Cafe Shelly 神の手
コーヒー仙人、西脇守。私は彼のコーヒーに対する愛情と情熱に感動し、いつしか彼の元を訪れるようになった。
西脇氏がいるのは、とある避暑地のペンション。彼はペンションを経営する傍ら、コーヒーを自家焙煎してお客様と、ごく限られた少数のコーヒーショップに販売をしている。もちろん、ここに訪れれば彼の焙煎したコーヒー豆を手に入れることができる。が、通販などはやっていないため、わざわざここまで足を運ばなければいけない。
「よぉ、靖雄くん。いつも来てくれてありがとう」
私はこのコーヒー仙人のところに足を何度も運んでいるため、ここの常連となった。そして、ここにきて西脇氏の淹れてくれるコーヒーを味わいながら、コーヒー談義に花を咲かせるのが私の趣味となっている。
「いやぁ、いつもながら素晴らしい味です。すごく深みがあって、なんか心の奥が動かされる感じがしますよ」
「いやいや、それは褒めすぎだよ。まぁ、コーヒーの味に関しては自信はあるんだがね。そういえば靖雄くんに、まだ彼の話はしてなかったな」
「彼、というと?」
「実はね、私のこの豆を使っているお店があるんだが。そこのマスターの淹れるコーヒーの味がすごいんだよ」
コーヒー仙人と言われる西脇さんがそれほど言うのだから、そのマスターの淹れるコーヒーを味わわないわけにはいかない。
「それ、どこにある喫茶店なんですか?」
「それはね…」
西脇さんから教えてもらった喫茶店。ありがたいことに私が住んでいるところに近いじゃないか。一体何がすごいのか、それについては
「飲んでからのお楽しみだよ」
と、詳しくは教えてくれなかった。それだけに期待感が高まる。
私の本業はフリーのルポライター。といえば聞こえはいいが、実際には出版社お抱えの何でも屋のようなものだ。どこどこに取材に行ってくれないかと言われると、自費で取材をしてあとから原稿料をもらう。その日暮らしの文筆業をしている。おかげで忙しいときには取材が重なり、締切に追われる時もあるのだが。暇な時はとことん暇。月に1〜2本程度しか仕事がないときもある。
そのおかげで、こうやって好きなコーヒーを突き詰めていく時間ができるのだが。かといって懐具合も気になる。
「靖雄くんはもういい歳だろう。つきあっている女性とかいないの?」
西脇さんにそう言われても、残念ながら三十も半ばになる、うだつの上がらないフリーライターに彼女なんてできやしない。
「まぁ、今の生き方をしている限り、彼女なんてできないでしょうけどね」
「じゃぁ、靖雄くんはこれからどんな生き方をしたいと思っているんだい?」
「これからの生き方、ですか…」
そう聞かれると言葉に詰まってしまう。私は今を生きることで精一杯。せめてもの心の拠り所として、西脇さんのコーヒーを飲みに来ることが楽しみとしている。これから先のことなんて考えてもいなかった。
「ちょうどいい、その答えはカフェ・シェリーに行ってみるときっと見つかるよ」
カフェ・シェリー、西脇さんに教えてもらった喫茶店だ。そこで自分の生き方が見つかるとはどういうことなのだろうか?それも西脇さんは微笑むだけで教えてはくれなかった。全てはその喫茶店に行くことで見えてくるということか。
私は翌日、早速その喫茶店を訪れることにした。西脇さんの豆を使い、すごい味を出すコーヒー。さらに私の生き方までも見えてくるというその喫茶店。果たしてどんなお店なのだろうか。
それにしても最近は便利なものだ。都市名と喫茶店の名前をスマホに入力するだけで、そのお店の場所がわかるのだから。だが、不思議なことに飲食店のサイトにそのお店、カフェ・シェリーの名前がない。
