やられたら 三倍返しで やりかえす ~それが私の やりかたです~
異世界転生。
自分が誰かと自分に問うて、二つの名前と人生が思い浮かんだ。
そしてすぐにこれが転生なのだと理解した。
二つの名前のうちの一つ…『キルシュ・トルテ』の名が、生前にやりこんでいたゲームの悪役令嬢の名前と合致したからだ。
ゲームのキルシュは、まず断罪が前提の運命になっており、主人公のルディナ・シュニッテが選んだキャラルートによって方法が異なる。場合によっては数行のテキストで終わってしまうものもある。
婚約者にして王太子のアフェル・クーヘンへの想いとしては、転生と気付いた途端に執着心は消えた。好きでもない男に自分の人生は捧げられない。
ゲームでは学園生活の一年を通して元平民から貴族となったルディナと王太子のアフェル…と他攻略対象者との愛情パラメータを上げていくものだが、観察したところルディナのターゲットはアフェルだろう。あまりにゲーム通りに進んでいくので気付いた。ルディナも転生していると。
だがアフェルもキルシュを良いようには思っていないし、別にくっつきたければくっついてこちらとの婚約は穏やかに破棄してくれればいいと思っていた。
だからゲーム通りの嫌がらせなどせずに楽しんでいたのだが、ルディナが捏造をし始めたのだ。
そう。ゲーム通りの嫌がらせを。
そうでなければアフェルの好感度を得られないから。
ルディナにとってキルシュすらゲームの思い通りでないと気が済まないのだ。
自分の力と魅力で手に入れればいいものを。
キルシュは――そして前世の自分はやられっぱなしではない。
そう来るならばこちらも迎え打ってやろう。
やられたら 三倍返しで やりかえす ~それが私の やりかたです~
「キルシュ・トルテ! ルディナに対しよくも嫌がらせをしてきたな! そんなものは我が伴侶にして国母にはふさわしくない」
学園最大のパーティの最中、アフェルの声が会場に響き渡った。その横には勝ち誇った表情のルディナが揃いの意匠が入ったドレスを着て立っている。
彼は、キルシュがルディナにどんな嫌がらせをしていたかを感情豊かに語っていく。ルディナがそれに伴い涙を浮かべていくのは見ていてなかなかの演技力だ。
「以上を持ち、婚約は破棄させてもらう!」
「――なさけない!!」
キルシュから出てきたのは何よりもその言葉だ。
えっと言う声と視線がキルシュに注ぐが、当人は気にした様子も見せずに腕を組んだ。
「証拠があやふやすぎます。貴方がた、わたくしを誰と思ってらっしゃるの? トルテ公爵家の娘よ? たかが子供が集めてきた偏った情報をこんな重大な場で仰るなんて幼児の遊戯発表の方が余程見ごたえがありますわ!」
「…な…な…っ?」
こんな反撃は予想外だったのだろう、アフェルがおろおろとするばかり。キルシュは判断の遅さにイライラしながら近付いていった。
「なんですの、その反応。わたくしが反論もせずにハンカチを噛みしめて貴方がたの前から立ち去るとでも? 崩れ落ちて床に涙を落とすとでも? …長年アフェル様はわたくしの何を見ていたのかしら」
【悪役令嬢】のキルシュであればルディナに嫌がらせをしており、その話は真実だっただろう。だが転生をしていると知ったキルシュはそんなものをしていない。『本来の彼女』の性格よりも『転生した自分』の性格が色濃く出ているからだ。
何よりもゲームの記憶を持っているのが大きい。
キルシュが嫌がらせをしなければアフェルとルディナの距離も縮まりづらい。シナリオ通りに進める為にはどうしても嫌がらせが必要なのだ。
「っ、言葉を慎め! 誰に向かって暴言を!」
「それはそっくりそのままお前に返してやろう」
「っ?!」
突然聞こえてきた第三者の声に再び会場はざわめき、そしてさざめくようにその声の持ち主の名が囁かれる。
「――ランジェ様」
「兄上…っ?!」
海が割れるように人々はランジェに…第一王子に道を譲る。
ランジェも最近のアフェルの様変わりを危惧しており、また素気無い態度をとられているキルシュの心配してくれていた。
「お前が…いやルディナ嬢が行わせていた、キルシュ嬢を陥れようとした数々の証拠をこちらが持っていないとでも?」
