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【短編】バイ/バイ/ネーム

作者: 照元章一

「吾輩は猫である。名前はまだない。」


大好きだった漱石が、代表作の初めで呑気にそう書いたから、きっと僕は名前の重要性について、そう深く考えなかったのだと思う。



今日、僕は名前を売る。

正確に言うと、自分の戸籍を売ることになっている。

引き換えに受け取るのは百万円だ。


取引の仲介をする男は自分のことを吉田と名乗った。


吉田さんによると百万円というのは、相場の二、三倍ほどの金額らしい。


大卒、独身、交際相手もなし、前科もなく持病もない。


こんな僕の戸籍はこの業界では重宝されるようだ。


世間一般的には普通の人間である僕も、こんな闇取引をする普通じゃない人間の間では稀有な存在だと知る。


結局、人間の評価なんて相対的なものでしかないのだ。


別に百万円と引き換えに自分の名前を売るほどお金に困っているわけではない。

むろん、今は人に誇れる立派な生活でもないから、余分な金というのもないが、とにかく生きていくのに最低限必要なぐらいの金はあった。


では、どうして名前を売るのか。


正直、そう聞かれると難しい。


まぁでも、敢えて言うなら、

「僕が僕であることが嫌になった」

とでも言うべきなのだろうか。


他には「僕が僕であることを許せなかった」などと、まぁ言い方は色々とある。



戸籍の売買だが、売ること自体は犯罪にならない。


取引上、戸籍を売る僕は単なる情報提供者という扱いになる。

そして扱うのは自分の情報。すると被害者はいない。

だから犯罪として成立することもなく、故に罪にも問われないのである。


心配なことと言えば、戸籍を売った後の生活ぐらいだろうか。


吉田さんに取引後の生活について聞くと


「お前以外の誰かがどこかでお前の名前を使う。引っ越しや結婚するときなど、新しく名前が必要な手続きをする場合には支障がでるかもしれない。正直お前の名前を使う人間次第で影響はかなり違う」