「普通は星いくつとか出ているんだろうけど。本当にそんなお店あるのかなぁ」
けれど、お店は地図上にはきちんと出ている。ともかく、そこに行ってみよう。
この街を訪れるのは久しぶりだな。お店があるのは街なかのとある路地。通りに入ると、パステル色のタイルで敷き詰められた道路が目に入る。今は冬だと言うのに、なぜだか春っぽい感じを受ける。
通りの幅は広いのだが、実際には車一台が通れる程度。それは両側にレンガでできた花壇があるから。それが車道と歩道を分けている。どうやら土日になると昼間は車が入れるようにはなっていないようだ。
通りの両側にはいろいろなお店が並んでいる。飲食店もあればブティックもある。なんと、歯医者まであるじゃないか。そしてお目当ての喫茶店、カフェ・シェリーは通りの中ほどにある。どうやらビルの二階にあるらしい。
「ここか」
私が目にしたのは、黒板の看板。そこにチョークで「Cafe Shelly」と書かれてあり、コーヒーカップの絵と下に文字が書いてある。
「この出会いは神さまからあなたへのプレゼントです、か。なんかいいね。」
思わず笑みがこぼれる。これから出会うマスターとのことを書いているみたいだ。
ビルの階段をあがり、喫茶店カフェ・シェリーへの扉を開く。
カラン・コロン・カラン
心地よいカウベルの音。最近こんな音色、聞かないなぁ。
「いらっしゃいませ」
同時に聞こえてくる女性の声。さらに少し遅れて
「いらっしゃいませ」
今度は渋い男性の声。そっちに目をやると、カウンターの中でコーヒーを淹れている人物が目に入る。どうやらお目当てのマスターの声のようだ。
「お一人ですか?」
女性の店員が尋ねてくる。
「はい。マスターと話がしたくて」
「ではこちらにどうぞ」
店員は私をカウンター席へと誘導してくれる。このとき、お店の中をさっと見回す。白と茶色の二色で、シンプルにまとめられた感じ。華美な飾りがないのがいい。そして店内に流れるジャズ。うるさすぎず、丁度いい感じの音量で心をはずませてくれる。
客席は少ない。窓際の半円型のテーブルに4席、お店の真ん中にある丸テーブルに3席。そしてカウンターに4席。10人も入れば満席となる小さなお店であるが、狭さは感じない。
そして何より私の心をくすぐるのが、店内に広がる香りである。コーヒーの香りに混じって、甘い香りもする。これが丁度いい感じで、コーヒーを飲みたい欲求を駆り立ててくれる。
「こんにちは、今日はマスターを尋ねてきました」
「それは光栄ですね。ありがとうございます」
にこやかに答えるマスター。とても親しみやすく、愛想のいい人だ。早速本題を切り出すとするか。
「実は私、西脇さんのところによく通っていまして。そこでマスターのコーヒーのことを聞いてきたんです。なんでもすごい味を出すとか。でも、具体的にどんな味なのか教えてくれないんですよ。飲んでからのお楽しみということで。それで今日ここにやってきたんです」
「ははは、西脇さんも意地悪な人だな。でも、たしかに西脇さんの焙煎した豆で淹れるコーヒー、シェリー・ブレンドは一言では言えない味だとは思います」
一言では言えない味とは。さらに興味が湧いてきた。
「じゃぁ、早速そのシェリー・ブレンドをいただけますか?」
「かしこまりました」
そう言うと、マスターは手際よくコーヒーを淹れ始めた。私も自分でコーヒーを淹れるので、マスターがどんな動きをするのか興味がとてもある。すでに何百回、いや何千回とコーヒーを淹れているのだろう。流れるような動作で、一つ一つが丁寧である。そして、お湯を注ぐ時になにか口にしているのが確認できた。何と言っているのだ?