「…あら」
その手には大きな封筒。中にはなかなかの量の紙束が入っている。
「ランジェ様…どうしてそれを?」
キルシュの横に並んだランジェにこっそりと聞くと、悪戯が成功した子供の様に笑った。
「きみの事だから証拠集めには万全を期しているとは思ったがお節介と言うか…俺が出れば状況も変わるだろう?」
キルシュ一人でもこの事態を収める用意はしてあったが、確かに王子が出てくれば生徒たちの反応も変わりやすくなる。
これは何とも頼もしい援軍だ。
「…さて、続きと参りましょう」
馬鹿にした目で見れば、アフェルの表情から余裕が消えて怒りが色濃く出てくる。
別に怖くはない。だが権威を盾にするのならばこちらも同様の手段を用いるまでだ。
「こんな場面で婚約破棄を突き付けられ、冤罪を押し付けられるなんてやられっぱなしではプライドばかりでなく家名にも傷がつきます。どうしてもそちらが真実だと仰るのならば訴えさせていただきましょう」
「は…王太子であるこの俺をか?!」
何馬鹿言ってんだこの王子はと睨みつけ、そのまま視線を横にスライドさせる。
「もちろん、ルディナ・シュニッテをですわ」
「―――?!」
え、とばかりにルディナが目を見開く。
「何を驚いた顔をしてるのです? 当然でしょう。やってないと仰るのならば堂々としていらしたら?」
「……それ、は…」
「ランジェ様も仰るように…こちらには貴女がやってないと仰ってる筈の捏造の証拠は多々ございますので、法廷でお会いしましょうか」
「それは「もちろん、」」
口をはさんできたアフェルの言葉を、強いキルシュの声が遮る。
「…これは貴族同士のお話し。まさか他家が…更に様々な影響を及ぼす王族が私的な理由で絡んできたりはしないと思いますが」
「ッ」
「もちろんこちらもランジェ様ではなくわたくしが集めた証拠を提出いたします」
先んじて封じればアフェルが悔しそうに言ってくる。
「結果がどうなるのかが楽しみですわ。…仮にこちらが勝訴すればどうなるか……貴女の頭でわからないのならぜひ御父上に聞いてみてくださいな」
公爵家の令嬢を捏造した罪で陥れようとしたのだ。しかも人目があるから誤魔化すこともできない。
完全に状況が二人にとって不利になっている。
「時にアフェル」
そこに追撃を加えたのはランジェだ。
「最近は帝王学を随分サボっていると耳にしたが事実か?」
「あら」
それは初耳だが意外ではない。ああも人目も憚らずイチャついてればそりゃ勉学に勤しむ暇などないだろう。
「う…」
ただの学生であれば怠惰なと呆れただけですんだが彼は王族だ。未来の為に学ぶ義務がある。じろりと睨むとたじろんだ。少なくとも罪悪感がある様子。
「その様子だと事実の様ですね。王族の責務を怠るとは情けない」
「……ッ」
「ルディナ様もです。正直、貴族の教養も身に付いて居られない方がこれから王妃教育をされると? わたくしが幼い頃から学んでいた事が一朝一夕で身につくようなものだと思われているのでしたら歴代の王妃を侮辱しているも同然です」
追撃が自らの身にもおよび、慌ててルディナは胸元で両手を重ねてしなをつくり弁明しだす。
「私は…そんな…それにそんな高い地位からじゃなくてもっと親身に…」
「その立場にはすでに他のものが就いております。王妃となるには身分にふさわしい覚悟と重責と取捨が必要になります。先程も申し上げましたが、貴女の発言は歴代王妃を軽んじてるのと同義です」
「……」
ルディナの顔色がどんどん悪くなる。
「王太子のアフェル様は更に理解されているはず。わたくしとの結婚がどのような意図があってかは貴方様も学ばれたのでは?」
愛など二の次。王族と高位貴族の婚儀は今現在だけでなく未来の国の繁栄にも関わってくる。だが愛ではなく感情は二の次には置けない。愛ある夫婦になれずとも国を大事に想う相棒にはなれる。幼い頃から婚約を結ぶのは心の繋がりを強くする為でもある。
(――わたくしが…『キルシュ』が貴方を愛しすぎていなければ、未来は変わっていたのかしら)
すぅ、と息を吸い込んで腹に力を込めて声を発する。