低く威圧的な声で、まるでロボットのように淡々とそう説明してくれた。


吉田さんは最後にその声で、「それでもいいのか」と僕に尋ねた。


心は決めているつもりだった。

けれど吉田さんの言葉に一瞬ひるみ、僕はもう一度よく考えた。


ちょうど三年前の今頃、僕は仕事に精を出していた。


大学卒業後に就職した会社で働き始めてから、三年が経ち僕は二十五歳だった。


最初の一・二年は、うだつの上がらない日々を悶々と送っていたが、それがようやく報われ始めた。そんな時だ。


当時、僕には出世を争う同期の男がいた。菅野という男だ。


菅野は愚直で一生懸命なやつだった。


自分で言うのもなんだが、仕事を要領よくこなす僕とは対照的に、誰よりも自分の時間を犠牲にして仕事に打ち込むタイプの人間だ。


けれど、費やした時間がそのまま結果に反映されることは少ない。


営業成績のトップはいつも僕で、菅野はいつもそれに次いで二番だった。


だから部内でも僕が昇進するだろうと噂になっていたし、正直、自分自身でもそう思っていた。



務めていた会社は業界では割と大手だ。

だから露骨な出世コースというのもある。


若くして昇進する人間には、決まって海外勤務の話が上がる。


行き先はアメリカやアジアにある支社で、そこで三年務め、マネジメントの経験を積んでから本社に呼び戻される、というのが通例だ。


そして案の定、僕にも海外勤務の話が舞い込む。

行き先はシンガポールだった。


スロットで確定演出が出た気分だった。

今までの努力が報われたと本気で喜んだ。


そして僕は海外での勤務を快諾する。

ここまでは本当に順調だったのだ。



シンガポールで二年間務めたころ、本社から僕に通達があった。


本社に戻ってこい。

そういう命令だった。


通常は三年勤務だから、一年早く呼び戻されることになる。


僕はシンガポールでの活躍が評価されたのだと思った。


実際にシンガポールで僕は一回りも二回りも成長していた。


英語もすっかり話せるようになり、難しいプロジェクトも見事成功させた。


支社の売上は例年の倍以上となり、しっかりと結果は数字に表れた。


だから一年ぐらい早くても不自然な話ではなかった。


シンガポールから帰るとき、仲間からは、


「幹部になったらもう少しこの支社に予算を回してくれ」


なんて言葉も預かった。


「俺なんてまだまだだよ」


そんなことを口では言いつつ、心では本気でそうなるつもりでいたと思う。


こうして僕は本社に戻った。


しかし言い渡されたのは、課長への昇進ではなく、菅野が課長になった課の二番手。

課長補佐だった。



正直意味が分からなかった。


命令を言い渡した社長は僕に説明する。


話をまとめるとこうだ。


僕がシンガポールに行って一年後、当時の部長が急にやめることになった。

持病が悪化して、これ以上無理はできない体になったそうだ。


そこで僕のいた課の課長が部長へと昇進、課長の席には僕がいなくなって営業トップになっていた菅野が座ることになった。


当時、僕を呼び戻すという話もあったそうだが、シンガポールでのプロジェクトが佳境に入り、そちらの成功を優先させたという。


そして、今回僕を一年早く呼び戻したのは、本社で新しいプロジェクトが立ち上がるから。

とまぁこんな感じだ。



それからの日々は正直キツかった。


プライドが邪魔して素直に受け入れるが難しかった。


自分なりに最大限の努力をしてきた。

そして結果も出してきた。


それなのに、ラッキーとしか言えないそんな出来事に全てを台無しにされてしまったのだ。


出世コースに乗っていた僕の見事な転落模様に、社員からは動揺の目が容赦なく向けられる。

それがますます僕のことを惨めにもした。


これで菅野自身が嫌な奴であれば、愚痴の一つや二つでもこぼせてよかっただろう。


しかし菅野は、その愚直な姿勢で周囲からの信頼も厚く、愚痴でも言おうものならこちらが悪者扱いになる雰囲気だ。


そうして僕は自分の悶々としたこの気持ちをどこにも吐き出すことができずにいた。


それに僕が海外勤務をしている間、菅野は結婚もしていた。


子供も一人授かり、一軒家も購入していた。


古臭い風習だとは思うが、大手の会社では出世するのに社会的な信頼というのも必要だ。


結婚しているという事実はこの時絶大な効果を発揮する。


菅野に比べ、僕は結婚できるような相手もいなかった。

つまりまとめるとこうだ。


菅野はすべての幸せを手にし、ただ仕事一筋だった僕には何も残ってなかった。


本当に完敗だった。



だから僕はあんなことをしてしまったのだと思う。


自分の保身のために、他人のことなんて一切考えず、菅野を見捨てるようなことをした。

完全なる言い訳だ。


けれど、こうやって理由を説明すれば、許されるだろうと思う自分もどこかにいる。


そしてそんな自分のことが、僕は大嫌いなのだ。


僕は、僕が僕自身であることが許せない。


今すぐ他の何かになりたかった。


猫でも犬でも虫でも、そこら辺に生えている草でもなんでもいい。

とにかく自分を辞めたかった。


一度、死のうと思ったこともある。

飛び降りようと思って会社の屋上にも行った。


でも僕は臆病だから、自分で自分の人生を終わらせる決断ができない。