「おまたせしました。シェリー・ブレンドです」
きたきた、早速飲んでみよう。あのコーヒー仙人の西脇さんの豆を使っているのだから、味は格別なはずだ。
まずはコーヒーカップを鼻に近づけ、香りを楽しむ。うん、これこれ、この香りだ。ここまでは西脇さんの淹れたコーヒーと変わりはない。そしてコーヒーを口に含む。
最初に口に入れた時、いつもの西脇さんのものと同じ味がした。なんだ、変わらないじゃないか。そう思った瞬間、舌の上で大きな変化が訪れた。
いつもの苦味と酸味、そしてコクが一気に別のものとなった。全く違うコーヒーを飲んでいる感覚。だからといって、この味が美味しくないということではない。いや、むしろこの味のほうが私に合っている。心地よさすら感じる。
今まで良いと思っていたものを更に上回る味。まるで私が求めている人生のようだ。今のライターという仕事は嫌いではない。物書きに憧れて始めた職業だ。けれど、収入が安定しない上に、自分が書きたいと思うものとは違うものを強要されることもある。私にはもっと合う仕事があるのではないだろうか。それを頭の片隅で模索しながら今を生きている。そんな自分の姿が思い出されてしまった。
「お味はいかがでしたか?」
マスターの言葉でハッと我に返った。いつの間にか自分の世界に入り込んでいたようだ。
「いや、不思議な味ですね。これ、西脇さんの所の豆を使っているのでしょう?何度もこの豆でコーヒーを味わったのに、こんなに味に変化が出るなんて」
「どんな変化だったのですか?」
「最初はいつもの西脇さんのコーヒーと同じ味だったんです。ところが突然、まったく違うコーヒーを飲んでいる感覚に襲われました。その味がまた、私にぴったりの味だったんです。今を上回る味、それが私に心地よさを与えてくれました」
「なるほど、いつもの味が突然変化して、心地よさを与える味に変わったのですね。それで何か感じることや思い浮かべることはありませんでしたか?」
マスターのその質問に対して、なぜだか私はさっき思い浮かべたことを話さずにはいられなくなった。
「私、フリーのルポライターをやっているんです。この仕事、書くのが好きで始めたはずなんですけど、時々辛くなることもあります。書きたくないジャンルを無理やり書かされたり。でも、食べていくためには仕方のないことなんです。こんな人生よりも、もっと別の私に合った道があるんじゃないかな」
「なるほど、それがあなたの望んでいることなのですね」
私が望んでいること。そう言われて気づいた。そうか、私は今の人生に満足していないんだ。もっと別の道があるはず。そのことをずっと心の奥で望んでいたんだ。
「たしかにそのとおりです。それにしても不思議な味がするコーヒーだ。どうやったらこんなふうに味が変化するんだろう。西脇さんのところではこんなことは一度もなかったのに」
「これがシェリー・ブレンドの魔法です」
「魔法?」
「はい。このコーヒーには魔法がかかっているのです。飲んだ方が望んでいる味がする。中には飲んだら望んでいることの映像が頭に浮かんでくる人もいます」
飲んだ人が望んでいる味がする。確かにそのとおりだ。ということは…
「じゃぁ、飲む人によって味が違うってことですか?」
「はい。また、同じ人でも飲んでいる時の気持ちや感情で全く違う味に変化することもあります」
同じ人が飲んでも、その時その時で違う味になる。まさに魔法のコーヒーだ。そういえばこんなことを聞いたことがある。コーヒーは薬膳である。飲む人によってその効き目が違ってくる。一般的にコーヒーを飲むと目が冴えるというが、眠りたい人には眠気を促す。
「飲む人によって味が違ってくるだなんて、どうやったら西脇さんの豆でそんなことができるんですか?」
これは率直な疑問。ひょっとしたら、他にも何かブレンドをしているのではないだろうか?
「これが、実は私にもわからないんですよ。私も西脇さんの豆を求めて、そこで私なりにコーヒーを淹れるときに工夫をしてみたらこうなったんです」
「じゃぁ、この味を出せるのはマスターしかいないってことですか?」
「どうやらそうらしいんです。今まで何人も同じようにこの豆を使ってコーヒーを淹れてみたのですが。残念ながら魔法がかかるというところまではいかなかったんです。どうしてでしょうね?」
どうしてなのだろう。けれど、そんな事ができるだなんて、まさにマスターは神の手を持つ人と言えるだろう。あのコーヒー仙人の西脇さんでさえ、こんな味を出すことはできないのだから。
「ところで話を戻してもいいですか?お客様…あ、せっかくですから名前を教えていただけますか?」
おっと、そうだった。まだ私の名前すら名乗っていなかったな。慌ててカバンから名刺を取り出す。
「あらためまして、柏本靖雄といいます」
「かしわもとさん、ですね」
なんだか言いづらそうだな。
「靖雄でいいですよ。かしわもとって名字、自分でも言いづらいですから」
「では靖雄さんで呼ばせていただきます。靖雄さんはシェリー・ブレンドを飲んだ時に味が変わったとおっしゃいましたね。それは自分の人生を、もっと自分に合ったものに変えたいという願望の現れだと感じている。そうでしたね」
「はい、けれどそれが何かがまだ見えなくて」