「わたくしを捨てるならそれも結構! ですがそれに足るものを貴方がたは用意しなければならない! 捏造した罪で突き落とそうとは言語道断!」
そしてそのあたりの隠蔽も杜撰なものだ。
「悔しければぐうの音も出ないほどに完璧な王太子と王太子妃におなりなさい!」
言い終えても二人は何も言い返してこない。ふ、と息を吐き出し、二人を眺める。
「最後に。ルディナ様」
「ッ」
名を呼ばれ、ルディナがびくりと震える。ようやく『今の』自分の立場がわかっただろう。
「『ここ』はすべて現実で、貴女は貴女自身の主人公であってもこの世界の主人公ではありません。自覚なさい。ここはそれまでの貴女と同じく現実なのです」
「……?」
動揺しているアフェルよりもランジェの方が今の言葉の深意を気にしているようだ。だがあえてキルシュはそれには触れない。この言葉は、転生者のルディナにだけ通じればよい。
(これでも変わらなければ本当にもうどうしようもないだけ…)
転生者同士、もっと仲良くなれたならよかったのに。同じゲームをプレイするのだから、同担拒否でなければもっといろいろと語り合えたのに。
「…婚約の破棄に関してはこちらこそ喜んでいたしましょう。大人も交えてじっくりとお話ししましょうではありませんか」
にっこりと笑って言う。そのまま踵を返して去ろうとすると、目の前に手が差し出された。
「あら」
ランジェだ。エスコート役を買って出てくれた。
今更一人で去ろうがエスコートがつこうが変わりはないが、ここでこの手を振り払ってはランジェに失礼だ。
(…そういえばこうやってエスコートしてもらうのも久しぶりね)
アフェルはルディナにつきっきりだったから。
「アフェル」
ランジェが二人を…いや弟をじっと睨んでいる。アフェルは先程のキルシュの言葉が聞いたのか青ざめている。恐る恐るとランジェを見た。
「手を回そうとしても、すでに父上には…国王の耳にはこの顛末が届いている」
とどめの一撃にアフェルは膝をついた。隣のルディナも次いで崩れ落ちた。
いい気味だ。
思いながら、ランジェと共に優雅にその場を立ち去る。楽器の優美な演奏は聞こえず、ただざわめきが会場を満たしていた。
□■□
結果として、キルシュとの婚約は破棄となったが、アフェルは王太子の座に治まったままルディナが新たな婚約者の地位に据えられた。
これは王族側の瑕疵による婚約破棄で話しをつける際にキルシュが突き付けた条件だ。廃嫡、貴族位剥奪。目に見えたペナルティではない条件を二人がどう思っているかは知らないが、このまま責任から逃れられると思わないでほしい。
「……」
キルシュに向けてちらちらと視線が突き刺さる。あからさまではないのはここが王城であり興味もあるが家柄による恐ろしさもあるからだろう。
あんな出来事があってもキルシュが城に足を運んでいるのは彼女の仕事を全うする為だ。
王妃教育の一環で実務の一部を手伝っている。もちろんまだ学生でもあるキルシュでは任せてもらえるのは末端ではあるが、それもゆくゆくは民に渡るものになる。例えその役目自体がなくなったとしても投げ出していいものではない。
王妃でなくてもこの経験はキルシュの将来に良いものとなってくれるだろう。
「…ああ、いい風」
庭を歩くと風と共に花の良い香りが運ばれてくる。
国城自慢のガーデン。キルシュが王族に突き付けたもう一つの条件が、この庭を自由に歩ける権利だ。
「キルシュ様~!」
遠くから聞こえてきた声にキルシュは足を止める。芝生を踏みしめ走ってくるのはランジェとアフェルの弟…末弟のエアトだ。
キルシュを見つけて嬉しいとばかりに手を振っている。今年十歳になったばかりのエアトは可愛らしく純粋な笑顔を見せてくれ、キルシュも自然に頬をゆるめた。
「エアト様。あまり急くと転びますよ」
「うっわわっ」
「わっ」
あと少しのところでエアトが躓いた。慌ててその身体を抱きとめると、ぱちりと目が合った。
「えへへ…ありがとうございます」
「もう…やんちゃがすぎますわ」
立ち上がって手を差し伸べようとすると、先にエアトが立ち上がった。そしてすぐにキルシュに手を伸ばした。
「どうぞ、お手を」
「まぁ」
ぎこちないエスコートが可愛らしくて、キルシュは素直にその手を取って立ち上がった。
