六、形になっていなくても
◆ 六、形になっていなくても
次の日、教室に入ると、なぎさと目が合った。「ごめんね」と言おうとしたけど、私は目をそらしてしまった。自分でも、なぜかよくわからない。照れくさかったのかもしれないけど、向こうから話しかけてほしいという、変なプライドもあったと思う。
ところが、なぎさは話しかけてはくれなかった。一日中、一言も話さなかった。
何人かの友達から、「花となぎさ、何かあったの?」と聞かれた。私は全部話そうかと思ったけど、やめておいた。なぎさが色覚異常を抱えていることは、私と矢田先生しか知らないはずだ。それを勝手に他の人に言うのは、さすがに気が引けた。
「ううん、ちょっとけんかしただけっ」
明るくふるまって、ごまかす。
私だけじゃなくて、なぎさの方も、きっと友達から私たちのことを聞かれているはずだ。なぎさは、何と答えているのだろう。色が分からないこと、そして私にイライラしていたことを、打ち明けたのだろうか。
そんな日々が、一週間続いた。そんなある日の、朝の会のことだ。
「十月、最初の月曜日の朝に、音楽集会があります。今回は、五年生が代表でリコーダーを発表することになっています」
杉山小学校では、一か月に一回、音楽集会という行事がある。一つの学年が、合唱や合奏などを、全校に発表する会だ。五月が一年生、六月が二年生、七月が三年生、そして今月は四年生が発表をしたから、次回は五年生の番だ。
「曲は、音楽の授業でも学習している、『カントリーロード』です」
おお、私が好きな曲だ。リコーダーで低音を出すのが難しいけど、とても美しいメロディーの曲だ。
「学年で一人、ピアノの伴奏をしてくれる人を募集したいんだけど…、加賀さん、やってみない?」
先生自ら、なぎさを指名した。
「えっ、私ですか?」
なぎさ、かなり驚いている。でも、納得だ。なぎさがピアノを習っていて、めちゃくちゃ上手だということを、みんな知っている。それを差し置いて、立候補するようなチャレンジャーはいないだろう。
「いいと思います」
「賛成です」
クラスのみんなも、次々と賛同の声をあげていく。
なぎさは、ちょっと迷った顔をしながら、
「…わかりました。がんばります」
教室が、拍手でわいた。
「加賀さん、ありがとう。みんなも、リコーダーの練習をがんばりましょう。本番まで、あと二週間です」
いつもなら…、すぐに、なぎさに声をかけに行くのに。
なぎさ、すごいねっ。
がんばってっ。
私も、リコーダーをめちゃくちゃ練習するからっ。
…いつもなら、そんな風に言うのかな。
次の週の金曜日、学年全員で、体育館でリハーサルを行った。
なぎさはさすがの腕前で、たった十日の間に、伴奏をマスターしていた。
私も、楽譜がなくても完ぺきに演奏ができるようになっていた。もともと、体育とか音楽みたいな、技能教科は得意な方だ。低音も、きれいな音色を出すことができる。「ホー」と優しく吹くのがコツだ。
「さあ、最後に一回だけ通しましょう」
矢田先生の声が体育館に響く。
私たちは、ステージの前に横三列で並ぶ。私は、正面から見て左側の、一番前の列だ。
矢田先生が指揮を振る。リコーダーを持ち、演奏を始める。
最初のソの音が、そろうように、しっかりと指揮を見て、息をそうっと吹く。
…みんなの奏でる音が、体育館いっぱいに広がる。天井を突き抜けて、空までまっすぐ届いていくような、美しい音色。自分も一緒に吹いていることを忘れ、その音に聞き入ってしまう。
すごい。みんな、上手だ。
この曲は、リコーダーの前奏が終わってから、ピアノの前奏が始まる。私の後ろ、ステージ上から、ピアノの音色が聞こえてきた。練習のときに聴いていたCDの音源よりも、一音一音が際立って、私たちの耳に、体に、胸に響いてくる。