「実は私も同じだったんです。私、以前教師をしておりまして。けれどコーヒーの魅力に取り憑かれて、いつかはお店を持ちたい。そう思っていました」
「へぇ、教師だったんですか。それが喫茶店のマスターに転身とは。かなり思い切ったことをしましたね」
「はい。けれど、そのおかげでいろんな人と関わらせていただくことができました。いろんな方の人生を、このシェリー・ブレンドで切り開く姿を見させていただくこともできました。そして、私自身もこのお店で成長させていただきました」
「それ、いいですね。私もルポライターとして色んな人と出会ってきましたけれど、一緒になって自分も成長するなんて実感はなかったなぁ。じゃぁ、マスターは今の人生に満足しているんですね」
私の問いかけに対して、マスターは急に黙り込んだ。
「マスター、どうしたんですか?」
「いえ、なんでもありません」
ここはルポライターとしての勘が働いた。マスター、今の自分の人生に対して完全に満足していないのではないか。ひょっとしたら別のやりたいことを見つけた、とか。
「それにしても、この魔法のようなコーヒーを淹れられるのがマスター一人だなんて。一体どうしてなんでしょうね?」
「これが私にもわからないんです。ここでコーヒー教室も時々やるのですが。今まで何人か、シェリー・ブレンドのこの味に挑戦した人はいるのですが、未だに私のような味を出せた人はいないんです」
「そこなんですよ。私、マスターは『神の手』を持つ人じゃないかって、そう思ったんです」
「神の手だなんて、なんだかおおげさですね」
「いやいや、大げさじゃありませんよ。私自身、このコーヒーのお陰で今の人生のままじゃだめなんだって思わせてくれたんですから。人生のターニングポイントとなる気づきを、このコーヒー、シェリー・ブレンドが与えてくれる。それを演出してくれるのがマスターですから。私から見ればまさに『神の手』です」
「ありがとうございます。けれど、一つだけ不思議なことがあるんです」
「不思議なこと?」
「実は、このシェリー・ブレンドの魔法、私自身が体験したことがないんです」
「えっ!?ど、どうしてですか?」
「それがわからないんです。自分で淹れたコーヒーを飲んでも、毎回同じ味になってしまうんですよ」
「それは不思議ですね。まるで魔法使いの魔法が、その人自身には効かないって感じですね」
「ははは、まさにそんな感じです」
マスターは笑いながらそう言うが、ちょっと不憫な感じがした。こんなにも素晴らしい腕を持っているのに、それを体験できないなんて。さっきは魔法使いに例えたが、私はもっと大きな存在での例えが頭に浮かんでいた。それは神は多くの人に神のご加護を与えることができるが、神自身にはそれができない、ということ。なにしろマスターは神の手を持つ人だから。
「他にシェリー・ブレンドの魔法を使える人っていないものなんですかね?」
「もしそんな人がいたらありがたいですよ。そういえば靖雄さんは西脇さんのところに通っているっておっしゃっていましたよね。ということはかなりのコーヒー通だとお見受けしましたが」
「まぁ、コーヒーについてはかなりこだわりを持っているのは確かです」
私はコーヒーについてだけはかなりうるさいほうだ。
「もしよろしければ、一度シェリー・ブレンドを淹れてみませんか?」
「えっ、いいんですか?」
マスターの申し出に、私は心躍った。これは私自身を試されていると思ったからだ。
「では、カウンターの中へどうぞ」
そう促されて、カウンターの中へと足を踏み入れた。こういう場所は、喫茶店のマスターは聖地にしていると私は思っている。普段は絶対に他人には足を踏み入れさせないものだ。けれど、ここのマスターはその聖地に私を誘導した。その瞬間、私は神の領域に一歩近づいた感じを受けた。
カウンターの中に入ると、ビシッと整理整頓されたコーヒーの道具が並んでいる。ドリッパーは陶器でできている。フィルターは布製のネルを使っている。ドリップボトルは使い込まれた、銀色のステンレス製。空の状態で手にしてみると、とてもしっくりとくる。
「お湯はこちらのヤカンのものをお使い下さい」
ヤカンにはすでにお湯が入っている。問題は抽出温度だ。高すぎず低すぎず、正確を期すためには温度計が欲しいところだが、さすがにそれは置いていないようだ。ここは勘でいくしかない。
おそらく少し冷めているであろうお湯を再び温めるために、電気コンロのスイッチを入れる。
「さぁて、ここからだな」
密閉式のガラス容器に入っている、すでに挽かれているコーヒー豆。そこから計量スプーンで一杯取り出し、ネルに入れる。豆はどうやら中挽きのようだ。若干粒が粗い。
ヤカンから湯気が立ち始めた。お湯が湧いたようだ。ここで少し冷ますのがコツ。熱すぎず、ぬるすぎず、ちょうどいいタイミングを図る。ここが一番の勘所だな。
その間にコーヒーカップを温める。先程のお湯をコーヒーカップに注ぎ、軽く回す。これでカップは温まったはず。そのお湯を捨てて、いよいよコーヒーを淹れる。
「の」の字を描くように、ゆっくりとお湯を注いでいく。確かこの時、マスターは何かをつぶやいていた。あれは一体何なのだろう。あのつぶやきが魔法の呪文ということなのかな?