その度胸がない。


だから自分の名前を売ることにした。


そして自分の名前を名乗った誰かが、僕の名前がついた人生を滅茶苦茶にしてくれればそれでいいと思った。

それを本気で臨んだ。


「自分を大切にしろ」なんて綺麗事は、この際、耳を切り落としてでも聞きたくない。


そんなのは自己肯定感のやけに高い、何も背負ってないやつの戯言だ。


アルバイトでその日暮らし。

大した夢や目標もない。

というか持ってはいけない。

これからは自分の罪を償うために生きる。


だから、この生活に変化なんてない。

まして自分から変えるつもりもない。


そこまで考えて、僕は迷うことなく吉田さんの質問に返事をした。


「はい、かまいません」



取引の前日になると、夜の八時きっかりにまた吉田さんから連絡があった。


電話に出ると


「明日十三時、ファンタジーランドの観覧車下、正面から見て左から二つ目のベンチにこい」

という声だけが受話器から聞こえ、すぐに電話は切れた。


相変わらずロボットのように淡々とした口調で、まるで誰かに言ったら殺すと言わんばかりの圧があったが、僕の心は怯えるどころか少し高揚していた。


明日自分の名前を売れば楽になる。

そう心のどこかで思っていたのかもしれない。


まったく、自分のことがとことん嫌になる。


結局僕は自分の罪から逃げたいだけ。

自分のことが一番大切なのだ。



そして今日に至る。

つまり取引の当日だ。


今日は祝日だった。


ファンタジーランドは日本随一のテーマパークということもあり、子連れの家族や若者で園内は溢れかえっている。


園内には一日中コミカルなBGMが流れ続け、それに呼応するように客は自分の世界に入り込んでいた。


お揃いでキャラクターの被りものをしているカップル、

大げさな笑顔と声のアトラクションキャスト、

所かまわず自撮りして品のない爆笑を繰り返す女子の群れ、

カップ一杯で400円のコーラ、


外の世界では許容されないそれらが、なぜかこの場所では成立する。


きっと人は物事の正誤を自分がどう思うかではなく、周りの人間がどんな反応をするかで決めてしまうのだろう。



僕が約束の場所に着いたのは、指定された時間の30分前だった。


時間を持て余し、昼前で腹が減っていた僕は、約束だった観覧車下のベンチが見える近くの飲食店で昼食をとることにする。


店に入ると案内係が、満面の作り笑顔で席まで僕を案内した。


連れていかれたのはテラスとは名ばかりの、ビーチパラソルを並べて屋根の代わりにしている屋外席だった。


カップルと四人家族が座っているテーブルに挟まれた席に一人でポツンと座る。


僕は寂しさを紛らわすようにすぐさまメニューを開いた。


こんな場所に一人でいると回りからどんな風に見られるか心配したが、思いのほか周囲は気にしていないようだ。


当然と言えば当然だ。

みな自分たちの世界に浸っているのだ。

他人にかまっても仕方ない。


そんなことを考えていると、ウェイターが水を持ってきた。


僕は注文するときに声を出して店員を呼ぶのが嫌いなので、別に食べたくもないメニューの一番上にあったオススメのカツカレーを注文する。


1,580円だった。

どこの高級カレーだよ。



注文して待つ間、待ち合わせのベンチを席から眺めた。


あのベンチにはまだ誰もいない。


ベンチの前では観覧車の順番待ちをする人々が、みな少し上を見上げながら自分の順番を今か今かと待っている。


観覧車というだけで随分人気のようだ。


高い所の景色ならもっと良い場所は都内に沢山いくらでもあるのに、とぼんやり考える。


正直、テーマパークの定番というイメージだけで観覧車は過大評価されていると思う。


錆びてペイントの剥げた金属のフレームも、

個室の床にこびりついて固くなったガムも、

そしてよく見れば手垢だらけの窓も、


全てが観覧車であるというだけで許される。


いや、正確に言うと、そういうダメなところを誰も見ようとしない。


先入観、または色眼鏡とでも言うのだろうか。


菅野の下につくことになったあの日も、周囲の人間は、僕を見る色眼鏡を「出世コースにのった男」から「出世コースを逃した男」というものに付け替えた。


そして、そのことに全く気付かないまま僕に接した。


僕という人間も、それから僕自身の能力も、本当は何一つ変わっていないはずなのに。


つくづく名前とは不思議だと思う。

たった数文字に様々な評価が付きまとうのだ。


さっき頼んだカレーも、『カレー』という名前がついてなければなんと説明するだろうか。


茶色くて、ドロドロで、いろんな食材を細かくカットしたものが入っている……

そう考えると食欲は失せてしまいそうだ。


そしてふと考える。


名前を捨てた後の僕は一体何なのだろうか?


考えた瞬間、得体のしれない感覚が体全体を襲った。

恐怖というには大げさな、けれど体のどこかが拒否反応を示す、そんな緊張を伴った感覚だった。


自分の存在を証明する言葉が無くなる。


では、他人は僕のことをどうやって認識するのだろうか。


仮に誰も僕のことを知らない場所に行ったとして、すると誰かが僕の名前を聞いてくるだろう。

そしたら僕は「名前はありません」とその人に言うことになる。


で、どうなる?