リコーダーの音は、さわやかなそよ風。なぎさのピアノは、降り注ぐ太陽の光。私の頭の中に、そんなイメージが浮かんでくる。
あっという間に、演奏は終わった。いつまでも聴いていたい、そう思えるような演奏ができた手ごたえがあった。
指揮をした矢田先生も、満足そうな表情だった。
「みなさん、本当に素晴らしい演奏でした。音楽の時間、一生懸命に練習した成果ですね。これなら、本番もきっと大丈夫ですね」
みんな、ほっとしたのか、一瞬空気がゆるんだ。矢田先生は、それを察したのか、すぐに「でも」と続ける。
「当日まで、油断してはいけません。本番は、目の前に、他の学年のみんなが座っています。もちろん、緊張すると思います。来週の月曜日まで、練習をおこたらないようにしましょう」
たしかに、その通りだ。今週はリコーダーを家に持って帰って、練習をしておこう。
リコーダーを持って帰って、家で練習しよう。そう思っていたのに、リコーダーを教室に置いてきてしまった。そのことに気付いたのは、ちょうど正門を出たところだった。
もう、何やってんだろう、私。いや、すぐに取りに戻れるところで気づけたのは、むしろラッキーかな?
階段をかけ上がり、教室に戻る。ロッカーの中から、リコーダーを取り出し、ランドセルに突っ込むと、再び正門に向かう。はあ、走ったら息が切れた。別に急いでるわけじゃないから、ゆっくり帰ろう。
正門を出ようとすると、別棟の音楽室から、ピアノの音が聞こえた。
『カントリーロード』の伴奏だ。
風に揺れるカーテンのすき間から、中をのぞく。やはり、なぎさだ。音楽の、千葉先生も一緒だ。千葉先生は、男の先生だけど、髪の毛が肩まである。ひげも生えていて、なんか本当に音楽家って感じ。
「よし、もうばっちりだね。加賀さん、すごいよ。小さいころからピアノを習っているとはいえ、たった十日でここまで弾けるようになるなんて」
「いえ、千葉先生、毎日練習に付き合っていただき、ありがとうございました」
なぎさ、毎日練習していたんだ。知らなかった。みんなは知っているのかな。いや、誰もそんなことは言っていなかった。
多分、誰にも言ってないんだろうな。なぎさのことだから、一生懸命、練習していることは、自分からアピールしたりしないだろう。私だったら、絶対に自分で言っちゃうな。「めちゃくちゃ練習したぞー」って…。
さて、気付かれないうちに、帰ろ。私も、家で練習だ。
月曜日、音楽集会の当日だ。ちょっとだけ早く起きて、準備をする。五年生は、十分前に登校して、直前にもう一度だけリハーサルをすることになっていた。
「花、今日は朝だけ仕事の休みをもらったから、私も見に行くね」
朝食のシリアルを食べていると、お母さんが言った。
「はーい。がんばりまーす」
「あと、なぎさちゃんのピアノも聴きたいしね」
なぎさが、伴奏をするということ、ピアノがめちゃくちゃ上手だってことは、家族に言ってある。
今、ちょっと距離ができちゃっていることは言ってない。なんとなく。
「うん。わかったっ」
早めに家を出て、学校に向かう。十月になり、ようやく残暑がおとろえてきた。空は雲におおわれており、日差しもない。
夏が終わり、秋が来る。そして、あっという間に冬になり、春が来るんだろう。
季節の移り変わりをかみしめながら歩いていると、すぐに学校についた。さっ、リコーダーに気持ちを切り替えよう。
五年生だけ、最初に校舎に入り、教室にランドセルや荷物を置く。すぐに体育館に向かい、他の学年の人たちが来る前に、一度だけリハーサルをする。
先週の練習のときと同じように、演奏ができた。よかった、ばっちりだ。