そんなことを考えながらも、コーヒーの泡立ちを確認しつつゆっくりと、ていねいにお湯を注ぐ。そしてカップ一杯程度のコーヒーが抽出できた。これをコーヒーカップに注いで完成だ。
「おまたせしました。シェリー・ブレンドです」
ちょっと喫茶店のマスター気取りで、私が淹れたシェリー・ブレンドをマスターの前に差し出す。さて、私が淹れたコーヒーはどんな味がするのか?
「ではいただきます」
マスターは私の淹れたコーヒーの香りをかぐ。そこでニコリと笑顔になる。そしていよいよ、コーヒーを口に含む。目をつぶり、味を確認している。
「うん、おいしい。さすが、西脇さんのところに通っているだけありますね。あの人と同じような味がします」
私はまだマスターの表情をうかがっている。その先の言葉が出てくるのか、それを待っているのだ。だが、残念なことにそこから先の言葉がない。つまり、私にはマスターのようにシェリー・ブレンドの魔法は使えなかったということになる。
「やはりダメでしたか。私はマスターのような神の手を持っていないってことか」
「神の手って、そんなおおげさな。でも、どうして私にしかこの魔法の味が出せないんでしょうね」
「そこなんですよ。それで私なりに気づいたところとしては、マスターはお湯を注ぐ時に何かつぶやいていましたよね。そこに違いがあるんじゃないかって思ったんですけど」
「あぁ、あれですね」
「あれって、なんて言っているんですか?あれが魔法の呪文のように思えるのですけど」
「私も意識して言っているわけじゃないんです。ただ、飲んだ人が幸せを感じますようにって、そう願っています」
飲んだ人が幸せになりますように。そんな事、今まで考えたこともなかった。どうしたら美味しいコーヒーになるのだろうか、そのことで頭がいっぱいだった。しかもそれは自己満足であり、相手のことなど考えもしなかった。
そして、それは私の書く文章にも当てはまる。どうしたら面白く書けるだろうか、そのことしか考えておらず、読んだ人がそれで幸せを感じるだろうかなんてことは考えたこともない。
だから私は二流ルポライターでしかなかったのか。
「靖雄さん、どうかしましたか?」
「あ、いや、今のマスターの言葉でちょっと深く考えることがありまして」
あれ、この感覚さっき味わったぞ。そうだ、シェリー・ブレンドを飲んだ時に得られたあの衝撃。それと今の会話で得られたものはまったく同じだ。深い、自分では気づかなかったところでの気付き。これをマスターと会話をしていると得られるんだ。
今、自分なりにこのシェリー・ブレンドの魔法の正体が見えてきた気がした。だが確信はない。それを証明するには、マスターではない第三者がそれを再現できればいいのだが。
「マスターはいつからコーヒーを淹れるときに、飲んだ人の幸せを願うようになったのですか?」
「飲んだ人の幸せを願うようになったのは…うぅん、よく覚えていないなぁ。というか、先生をやっていた頃に趣味でコーヒーを淹れていた頃からそういう感じで淹れていたような気がするんですよね」
「では、この魔法が使えるようになったのはいつだったんですか?」
「そうですね、これは西脇さんのコーヒー豆に出会ってからですね。私も最初は西脇さんのところに何度か足を運んで、その豆でコーヒーを淹れるようになったんです。最初は魔法が使えてはいなかったのですが、ある日妻にコーヒーを淹れたところ、前と味が違うって言い出して」
「へぇ、奥さんが。そのときどんな味だったのですか?」
「確か、私がこの喫茶店をやりたいと妻に相談したときでしたね。その答えがひらめいたって彼女は言っていました。コーヒーを飲んだらワクワク感が湧いてきたって。妻の判断基準は、このワクワク感なんです。ワクワクすることは手を出していく。するとそのことはうまくいくって法則を自分なりに持っていて。だから思い切って先生を辞めてここを始めたんです」
不思議な話だ。けれど、そのおかげで私はこのコーヒーと巡り合う頃ができた。魔法の秘密は、相手の幸せを願う、か。
