの。新しい妻を迎えればいいでしょう?ちゃんとした家のお嬢さんを迎えて、夫婦で乗り切りなさいな」
「今回の離婚騒動が広まっちゃってさ。縁談を申し込んでも断られてばかりなんだ」
「それなら、まずは財政を立て直すのが先じゃない?」
「だから、それを手伝って欲しいんだ。商会の仕事は誰かに任せればいいじゃないか。数年経てば悪評も収まるだろうし、その頃には再婚相手も見つかると思う。商会に戻りたいなら、俺が再婚した後に帰ればいいだろ?」
そんな身勝手な言葉を吐きながら、上目遣いに私を見つめる息子の姿……。背筋に寒気が走った。その仕草が、エックハルトにそっくりだったから。
この子は本当に、あの人に良く似ている。現実を見ようとせず、困ったら私が何とかしてくれると思っている。
「貴方はもう、一人前の大人でしょう。私に頼るべきではないわ」
息子は何かをわめいていたけれど、警備員に命じて追い出した。私の実家にも来たらしいが父は相手にしなかったようだ。根っからの商人である父が、デメリットしかない支援を引き受けるわけがない。
その後、テオフィルは離婚経験のある年上女性と再婚し、何とか子爵家を存続していると聞いた。妻はかなりしっかり者の女性らしい。二人の仲が良いのかどうかは知らない。それを知ったところで、私に出来ることは無いのだから。
それに今の私は、商会の仕事で手一杯だもの。
最近は新聞社からの取材や講演の依頼も来るようになった。
実家や婚家から逃げてきた女性従業員の中には、トラブルを抱えている者も多い。元夫から付き纏われていたり、家族が金をせびりにきたり。相談を受けて弁護士を紹介し、場合によっては遠い地にある支店へ異動させて逃がす。そんなことをしているうちに「虐げられる女性を支援する活動家」というイメージが付いてしまったらしい。
そんなつもりでやってきたわけじゃないから、取材や講演はお断りしている。私はただ、やりたい仕事をやりたいようにしていただけだ。
歳を経た今なら分かる。
そもそも人間の一生に、特別な価値なんて無いのだ。産まれて生きて死んでいく、ただそれだけ。
誰だって自分が無価値な人間だとは思いたくない。だから皆、人生に何らかの意味を見いだそうと躍起になるのだ。かつて、私がそうだったように。
だけどそんなもの、運命のひと匙で如何様にも変えられてしまう。与えられた生を全うする……本来、それだけで十分尊いはずなのだ。
だから私は、やりたいことをやって好きなように生きる。
家へ縛られるのも、誰かに尽くすのも真っ平だ。そんなこと、何の意味も価値も無いのだから。
そして天へ召されるそのときに、胸を張ってこう言うのだ。「価値はなくても、楽しい人生だったわ!」
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息子テオフィル視点のエピソード「夢想に浸る」(https://ncode.syosetu.com/n3197kd/)を投稿しました。こちらも読んで頂けると嬉しいです。