ちらりと、ピアノの前に座るなぎさを見る。ちょっとだけ、緊張しているみたいだ。そんななぎさの顔を見ていると、私も少し緊張してきた。
他学年の子ども達が、続々と体育館に入ってくる。後ろのドアからは、五年生の保護者が二十人くらい入ってきていた。
私のお母さんも、入ってきた。なんとなく、目が合わないように、私はステージの前の一年生の様子をながめていた。男の子が、隣同士でちょっかいを出し合っているのを見つめる。自分の緊張から目をそらすように、関係のないものを見るようにする。
「みなさん、おはようございます」
おはようございまーす。音楽の千葉先生のあいさつに、全校のみんなが、元気よく答える。
「さあ、今月の音楽集会は、五年生の演奏です。五年生は、リコーダーの演奏を披露してくれます。『カントリーロード』という曲を知っていますか。聴いたことがある人も、多いと思います。素敵な演奏をしてくれますので、静かに聴いてくださいね」
静かな体育館に、マイクを通した先生の声が響く。それを聞いていると、なんだか心臓のドキドキが、もっと速くなってきた気がする。
ふと、体育館の横に立っている、指揮者の矢田先生を見る。矢田先生は、いつもと変わらない、落ち着いた様子だった。さすが、先生だ。
その矢田先生が、指揮台に向かって歩いてくる。始まる。がんばろっ。
矢田先生は、みんなを見て、少しほほ笑む。そして、私の後ろの方…、ピアノを弾く、なぎさと目を合わせて、うなずく。
矢田先生の合図で、みんな一斉にリコーダーを構える。私の指は、すでに最初の音の「ソ」が出せるように、穴を押さえている。指先に、汗がにじんでいるのを感じる。
指揮者をしっかり見て…、一、二、三…。
五年生、約九十人のリコーダーの音が、体育館に響く。吹き始めた瞬間、不思議と心臓の鼓動が、落ち着いていく。
私の不安が、緊張が、モヤモヤとした気持ちが、吹いた息に乗って、リコーダーを通り、美しい音に変わって、みんなに届く。
体育館にいる全員の目が、耳が、体が、ステージに集中しているのが分かる。みんな、私たちの演奏に聴き入っている。
前奏が終わる。ピアノの伴奏が聴こえる。次のメロディーの最初の音は、低い「レ」。
低音も、ばっちりそろった。リコーダーとピアノの音色が合わさり、ハーモニーを奏でる。
誰も、聴きながらおしゃべりをする人はいない。さっきまで、ちょっかいを出し合っていた一年生の男の子たちも、まばたきすらしない。私たちが奏でる音に、誰もが包みこまれている。
さあ、二番の演奏だ。メロディーは、一番のくり返しだけど、私たちは、一層気持ちをこめてリコーダーを吹く。気持ちをこめながらも、矢田先生の指揮をしっかり見る。テンポが速くならないように、気をつける。
二番が終わる。最後のサビの前のメロディー。私が苦手なところ。でも、今日は大丈夫。…よし、完ぺきっ。
さあ、いよいよ最後のサビだ。一番、盛り上がるところ。多分、時間にすると十数秒だけど、そこで全てを出し切ろう。
…あれ? 何かヘン。
何だろう、この違和感。私、音を間違えた? いや、間違ってない。みんなと同じメロディーを演奏してる。でも、何か物足りない。
…ピアノの音が、消えている。伴奏が止まっているんだ。
いつも、後ろから聞こえる、ピアノの音がない。最後のサビ、ちょっとだけ音を大きくして、盛り上げるところで、何も聞こえない。
最後の十数秒、リコーダーの音だけが響いて、私たちの演奏が終わった。みんなの拍手が鳴り響いた。私は、すぐに後ろを振り返る。
なぎさは、うつむいたまま、立ちすくんでいた。
教室に戻り、みんなで演奏のふりかえりをすることになった。