きっと僕の名前は『名無し』になるだろう。


そこには「名前も言わない変な奴」だとか「愛想の無い暗い男」みたいな軽蔑する意味も多分に含まれる。


結局人は得体の知れない何かを理解するために名前をつけるのだろうと思った。


つまり名前を付けるのは情報処理するのに等しい。


そうやって自分の理解できる範囲に持ち込まないと、人は怖くて仕方ないのだ。


そんなことを考えているところでカレーが届いた。


時計を見ると約束の時間まで10分しか残っていなかった。


少し急いで僕はカレーを食べる。

食べ終わるとすぐに店を出た。



結局、約束のベンチに着いた時には指定された時間を五分ほど過ぎてしまっていた。


しかしそのベンチはと言うと、誰も座っていない。

お金が入ってそうなものもなかった。


僕は仕方なく一人で座る。


するとキャストの人間が話しかけてきた。


「観覧車乗られませんかー? 只今空いております」

まだお昼時で、利用客が少ないのだろう。


「いえ、すみません。ここで待ち合わせしてるので」

僕はキャストの方を向き丁寧に断った。


その瞬間だった。


「遅いぞ」


突然後ろから声がする。

電話で聞いたあの声だった。


これが実に恐ろしいのだが、僕がキャストとの会話に気を取られている一瞬の内に吉田さんは隣のベンチに座っていた。


「すみません」


そう言いながら、僕は吉田さんの方を向こうとする。

しかし矢継ぎ早に吉田さんは言った。


「こっちを向くな。そのまま正面を見て聞け」


それを聞いて僕の体はぎこちなく止まる。

吉田さんの方を見たら殺される。そう思った。


仕方なく目の端で微かに吉田さんを捉える。


顔は分からないが、服装は何となく分かった。

意外にも柄物のシャツにデニム合わせたカジュアルな恰好だった。


よく考えれば当たり前だ。

こんな場所に想像していたような黒ずくめの服だと目立ちすぎる。


「吉田だ。お前が相澤か」


「そうです」


「ベンチの下にあるケースを受け取ってすぐに帰れ」


「分かりました。お金は……」


「心配ない。ちゃんと三十万そこに入っている。騙したりはしない」


「そうですか」


「なんだ。疑っているのか」


「いや、疑っているというか。こういうの初めてで」


「そうか。まぁお前のような人間にはあまりないことかもな」


吉田さんは、実際に話すと思ったよりも人間っぽい会話ができる男だと思った。


「なんか、電話での印象とだいぶ差がありますね」


「なんだ、俺をロボットとでも思っていたのか?」


図星で僕は少し動揺する。


「電話では余計なことが話せない。上の奴らに監視されているからな」


「そうですか」


「なんだ、意外に呑み込みが早いじゃないか」


「いや、意味が分からない状況過ぎて逆に……」


「そうか」


「はい」


「では、これで取引は成立だ」


「……」


「どうした? まだ気になることでもあるのか?」


「いえ、特にありません」


本当だった。

しかしこの時、僕は同時に不思議な感覚の中にいた。


園内は騒がしいはずなのに、どこかそれははっきりと僕の耳に届かない。

静寂という音を確かに聞いたのだ。


まるでこの世界の中で、僕だけが別の世界に取り込まれ、閉じ込められたような、そんな感覚。

そして僕はその世界にしばらく浸りたい気分になっていた。


しかし吉田さんは口を開く。

その瞬間、僕は現実に引き戻された。


「なぜまだ座っている」


僕は仕方なく答える。

「なんだかもう少しここに居たい気がして」


「そうか」


「吉田さんはもう帰ってもらって大丈夫ですよ」

もう放っていて欲しくて僕は声をかけた。


しかし彼は深いため息をついて言う。


「お前が金をしっかり受け取ったのを確認しないと、俺はここから帰れない」


なるほど、と思った。

ため息からは、僕以外にも何度かこんなやり取りをしたことがあるのを感じられる。


「なんか申し訳ないことをしてしまいました」


「全くだ」

吉田さんは深いため息をつく。


「少し質問してもいいですか?」

興味本位だった。


少しイラついている吉田さんは答える。

「なんだ?」


「これまで、どれくらい人の名前を買ったんですか?」


吉田さんは黙る。