「ずるいなエアト。先に駆け寄ってキルシュ嬢のお手を取るとは」
「兄さま!」
後ろから聞こえてきた声にエアトがまた笑顔になる。
「ランジェ様」
キルシュは背筋を伸ばすと美しいカーテシーを披露する。
「そう堅苦しくせず」
ランジェに声をかけられ、キルシュも礼をといた。
「何故ランジェ様がここに?」
「そりゃ、きみの姿が見えたからさ。エアトもそうだろう?」
「はい! ここの庭は僕の部屋からよく見えるので!」
にこりとエアトも頷く。
「……ああ…ランジェ様のお住まいからもこの庭が見えるのですね…」
人がいる場で気を抜いた表情をしていないとは思うが、全ての記憶を思い出せない以上は何となく面映ゆい。
「…エアト様もわたくしの姿を見つけて来てくれたのですか?」
「はい!」
元気よく頷いてくれる。
「ふふ…私がぼうっと眺めていても笑わないでくださいね」
「笑ったりしませんよ。キルシュ様はいつだって美しいです」
にこりと口にするその言葉は決して打算は詰まっていない。純粋な誉め言葉にキルシュはまた嬉しくなる。
「同じ質問を俺にはしてくれないのかい?」
「……ランジェ様に伺っても素直にその言葉を受け止められませんわ」
「ひどいな」
ふいと顔を逸らして口にすると、とてもそうは思っていないひそめた笑い声が聞こえた。
「俺は貴女を讃える言葉に嘘や虚栄をまじえないさ。誇張しようとしたってきみは素晴らしいのだから事実になってしまうしね」
「…も、もういいですわ…」
ランジェの言葉に頬が熱くなる。エアトのわかります! とでも言うような視線がまた恥ずかしい。
「わたくしはそろそろ参りますね」
ここを立ち去る言い訳でもあったが、そもそも王城に赴いたのは仕事の為。ここにいては不利になるとそそくさと立ち去ろうとすると、あっとエアトがこちらを向いた。
「ま、まってください。あのっ! キルシュ様、これからお仕事ですよね? 終わった後、お時間ありますか? よかったら僕とお茶を飲んでください!」
全部ひとまとめで聞いてくる。
「エアト。そんなに質問責めにしてもキルシュ嬢が困っているだろう? もっと紳士は余裕を持たなくては」
ランジェに言われ、あっと一瞬動揺し、もう一度キルシュを見つめる。
「キルシュ様、お時間がありましたら一緒にお茶をいかがでしょう。とてもおいしいお菓子もご用意いたしました」
言い終わった後、ちらっとランジェを見る。
キルシュも堪えているのに、ふ、とランジェの笑い声が聞こえてキルシュもついに我慢できなくなった。
「えっ…え~~~? なんで二人とも笑っているんですかー?!」
今度はエアトが顔を真っ赤にして頬を膨らませる。
「兄さままで! せっかく兄さまが教えてくれたのに笑うなんてひどいです!!」
ランジェをぽかぽかと殴るエアトを、ランジェは高く抱きかかえた。
「ふふふ……そのお誘い、慎んでお受けいたしますわ」
可愛らしい弟をやや乱暴に抱き上げてかまっているのを見て、ようやくキルシュはそれだけ口にした。
久々にお腹が痛くなるほど笑った気がした。
□■□
幼い頃からアフェルと婚約関係を結んでいたので、ランジェともお互いを知る仲ではあった。ランジェとの仲は末男のエアトが生まれるまではとても淡白なものだった。
エアトがキルシュに懐き、たびたびお茶会を開き、たまたまランジェが同席する事があった。
初めてまともに会話をしたのは、おねむになったエアトが退席し、意図せずキルシュとランジェ二人きりになった時だ。
その時にはすでにキルシュは前世の記憶に目覚めており、エアトには良き兄であるが、それがないと何と言うか…すかしたヤツという印象だった。
「キルシュ嬢はどうして長男の俺が王太子に選ばれなかったと思う?」
「は?」
ふいに始まった重い話題にキルシュはうっかり素の声を出してしまった。
「…いえ、失礼」
誤魔化すようにナプキンで口元を隠す。
長男であるランジェが何故王太子でないのか。その憶測は様々であるが真実をキルシュは知らない。何故なら興味がないからだ。すべてが確定しているのに、どうしてそうなったかと妄想を繰り広げて嗤いのネタにする暇などない。
「さぁ…」