「人の幸せを願ってコーヒーを淹れる。今までの私にはなかった視点です。これはぜひ私も再チャレンジしてみたいと思います。今日はいい刺激をありがとうございます」
「刺激だなんてとんでもない。でもまだ、これからどんな人生を求めていくのか、これが見つかっていませんよね。ぜひ残りのシェリー・ブレンドでそれを見つけてみませんか?」
マスターに言われて、あらためてコーヒーカップを眺める。カップの半分ほど残っているシェリー・ブレンド。少し冷めてしまっているが、それでも魔法は効くということか。よし、私のこれからの人生、何を求めていくのかを見つけてみよう。その思いを高めて、もう一度コーヒーを口に含む。
最初ほどの味のインパクトはない。が、明らかにさっき飲んだときと味が違う。今度は味が変化することはない。むしろ、落ち着いた感じの味がする。まるでみんなの幸せを願いつつ人生を送る。そんな穏やかな毎日を過ごすという印象が頭に浮かんだ。まるで、今目の前にいるマスターのような、そんな感じだ。
なるほど、喫茶店のマスターなんていうのもいいな。私にもシェリー・ブレンドの魔法が使うことができれば、そんな人生を送るのも悪くはない。
「お味はいかがでしたか?」
マスターの言葉、それは私に一つの決心を抱かせてくれる言葉となった。今感じた味を口にすることで、私は次の新しい道を歩むことになる。なぜだかそう感じてしまった。
「私、あなたのような人になりたいと思いました」
「私のような人?」
「そう、喫茶店のマスターとして、いろんな人の幸せを願いつつコーヒーを淹れる。そんな人生です。まぁそのためには、私もあなたと同じようにシェリー・ブレンドの魔法が使えないといけないのですけどね」
「なるほど、そんな思いが湧いてきたのですね」
ここで沈黙となった。次にしゃべるのは私の番。けれど、なんと言葉を発すればよいのかがわからない。魔法の使い方を教えて欲しいというのが正直なところだが、マスター自身もなぜ魔法が使えるのかがわからないのだから、教えようがないだろう。だから安易に私の思いを賛成することもできないに違いない。
それに、喫茶店のマスターをやるといっても簡単なことではない。今はその日暮らしの身分なので、お店の開業資金を持っているわけでもないし。それに、マスターとしてはライバル店ができるのも困るだろう。
この沈黙の間、そんなことが頭に浮かんできた。
沈黙を破ったのはマスター。
「靖雄さん、もう一度シェリー・ブレンドを淹れてみませんか?」
「えっ、もう一度?」
「はい。ぜひお願いします」
マスターが突然、そんなことを言い出した。なぜもう一度なんだろう?けれど、チャレンジしてみたいと思ったのは確かである。
「では、お言葉に甘えて」
今度は最初から、マスターのこれからの幸せを願いながら、一つひとつの動作をさらに丁寧に行ってみた。そしていよいよドリップを行う。お湯を注ぐ時に、さらに強くマスターの幸せを願ってみる。そして私の淹れたシェリー・ブレンドが完成した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
マスターはさっきと同じように、まずは香りを楽しむ。そしていよいよシェリー・ブレンドを口に含む。果たしてどんな味がするのだろうか?私はジッとマスターを見つめる。
マスターはさっきと違い、目をつぶったまましばらく何か考えこんでいるようだ。すると、最初はただ目をつぶっていただけだったのが、急ににやりと笑った。どういうことだ?
ここで恐る恐るマスターに質問をしてみた。
「味はどうだったでしょうか?」
その言葉でマスターはパッと目を開けて、私の方を見つめ、この言葉を発した。
「これが、これがシェリー・ブレンドの魔法なんですね」
えっ、うそっ!
「ど、どんな味がしたんですか?」
「いやいや、びっくりです。最初に飲んだ時、いつもと違うって感じがしました。さらに味を観察してみると、自分の中のワクワク感が湧いてきたんです。そのワクワク感、今私がやりたいことだってすぐにわかりました。そして面白いのはここからです」
私はマスターの話に惹きつけられていく。一体、次に何が起きたのだろう?