どうやら答えてよいか迷っているようだ。


「そんなの聞いてどうする?」


「いや、他の人はどんな様子だったのか気になって」


「そうだな……」


長い沈黙が続いた。


耐えられなくなった僕は言う。

「答えられませんよね。もう大丈夫です」


吉田さんに分かるように、わざとらしく肩を落とした。


すると今度は吉田さんが口を開く。

「では俺からも質問をしていいか?」


少し驚いたが、僕は正面をみたまま首を振って承諾する。


「なぜ名前を売るんだ?」

吉田さんは躊躇なくシンプルに質問する。


「いやー普通にお金が欲しくて」

僕は嘘をついた。


しかし吉田さんは続ける。

「いや、そんなことはないはずだ。お前は半年前まで大手商社の課長だった。歳の割には蓄えはあるだろ。それとも、すでに全部使ってしまったのか?」


話していない情報を吉田さんが知っていることに、僕は動揺する。


「驚いたか? まぁ無理もない。話してもいない情報を知られているのだからな。だが、こっちもビジネスだ。お前から電話がかかってきたとき、徹底的に調べさせてもらった」


「はっ、はぁ」


先程とは違い、生き生きと話す吉田さんに少し唖然とする。


しかし彼はそんなのを無視して続けた。

「だからますます分からない。なぜお前のような人間が自分の名前を手放すのだ?」


「……」


「と言いつつ、まぁ本当は分かっているのだがな」


「分かっているなら聞かないでくださいよ」


「あの事件と関係があるのだろ?」


「……」


「こういう話は自分からした方が楽になる」


「そんなものですかね」


「あぁ、そんなものだ。そしてお前はいかにも話を聞いて欲しそうだ」


「そんなことないです!」


「その動揺が何よりの証拠だ」

全てを見透かすように吉田さんは淡々とまたロボットのように話す。


そして、それは実際、全て正しかった。


気が付くと僕は口を動かしていた。


溜め込んでいた体の膿が一気に外に出るようだった。


「正直悔しかったんです。全てが台無しになった気がして。で、全部が菅野のせいだとそう思ってしまいました」


「あぁ」


「それで、つい、口が余計なことを言って。そのせいで……、そのせいで菅野は死んだんです」


僕は事件のことをゆっくりと話し始めた。



事件の日、僕はひどく長い会議のせいで疲れ切っていた。


精神的な疲労と身体的な疲労がピークだったのだ。


そんな中、会議が終わり帰り支度をしていると後輩が声をかけてきた。


「相澤さん、今晩プロジェクトの決起会があるんですけど来ませんか?」


正直行きたくはなかった。

今すぐにでも休みたかったからだ。


けれど課長補佐が行かなければ今後の雰囲気に支障がでるかもしれない。


こうして決起会とは名ばかりの飲み会に参加することになった。



来ていたのは、僕を含めて八人だった。

プロジェクトの中枢メンバーで、もちろん菅野もいる。


「それでは、プロジェクトの成功を祈って、カンパーイ!!」


呑気な部下の音頭で会はスタートした。


僕の前の席に座っていたのは菅野だった。


菅野とはここ最近上手く話せていない。

正直気まずかったのだ。


そんな重い空気のなか、様子を伺うようにまずは菅野が口を開いた。


「シンガポールどうだった?」


「いやーよかったよ! あっちは日本よりもだいぶ進んでてさ。すごく勉強になった!」

僕は場を盛り上げるように語尾を上げ、少し大げさに言った。


「そっかぁ」


「こっちはどうだった? 俺がいなくて大変だったろ?」


「う、うん。ほんと、大変だった。相澤君がいなくてすごく困ったよ」

弱弱しく菅野は言う。


本当に真面目な奴だ。

僕の冗談を真剣に受け止めている。


「そこは、『全然そんなことない!』って言うところだろー。もう課長なんだからしっかりしろよ」


菅野は下を向く。

どうやら、菅野も菅野で何か思っていることがありそうだ。


だから早めにその話題に触れておこうと思った。

「でも、びっくりだったよ。帰ってきたらお前が課長になっててさ。俺がいない間に上手くやったよな、このヤロー。あーあ、出世から遠のいちゃったー」


「いや、相澤君は本当にすごいよ。僕なんかまだまだで……」


「だーかーら、そういう所だろっ!」

僕は菅野の肩をパシッと叩いた。