素直に口にすれば、またランジェは、ふ。と笑った。
「それは正妃も側妃も、王を愛してないからだ」
思わぬ答えだと思ったが、キルシュは何も口にせずただランジェの言葉を聞いている。
「妃たちは仲は良くはないが悪くもない。お互いの立場をわかっている。騒乱もなく、この国が平凡で、それぞれの国や家に思惑があっても妃たちは私欲が大きく傾かないようにとても上手にコントロールしている。側妃が…母上が無理に俺を王太子に推さないのもその為だ」
王妃教育をしているので、キルシュもどちらの妃に会って指導を受ける。二人が顔を合わせる事は稀だが、そんな場面であっても本人たちにも周囲にも張り詰めるような緊張感はない。
本人より臣下の様子が、彼女たちの関係を現わしている。
確かに悪くはない。
「これがどちらかが王を愛していたら一気にバランスは崩れただろう。己の立場も忘れて王を求めて…」
ランジェの手はすでにティーカップから離れており、強く握りしめられている。
「それで…結論としてランジェ様の仰りたい事とはなんでしょうか」
どうして突然この話題になったのかがわからない。
ランジェは一拍置いた後、キルシュを見た。見通すような試すようなそんな視線。
「キルシュ嬢はアフェルに随分と傾倒しているようだと思いまして」
(ああ…なるほど)
自分が争いの種をばらまくのではと危惧しているのだ。
確かに今までのキルシュの振る舞いを見ればランジェも心配するだろう。
兄弟仲…特に実母が産んだ弟のエアトとはこうしてお茶をするほどには良好だ。
「…ふふ…」
思わず笑みが漏れてしまい、しまったと彼を見ると無表情に見える顔に多少不機嫌が滲んでいる。
「俺は何か面白い事でも言ってしまったかな」
彼にとってはとてもとても真剣なやりとりだろう。それを理由もわからない間で笑われては機嫌を悪くするのも当然だ。
ここは本当の事を言った方がいいだろう。
「失礼しました。ただ…ランジェ様は弟想いだなと思いましたらつい…」
「は?」
今度はランジェから素の声が出た。まさかそう返ってくるとは思ってなかったのだろう。
彼は突然この話題を出したのではない。
エアトが退室した今こその話題だったのだ。
「この話題は…(以前であれば)わたくしの機嫌を高確率で損ねたでしょう。けれどエアト様はわたくしを慕ってくださっております。…そんなエアト様がショックを受けないようにご配慮くださったのでしょう?」
お茶会の時、家臣は音量を絞れば声は届かぬ距離にいる。聞こえる危険性があるとすればエアトだけ。
「この話題はとても繊細なものです。それでもランジェ様は聞かねばならぬと思っていた。そんな中でもエアト様の心配をされているのだなと思ったら…つい…」
謝罪を口にし、頭を下げる。
「いや…別に……」
途端にランジェの歯切れが悪くなる。無意識の行動だったのか、それとも見抜かれた気恥ずかしさか。
これ以上突くのはやめておこう。そもそもは真面目な話しだ。
「そうですね。行き過ぎたものは薬とて毒になります。けれど適切であれば薬も…愛も、無いもの以上の効果を発揮するでしょう」
アフェルにとってはルディナがそう。キルシュが望むのは円満な婚約解消。アフェルは無能ではないし、ゲーム通りならばルディナもしっかりと支えるだろう。
けれどゲームの進行を知っているのであれ、キルシュが変わったのであれ、慢心もまた毒となる。
「ランジェ様のご忠告、しかと心に刻みました」
ランジェは目を丸くしてキルシュを見ている。その表情がエアトに重なってもう一度笑みが零れそうになるのをぐっと堪え、表情を隠すように頭を下げた。
「『どうあれ』、わたくしはわたくしの最善を尽くしてまいりますわ」
自分の未来を守る為に。
□■□
大きな失態を抱えたまま王太子であり続けると言うのは、そしてその伴侶で居続けると言うのは、時が経つほどにキルシュの下した条件がどうものなのかを思い知っただろう。
甘えは許されない。
より大きなものを成さなければならない。
勉学も実務も視線も、その重責は今までの比ではないだろう。
崩れるとしたら今まで甘やかされていたルディナだ。幼かったとはいえキルシュですら苦しんだ王妃教育をこの短期間で叩き込まれるのだからなかなかの地獄を味わうだろう。