「みなさん、とてもすてきな演奏でしたよ。先生方や、みなさんのおうちの人、そして全校のみんなも、とても感動していました。私も、指揮をしながら、思わず聴き入ってしまいました。ぜひ、今日感じたことや、思ったこと、よかったところを、発表してください」
はいはいはーい、と元気よく手を挙げたのは、吉田だ。あいつ、さっきまでの緊張から解き放たれて、調子に乗ってるな。
「みんな、上手でいいと思いました」
一年生かよ、と誰かがツッコんで、教室に笑いが起きた。解き放たれた感があるのは、みんな一緒みたいだ。
そんな中、もう一人、すっと手を挙げた人がいた。なぎさだ。
「はい、加賀さん」
矢田先生の指名に、なぎさは静かに立ち上がる。教室は、一瞬で静かになる。なぎさがどんな言葉を話すのか、固唾を飲んで見守る。
「…みんな、途中でピアノが止まってしまい、ごめんなさい。私、緊張して、途中で頭が真っ白になっちゃって…、それで…」
やっぱり、そうだったんだ。どんなにピアノが上手でも、全校の前で伴奏をするとなると、やっぱり緊張するんだ。
なぎさは、言葉を詰まらせる。みんなは何と声をかけていいのかわからず、ただ黙っている。
教室に、気まずい空気が流れる。まるで、時間が止まってしまったみたい。
何て、声をかければいいんだろう。私だって、何と言ったらいいかわからない。
ぐるぐると考える。考えても、分からない。
でも、言うしかない。分からなくたって、言葉をかけるしかない。
「聴こえましたっ」
気が付くと、私は立ち上がって、話し始めていた。みんな、驚いた顔をして私を見ている。
「私には、聴こえました。加賀さんの、すてきなピアノの音が。みんなにも、聴こえたはずです。だから、だからこそ、私たちの演奏は上手くいったし、聴いていた人たちを感動させられたのだと思います」
次々と、言葉が出てくる。考えるより先に、思いがあふれ出る。どうしたんだろう、私。
「加賀さんは、放課後もピアノの練習をしていました。私たちの発表が成功するように、誰も知らないところで、努力をしていました。あのピアノの音は、今も思い出すことができます。本当にすてきなものは、形になっていなくても、感じることができるんです。私は、私たちのために伴奏を引き受け、一生懸命練習をしてくれた加賀さんに、ありがとうと言いたいです」
自分でも、何を言っているのか、分からなくなっていた。それでも、いいと思った。多分、私の思いは伝わった。
教室は、わっと拍手に包まれた。なぎさの目には、涙が浮かんでいた。なぜか、私も泣きそうになった。
「花、ありがとう」
休み時間、なぎさは真っ先に私のところに来てくれた。
「ううん、ごめん。なんか、出しゃばったことしちゃって…」
「いいの。私こそ、今までごめん」
一呼吸おいて、なぎさは話し始めた。
「私、色が分からないことを、本当はあまり人に知られたくなかったの。かわいそうって思われて、同情されるのが嫌だったから。だから、花にも、そのことをあまり話題にしてほしくなかった。普通の友達と同じように、接してほしかった。花が、私のことを考えてくれているのは分かったけど、それも、自分の触れてほしくないところに触れられたみたいで、なんだか変な感じがしたの」
ごめん。私のおせっかいが、重荷になっていたんだね。
「でも、それを直接言うことができなかった。そんな自分に、イライラしてた。そのイライラを、なぜか花にぶつけちゃったの。本当にごめんなさい」
「そんな、謝ることないよ。私が余計なことばかりしちゃったから」
「さっき、花は本当に友達のことを思う気持ちが強い人なんだって分かった。私、何も言わずに距離を置いたりして、本当に最低だって思った。本当に、ごめん」
なぎさは、何度も「ごめん」と言った。私も、同じくらい「ごめん」と言った。
そして、それよりもたくさん「ありがとう」と言った。