こうして自虐にしなければこの手の話題は重くなる。


会話を聞いている部下たちも、すでに気を使って無理に笑っていた。


「まっ、これからよろしくたのむよ、菅野課長!」

そう言って周りに合わせるように僕も笑った。


こうして何とか決起会は終わった。


しかし事件はその後に起こる。



早く帰りたかった僕は、挨拶もそこそこに一人で帰路に着こうとしていた。


酒の酔いが程よく残り気分がいい。


外に出ると夜風が当たり、それがすごく気持ちよかった。


そんな中駅の方まで歩いていると、後ろから僕を呼び止める声がした。


菅野だった。


走って来たのか、少し苦しそうな菅野は肩で息をしながら言う。

「ごめんね、相澤君。少し二人で話がしたくて」


酒か、夜の街明かりのせいか、顔は少し赤い。


「なに、話って?」

おかげでいい気分が台無しだ。酒の席とは打って変わり、僕は冷たく菅野に言い放つ。


「僕、部長に相談しようと思って。やっぱり、課長になるのは相澤君だよ」


菅野は続ける。

「僕にはやっぱり荷が重すぎるんだ。でも相澤君は違う。みんなのことも引っ張っていけるし、仕事も僕なんかより全然できる。課長に相応しいのは相澤君だけなんだ」


「……」


「だから、僕の代わりに課長やってくれない?」


正直、面倒だと思った。

こいつの尻拭いでなぜ僕が課長にならないといけない。


それに会社のことを考えても、このタイミングで課長の交代などありえなかった。


人事は会社の面目を保つ上でも、そうコロコロと変更はできない。


だから、菅野が直談判したとしても跳ねのけられるだろう。


つまり、こんなのは仕事に支障をきたすだけの揉め事で処理される。


「いやだね。そんなのは無責任だろ。それなら、最初に課長の話がきたときに断っておくべきだった」


菅野の顔は曇る。

どうやら痛い所をついたようだ。


「ほらな。結局お前は自分の意思でそうなったんだ。それなら最後まで責任を持てよ」


「でも・・・」


「なんだよ。とりあえずやってみて、それで無理だったからお願いしますなんて、そんなのは都合がよすぎやしないか?」


ついに菅野は黙って下を向く。

僕は追い打ちをかけるように言う。


「それに僕の気持ちは考えなかったのか? どうせ課長の話が来たときは僕のことなんて忘れて、昇進できることに舞い上がったんだろ」


それは違うとばかりに菅野は顔を上げる。


「いやむしろ、ざまぁ見ろとでも思ったか」


「いやっ……」


「結婚までしたくせに、まだ幸せになろうとして欲張るからそんなことになるんだ」


「ごめん」

菅野は肩を落としうなだれる。


正直すっきりした。そして、その姿を確認すると、醜くも僕の感情は高ぶった。

ざまぁ見ろ、そう思ったのは僕だった。


僕は菅野を置いて歩き出す。


行き交う人の間を抜けながら、自分の鼓動に合わせるように歩いた。


感情的になっているからか、次第に鼓動は速くなる。


つられて歩く速度も上がった。


少し歩くと点滅している横断歩道に差し掛かった。


なんとなくこのタイミングで渡りきりたかった。


僕は走るために勢いよく一歩目を踏み出す。


その瞬間だった。

急に僕は肩を掴まれた。


驚いて振り返るとそこにいたのは菅野だった。


どうやら、あの後追いかけてきたらしい。


振り返った僕と目が合うと、菅野はすぐに口を開く。

「相澤君、ごめんね」


さっきと同じように肩で息をしながら言った。

「僕、全然君の気持ちを考えてなかった。相澤君の言う通り、僕は自分勝手で欲張りだ」


「お、おう」


「でも、やっぱり課長は君にやって欲しい。僕には無理なんだ!」


落ち着きかけていた僕の思考は、また一気に高ぶる。


結局こいつは自分のことしか考えてなかったのだ。


「何言ってんだよ、お前!」


僕は気付くと菅野の胸倉をつかんでいた。

そして菅野を思い切り地面に叩きつける。


しかし倒れこんだ菅野はすぐさま状態を立て直し、進行方向を遮るよう僕の前に回り込んだ。


そして膝と手を黄色い点字ブロックの上につけ、深々と頭を深々と下げ始めた。

土下座したのだ。


行き交う人たちの視線が一気にこちらへ集まる。


僕は慌てて、菅野を立たせようとした。


「おい! こんなところでやめろって!」


