オフィスラブの読み過ぎによる弊害
七月、某日。
僕は、七時三十分に家を出る。一階に住んでいる大家は、ミニチュア・シュナウザーのオソノちゃんを飼っている。
おじいさんみたいな顔をしている犬なのに、名前はオソノでメスだ。実にセンスがない。
今日も部屋の前を通っただけで、オソノちゃんに吠えられる。顔も姿形も認識していないのに、足音だけで森島和巳個人を認識しているオソノは、決して利発そうに見えないのに実は頭がいいのかもしれない。
多分、オソノは僕のことが嫌いなんだろう。ちなみに、僕はオソノのことが好きなので出会ってから、ずっと片思いだ。
八時過ぎに家を出ても会社の始業時刻には間に合うが、夏の強い日差しへのなけなしの抵抗をする為にできるだけ早く家を出ている。
いつもと同じように、駅で降りると徒歩十分の苦行である会社までの道のりを歩く。
自分が勤めている会社は、ごく一般的な印刷会社だった。
企業から依頼される印刷物よりも個人の印刷物が多く、夏と冬のある期間に繁忙期が集中している。
僕は、その会社で社内SEをしていた。
ただ、日中の仕事のほとんどが事務作業で、事務員のついでにSEもやっているという
のが正しい。繁忙期は事務員ですらなく、ひたすらダンボールに印刷物を詰めていることもある。
外観が灰色のおんぼろビルを二階まで上がり、一番に会社の鍵を開けようとしたが、なぜか今日は扉が開いている。
いつもは自分が一番最初に会社に来ていた。昨日最後に帰ったのが誰だか知らないが不用心ではないか。
そう思いながら扉を開けると、手前の机の上で突っ伏している同僚の水谷あかりが居た。
「お、驚かせないでくださいよ。水谷さん、鍵開いているから泥棒でも入ったのかと思いました」
「おはよう。森島くん、毎日早いわねー」
会社の鍵は数人が持っているので、事務員である水谷が先に来ていてもなんらおかしなことはないが、忙しい時期でもない今は、別に早出も残業もする必要はないはずだ。
「水谷さん、なんで今日に限って早いんですか?」
「ま、たまには早起きもいいじゃない」
水谷と自分は、同期で同じ年だが、自分より若々しく、いつも時間がかかりそうな凝った髪型をしている。水谷いわく「お団子をつくって、三つ編みをくるくる巻き上げるだけ」らしいが、男の自分からは、工程が想像出来ないし、だけとは思えない。それはいつも完璧で隙がなく、忙しくなればなるほど、身だしなみがおろそかになる自分からすれば尊敬に値する人だった。
けれど、そんな水谷が今日は、少し様子がおかしい。いつもより元気がない。あとは、ノーメイクに近かった。
もちろん化粧をしていなくても、可愛らしい顔をしているのだが、違和感はあった。
「変だって、思ってるでしょう」
「え、なんのことですか」
「声裏返ってるわよ、化粧の続きはみんなが来る前に洗面所でしようと思ってたのよ。けど森島くん早かったんだもの」
「それは、どうもすみません」
「いーのよ、じゃあ、罰として、ちょっと話聞いてくれる? あたしコーヒー入れてくるから」
「別に、いい、ですけど、聞くだけなら」
「ありがとう」
まだ、他の社員がくるまでに時間があった。社内には二人きり。
始業時間前だから話を聞くくらい問題ない。
これは、決して、会社に届く印刷物の半分が恋愛もので、日々それに目を通している悪影響なんかではないと思いたかった。