「ワクワク感が今度は光に変わったんです。味が光というのも変ですが、その表現がぴったりなんですよ」
そもそもワクワク感という味も変ではあるが。けれど、なんとなくわかる。味から自分の中の感覚として、そういう表現ができるものが湧いてくるのが、このシェリー・ブレンドの魔法なんだ。
「光、というとどんなことなんですか?」
「はい、私が進むべき道を照らされた、という感じなんです」
「マスターが進むべき道?それはなんなのですか?」
「これはどうしようかな、言うべきかな」
なんなんだ、それって。するとマスター、カウンター席から突然バックヤードに移動。そして持ってきたのはパソコンである。
「私、今こんなことをやっているんです」
マスターが見せてくれたパソコンの画面、これを見て驚いた。まさか、マスターがこの人だったとは。
「そうだったんですか。いやいや、恐れ入りました。それは確かに、この道に進んでも誰も文句は言わないでしょう。いや、それどころかマスターがその道に進んでくれることを望んでいる人の方が多いと思います」
「ははは、そんなに期待されているものですかね。自分ではよくわからないのですが」
「でも、どうしてご自分の正体を隠してその活動をやっていたのですか?」
そうなんだ、この人は絶対に世間にその姿を見せないということで、ある業界では有名な人なんだ。
「このお店が騒がれるのが嫌でしてね。お客様に迷惑もかかるし、それに常連客が私のことを別の目線で見てしまうのが怖くて。だから、このことを知っているのは私の妻と靖雄さん、あなただけなんです」
マスターの裏の顔を知ってしまった以上、なんだか責任を感じてしまった。
「でも、じゃぁどうして私にマスターの正体を明かしてくれたのですか?」
「それは、あなたが初めて私にシェリー・ブレンドの魔法をかけてくれたからです。今まで何人かの方に、シェリー・ブレンドを淹れてもらいましたが。残念ながら…」
今まで、シェリー・ブレンドの魔法を使えたのは目の前のマスターと私だけ、ということになる。ということは、私は神の手を持っているということになるのか?なんだか信じられない。
「そこで私、思ったのですが。靖雄さん…」
ここでマスターは私にあることを耳打ちした。これを聞いて、自分の中では処理しきれないほどの決断を強いられることになるとは。けれど、マスターの提案は私とマスターのこれからの人生を、思った方向に導く手段であることは間違いない。
「いかがですか?」
いかがですか。こんな重要なことを即決してもいいのだろうか。一晩考えたほうがいいかもしれない。もしくは、西脇さんにも相談したほうがいいのかも。頭の中でそんなことを考えていた。
が、私の口は頭とは別物らしい。なぜだか口のほうがこんな返事をしてしまった。
「ぜひやらせてください」
そういった後に、私はとんでもない返事をしたことに気づいた。この言葉、誰が言わせたのだろうか?紛れもなく私自身のはずなのだが。では、今考えている私は誰なんだ?私の中には別の意思が存在するのか?
そんな私のとまどいとは別に、マスターはにこやかに笑っている。それにつられて私も笑顔になる。
「靖雄さん、とてもいい笑顔をされていますよ。私がずっとそこに立って心がけていたこと、それがこの笑顔です。靖雄さんなら間違いなくできます。自信を持って下さい」
マスターにそう言われると、なんだか心の奥から自信が湧いてきた。そうか、私にもできるんだ。私のこれからの新しい人生を切り開くことができた、その瞬間が今訪れた。
「早速うちの妻にこのことを紹介しますね。おい、マイ!」
すると、お店の奥のテーブルでお客さんと会話をしていた、若い髪の長い女性が「はい」と返事をした。あれっ、あの人ってここの店員さんだよね。若くてきれいな人だなって思ったけど。えっ、まさかこの女性がマスターの奥さん!?