しかし、菅野は一向に立ち上がろうとしない。


力ずくで立たせようと何度か試みたがそれも駄目だった。


横断歩道の信号は青に変わる。

行き交う人々がみなこちらを見る。


僕は菅野を無視して前に進もうとするが、そうすると菅野は僕の足を掴んでそれを阻む。

そんなやり取りがしばらく続いた。


そしてまた信号が点滅し始めたころ、ついに諦めた僕は菅野に言う。


「もうしらねぇ。いつまでもそうやって土下座してろ。もう行くからな」


僕は前に行くことを止め、来た道を戻ろうと、菅野の腕の中から足を引っこ抜いた。

そして振り返る。


すると後ろから菅野の声が聞こえた。


「待って!」


しかし僕は無視して歩き始める。


また鼓動は早くなっていた。

歩く速度は上がっていく。


そして15mほど歩いたその時だった。


キッという高い音が一瞬聞こえた後、ドンっという鈍い音が僕の耳に届いた。


一気に僕の後ろが人の声で騒がしくなる。


それを聞いて、なんだ? とざわめく人達の声も聞こえた。


僕と反対に歩いていく人たちはみな、目を見開いて音がした方を見つめている。


そして誰かが叫んだ。

「救急車!」


その声に反応して僕は振り返る。


すると目に入ったのは、横断歩道の白線上で停止している白い軽自動車と、その少し先で倒れている菅野だった。



「即死でした。見ていた人に後で話を聞いたんですが、立ち上がった菅野は自ら後ずさりして道路に飛び出したらしいです。そこに信号が青になって進んでいた車がきて……」


「なるほどな……」

さすがのロボット吉田も言葉を失っているようだ。


「で、ひどかったのはその後です。次の朝に出た新聞の見出しは『酔っ払いが道路に飛び出し事故死』でした」


「その新聞は僕も見た」


「会社のみんなもそれをすっかり信じているようで。だれも菅野はそんな人間じゃないって考えることもしなかった」


「あぁ」


「そしてあとで聞いた話なのですが、その記事のせいで近所からの視線に耐えられなくなった菅野の家族は家を手放して引っ越したそうです」


吉田さんは遂に黙り込んだ。


「僕、今になって思うんです。菅野は真面目な人間だってみんなから言われていたけど、そのことに一番苦しんでいた人間でもあるんじゃないかって」


「そうかもしれないな」


「今の時代、自分らしさを大切にしろ、ってよく言いますよね。でも、自分らしさなんてそんな簡単に分かるものじゃない」


「そうだな」


「だから、自分らしさを考えるうちに、気付けば人からどう見られているかを考えてしまう」


「……」


「つまり人から言われた『あなたらしさ』を『自分らしさ』に置き換えてしまうんです」


吉田さんは深く頷いている。


「菅野はきっとそのギャップに苦しめられていたんです」


「あぁ」


「まぁ、僕の想像でしかないんですけどね」

少し重くなった雰囲気を誤魔化すように僕は明るく言った。


「そこまで考えている人間にあったのは初めてだ」

吉田さんは感心した口調で言う。


「そうですか」


「あぁ。そして、お前が名前を売りたい理由が少しわかったかもしれない」

吉田さんは深くため息をついて言った。


僕はさっきの質問をもう一度吉田さんにしてみることにする。

今度は答えてもらえる気がした。


「今まで何人の人から名前を買ってきたんですか?」


そういうと吉田さんは少し考えてから答えた。

「お前で八十七人目だ」


僕は続けて質問する。

「では、これまで名前を売った人は、その後幸せになりましたか?」


「幸せにはなれない」

吉田さんはきっぱりと言い切った。


「じゃあ僕も不幸まっしぐらですね」

笑いながら言う。


「しかし、なんだかそれを望んでいるように見えるな」


「そうですか?」


「あぁ、まるで昔の俺を見ているようだ」


「昔の吉田さん?」


「あぁ、まぁその時は吉田ではなかったがな」


僕は驚き、つい吉田さんの方を向いてしまう。


そこにいたのは、柄物のシャツがあまり似合わない細身の男だった。

思っていたより若く、見た目からはあの声を想像できない。

堀の深い顔に無精髭を生やし、足元はサンダルで清潔感はまるでない。


そんな姿に動揺しつつ、僕は聞いた。

「どういうことですか?」


「つまり、俺も昔自分の名前を売ったことがあるということだ」