そんなキルシュが二人に呼び出されたのは三ケ月経った頃。
内容の想像はいくつか立てたが、呼び出されるまで意外に長かったな。というのがまずの感想だった。
王城の応接間に通されると、アフェルとルディナがすでに椅子に腰かけていた。キルシュはその正面に座る。ちらりと二人の顔を見ると随分憔悴しているのがわかった。特にルディナは色濃く、化粧でも隠しきれていない。
驚いたのは国王も同席している事だ。
(思ったよりも重大な事なのかしら…)
王と面する事はキルシュでもほとんどない。まさかの人物にさすがに緊張する。こうなるとどういう話題になるか想像が広がりすぎてわからない。
馨しい紅茶の香りすら場違いに思えるほどだ。
「では…いいんだな、アフェル」
「はい」
王の一言でアフェルが…そして隣のルディナが立ち上がった。
「キルシュ嬢…今まで本当にすまなかった。俺は……王位継承権を、放棄する事にした」
「……まぁ」
思わぬ決断にキルシュもうっかり間の抜けた声を出してしまった。
「この三ケ月。下した決断だと」
「ああ」
躊躇わずアフェルが頷いた。
「…この件、ランジェ様とエアト様は…」
「二人にも話してある。エアトに仔細はもう少し大きくなってからと兄上にお願いした。…エアトは行かないでと泣いて止めてくれたよ」
エアトの様子を思い出したのか、痛ましそうに、それでいて少し嬉しそうにアフェルが笑う。
「……王族でなくなるという事で?」
「ああ。母方の領地に移り、一国民として暮らす」
「……貴族の地位も捨てると」
キルシュは視線をルディナに移した。
「貴方がたは今まで人に頼って生きてきました。民となれば何もかもを自らで行わなくてはなりません」
「そうだな。そのあたりは父上にも臣下にも言われたとも。最初は手を借りて…徐々に慣れて行こうと思う」
どうやら彼らは人の話しを聞くという事ができるようになったようだ。
「俺は王には向かない。彼女もだ。…能力もそうだが……王妃の地位に治まればきっとルディナは俺の好きなルディナではなくなる」
「…アフェル…」
そっと寄り添うルディナの肩を優しくアフェルが撫でた。大丈夫だと伝えるように。
「キルシュ…嬢に言われた通り、王になるにも妃になるにも相応の能力と犠牲が必要だ。この三ケ月でようやく俺も無能さを思い知ったよ。……俺は…俺は何かを捨てなけばならない。全てを手に入れられない。それだけの力しか持っていないとわかった」
国王は沈痛な表情を浮かべている。彼にとっては三人とも愛する息子なのだ。どんな愚弄を犯そうとも。
「………」
アフェルは彼が言うほど無能ではない。愛さないキルシュを妃にし座につけば良き王にもなっただろう。
「…選んだのですね」
「ああ」
力強く頷く。視線があえば彼は諦めた弱さではなく、これからに対して瞳に光を宿している。
「俺は王の地位よりもルディナを選ぶ。彼女らしくいれるように。俺が愛を渡し続けれるように。…それがきっと民の為にもなると思っている」
「………」
二人で、そして国王たちも交えて決定したのだろう。
「ルディナ様もそれでよろしいのですか? …もう……贅沢な暮らしもできませんわ」
「…私は元々…『その前から』平民でしたし、多分アフェル様より慣れています。だから今度は私も彼の助けになれます」
「決意はかわらないのですね」
ルディナは、ぐ。と強く瞳を閉じ、開いた。
「……最初…アフェル様は…かっこよくて…優しくて……運命と言うよりも、そう、褒められた理由ではない思惟で近付きました。その為になら何を利用しても許されると…けれどこうなっても彼は私を気遣い、想ってくれました。…私は…私はもう、王妃の地位も大きな宝石も豪華なドレスもいりません。例え喧嘩しても最後にはわかりあって手を取り合って自分たちらしく居たいんです」
迷いのない声。過酷な環境はとても良い方向に彼らを導いたようだ。
(愛の力ってやつね…)
ならばキルシュがそれ以上何を言うまでもない。
「その決断が下せるようになっただけで、貴方がたはとても素晴らしい成長を遂げましたわ」