そう思いながら様子を眺めていると、マスターはその女性と二言三言会話を交わす。すると、その女性の表情がみるみる変化していく。驚きと喜びの表情になっていくのがわかる。
「すごい、すごい!」
女性の店員さんは小さく拍手をしている。私がマスターから引受けたことって、そんなに喜ばしいことだったのか。
「ぜひ私にもシェリー・ブレンドを淹れてもらってもいいですか?」
「えっ、い、いいんですか?」
マスターはこくりとうなずいてくれる。
「では、お言葉に甘えて…」
私はさっきと同じように、今度は彼女の幸せを願ってコーヒーを淹れてみる。全ての手順はさっきと同じ。けれど、気持ちの上では変化があることに気づいた。マスターの幸せと彼女の幸せ、これは少し印象が違う。それがなんなのか、よくはわからない。けれど、幸せとは一人ひとり感じ方が違うというのが客観的に感じることができた。
「おまたせしました。シェリー・ブレンドです」
このとき、私は完全に喫茶店のマスターになりきっていた。いや、むしろそれが当たり前であるかのような感覚で彼女にコーヒーを差し出すことができていた。
「いただきまーす」
マスターと違い、彼女はすぐにコーヒーに口をつける。こうやって見ると、コーヒーの楽しみ方って人それぞれなんだな。けれど、その後のリアクションはマスターと同じである。目をつぶって味を確かめるようにしている。
彼女の表情を観察する。すると、徐々に笑顔になっていく。口角も次第に上がっていくのがわかる。最後は満面の笑みを浮かべているではないか。
「うん、やっぱりそうだ。この道で行くのが私の願いなんだ」
突然目を開けて、彼女がそう言葉を発した。どういうことなのだろう?
「どんな味がしたのですか?」
私は彼女に恐る恐る聞いてみた。
「前にマスターが淹れてくれたシェリー・ブレンドで感じた味と同じだったんです。私、もっと心理学を勉強してみなさんのお役に立てるような道に進みたい。それを確信しました。でも驚いたなぁ。シェリー・ブレンドの魔法が本当に使えるんだ」
どうやら私の淹れたコーヒーでも、きちんとシェリー・ブレンドの魔法は使えたようだ。
「マスター、これで私もあなたも自分の思い描いた道に進むことができるみたいだね」
彼女が笑顔でそう言う。マスターは笑顔でうなずく。この言葉の意味は、彼女もマスターが私に進言したことを望んでいるということになる。
「このお店は奥さんと二人でやっていたんですよね?」
「はい。でもそれもこれで…」
マスターはそう言うと、お店をぐるりと見回した。そうか、そうだよな。マスターの決断、これは大きな想いがあるはずだ。マスターの神の手で、今までたくさんのお客さんの幸せが生まれたに違いない。私もその中の一人だ。
神の手を持つ者の使命がそこにある。それは人の幸せを願い、成就していくためのもの。そして、私は今日、その神の手を授かることができた。ということは、私にもその使命が生まれたということになる。
「マスター、今まで本当にお疲れさまでした。これからはご自分が進むべき新しい道を、思ったように進んでみて下さい」
「はい、ぜひそうさせていただきます。私が本来進むべき道をあらためて見出すことができたのも、靖雄さん、あなたのおかげです。そして、私が今まで築いてきたものを受け継いでくれる人ができて、本当によかった。この先、よろしくお願いします」
「はい、ありがとうございます。今までマスターが蓄積してきたものをしっかりと受け継ぎ、この店を守っていきます」
そう、私がマスターから耳打ちされたことは、このお店を私が引き継いでいくことである。これからは私がこのカフェ・シェリーのマスターとなって、魔法のコーヒーを淹れるのだ。
神の手、ひょっとしたらこれは人々の幸せを願う者だけが、そしてその幸せを成就させることができる人が手にすることができるのかもしれない。そして今、私にその役目が回ってきた。
責任は重大である。が、私自身の新しい人生がそこで開かれるのは間違いない。
「マスター、これからよろしくお願いします」
マスターから「マスター」なんて呼ばれるのは、ちょっと気恥ずかしい。けれど、今度からそう呼ばれる立場になるのだから。
「はい、がんばっていきます」
「がんばらなくていいんですよ。普通にしていればそれで大丈夫。大事なのは、お客様の幸せを願って、一杯のコーヒーに向かっていくことです。あとはお客様自身が気づき、そして変わっていきますから。それを見守ってあげて下さい」
先輩マスターからのアドバイス。これは胸に刻んでおこう。
あらためてこの店を見回す。小さな喫茶店ではあるが、ここにはみんなの未来が詰まっている。幸せな未来が。その未来をつくっていくお手伝いを、このシェリー・ブレンドと一緒に行っていく。それが私自身の未来につながる。
この先、どんなお客さんと出会っていくのか。それを思うとワクワクしてきて、心の奥から笑顔が湧いてきた。
<神の手 完>