「じゃあ、今の吉田という名前は?」


「また他の男から買ったのさ」


僕は思わず言葉を失う。


すると吉田は続けた。

「だからはっきり言える。名前なんて売っても何も変わらない。それどころか余計につらくなるだけだ」


「そうですか」


「あぁ。そして、お前はそれが償いなんて考えているかもしれんが、そんなのも大間違いだ」


本当に全てを見透かされている気分だった。


悔しくなった僕は口を挟む。

「僕はお金が欲しいだけです」


「まぁ、そういうことにしておいてやろう。ただな、これだけは言わせてくれ」

そう言うと、吉田さんは一つ間をとった。


そしてゆっくり話を始める。

「お前が名前を売ったところで、お前を知っている人にとっては、お前はいつまでも相澤だ。人と関わる以上それは一生ジレンマとして受け入れなくてはいけない」


「別に俺はこれから一生孤独でもかまいません」


「そうか。だがな、それだと償いができないんだよ」


「どういうことですか?」


「仮にお前がこれから誰とも関わらずに生きていくとして、ならお前の存在は誰が証明するんだ? 人は自分一人では自分の存在を証明できない。誰かが自分のことを認知していなければ、いないのと同じだ」


「えぇ、それは分かります。しかしそれに何の関係があるのでしょうか?」


「まだ分からないのか? お前は菅野に対する償いのために今、名前を売ろうとしている。では誰からも認知されずこれからお前が生きたとして、その償いは可能なのか? だれもお前を責める人間はいないんだぞ」


「そう、ですね」


「そうだ。結局お前は、相澤として生きていかなければ菅野に対して償うことはできない」


吉田さんの言葉にはどこか説得力があった。


「俺はな、一度名前を売った。しかし、人生は何も変わらなかったよ。良くも悪くもならない。それが逆につらかった。昔の名前だった間の記憶が消えるわけでもない。名前を使った奴が悪さしても、結局俺にお咎めはなかった。警察もそんなに馬鹿じゃない」


「そうだったんですね」


「あぁ。そして分かるんだ。自分の名前、その数文字に積み重ねてきた過去、そして現在は、全部自分自身で背負って生きていくしかないんだ」

これが結論とばかりに吉田さんは言葉を紡いだ。


「いいんですか、そんな話して。僕の気が変わったら、吉田さん困るんじゃないですか?」


「別に困りはしないさ。他に名前を売りたいやつなんていくらでもいる。それこそ本当にお金のためだけにな」


「本当になんでもお見通しなんですね」


「まぁな」


ふと腕時計をみると、もう二時になりかけていた。

随分と話し込んでいたようだ。


僕は席から立ち上がった。

そして観覧車乗り場の入り口に向かう。


「いまから乗れますか?」

入口のところに立っているキャストに話しかけた。


「はい、大丈夫ですよ。お二人ですか?」

僕と吉田さんの方を交互に見ながらキャストは尋ねる。


「いいえ、僕一人で大丈夫です」


「そうですか。ではこちらへどうぞー!」

そう言ってキャストは僕をガラス張りのかごの中に入れ扉を閉める。


振り返ると、吉田さんはベンチに座ったままこちらを見ていた。


僕はそれに向かって深くお辞儀をする。


そしてそこで、あることを思い出した。


そう言えば、ついぞ吉田さんの持ってきたスーツケースを見ていない。


百万円という大金だ。

どうせなら一度は中身を拝んでおけばよかったと、そう後悔する。


僕は頭を上げると、自分が座っていたベンチの方を見た。


しかし座っていたベンチをどれだけみても、スーツケースのようなものは見当たらない。


僕はハッとする。

そして吉田さんの方を見た。


すると吉田さんは、僕と目を合わせてニコッと笑う。


そのなんともぎこちない笑顔を、僕は観覧車の手垢だらけの窓から眺めるしかなかった。


「いってらっしゃいませー」

大げさなキャストの掛け声がむなしく響いた。

(完)


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― 新着の感想 ―
[一言] すごく考えさせられる、面白いお話でした。 オチがスッキリ終わるのが、僕好みでした。
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