にこりと笑えば、二人は驚いた表情になり、そして笑った。
「これは下る道ではございません。お二人の美しき花道です。良きものになるようお祈りいたしますわ」
「…キルシュ…」
「キルシュ様」
アフェルがまた以前の呼び方に戻っていたが、許してやろう。揃って深く頭を下げてくれたのだから。
「…では私はここで失礼する。その…キルシュ嬢には迷惑をかけっぱなしで申し訳ない」
「どうか頭をお上げください。アフェル様方の決断はご立派ですが国王がおつらいでしょう」
さすがにこの国の頂点に頭を下げられるのは、貴族教育を受けているからこそ緊張が半端ない。
「いや…そればかりではないのだが…」
「失礼。そろそろ入ってもよろしいでしょうか」
その時ノックと共に聞き慣れた声がした。誰だと思う前に王が側近に命じて扉を開けた。
先にいたのは大きな花束を持ったランジェだった。
「…ランジェ…このタイミングか?」
呆れたように王が声をかける。
「ええ、このタイミングです。アフェルたちにも知らせておくべきでしょう」
王が退室し、代わりにランジェが入ってきた。彼はアフェルではなくキルシュの前でとまった。
「キルシュ嬢。俺はアフェルにかわり立太子と定められた」
「はい。お祝い申し上げます」
エアトはまだ幼いし、側妃の兄弟であればランジェが握るものだろう。特に驚く事はなく頭を下げる。すると下げた視線の先にどうしてかランジェの姿が入ってきた。
「え…?」
驚き視線を上げれば、ランジェが自分の前に跪いていた。高揚、緊張、期待。そんな熱を込めてこちらを見上げて。
「キルシュ・トルテ。きみを愛している。どうか我が伴侶になってほしい」
「は…? なぜ…?」
「え」
何故。
キルシュの反応にランジェも間抜けな声を出す。
――その表情が、本当に、今まで一度も考えた事もないと、告げていた。
「……えぇと…うん、そうだな。俺は今までそんなの一言も告げていなかったしな。…改めて俺の愛を受け止めてほしい」
「え…無理です…」
『えっ』
ハモった声はアフェルとルディナだ。
「え……なんでですか…?」
「キルシュ…おまえ…」
「え…どうしてそんな反応をするんですかアフェル様たちまで……」
横からの声にキルシュの動揺は酷くなる。全員が頭にハテナを浮かべた状態でどう話題を繰り出すか混乱している。
「…だ、だって…よくランジェ様とお喋りしていましたよね? よく中庭で見かけましたわ…」
「ああ…俺もよく見たぞ。よくガゼボでお茶をしたり…執務についてもよく兄上に相談していると…愛を囁かれ顔を赤らめていたと…メイ…んんっなんでもない」
なるほどメイド間でも噂になっているのか。
「いえ、本当に、ほんのこれっぽっちもランジェ様にはそう言った感情は抱いておりません」
いちいち強調すると、ピシリとランジェの身体が固まった。
「…で、でも、でも! あの時だってランジェ様は身を挺してキルシュ様をお守りしてましたし!」
どうしてそんな情報を二人が掴んでいるかがキルシュにはわからない。
「例の騒動の際、中庭を自由に散歩する権利を得たのはランジェ兄上の住まいから近いからだろう?!」
そう言えばランジェ本人もそんな事を言っていた。
「…いえ……それは……だって、それは…」
ぽ。とキルシュの頬が染まる。ランジェはその可憐な姿にのぼせた。
…のは一瞬だった。
「………わたくし、年下が好みなので……」
部屋の気温が一気に下がった。
暖かいのはぽやぽやと空気をまとうキルシュの周りで、他三人の思考はキルシュの一言から導かれる答えを思い浮かべていた。
(…つまり…)
(キルシュ様は…)
(エアトに……会いに…)
「――では我々は領地に向かう準備があるのでこのあたりで失礼しようか!」
このままではまずいと直感が働いたのはアフェル。ルディナの肩を抱き退室しようとすると、アフェルの肩をランジェが掴んだ。
「待て…」
余裕ぶっていた兄からは考えつかないような地を這うような声に、アフェルの喉からヒッと声が漏れた。
「……この状況でお前たちを逃がすと思うか…?」
ひぇ。と二人から恐怖の声が漏れたが、残念ながら騒動の中心のキルシュには届いていなかったのだった。