銀のスプーン再び
そのとき、板野さんとのチャットアプリが、呼び出しの鐘を鳴らした。
スマホの画面を確かめる。
「お土産、何がいいですか?」
こういうメッセージが来るということは、修学旅行の準備が整ったのだろう。
このモールで買うものもあったはずだ。
……手伝えばよかったかな。
そう思いはするが、今日はフルタイムでシフトが入っている。
だいたい、そこまでやってしまったらもう、カレカノの関係じゃないかという気もした。
板野さんのためにできることといえば、せいぜい、このくらいだ。
……買い物は終わったかな。
気になって時計を見ると、もう午後2時だった。
無理もない。
考えてみれば、今日は客の多い日だったのだ。
板野さん。
フィービーの1000人会議。
プリンスとの外出。
佐藤の挑戦。
その間に、フォーコンプレのポスターも貼った。
そう思うと、急に腹が鳴りだした。
「すみません、昼メシまだなんで!」
給湯室でサボってるっぽい店長に声をかけて、エプロンを預けていく。
ああ、という返事も待たずにフードコートへと駆け出した。
食事の分は勤務時間に含まれていないが、外出の分、たぶん時給は減る。
……プリンスめ!
やっぱり、金持ちには庶民の苦労など分からない。
財布の中には、今日の昼食代ギリギリの金しか入っていないのだ。
紫衣里と会った日のように。
日曜日の昼下がりだから、客はまだまだ多い。
今朝聞いた、HILDEの新曲はまだ流れている。
Shine over me
もっと輝きたいから この声が届く場所まで来て
フードコートは、僕のように遅い昼食を取る客と、おやつを食べようとする客でごったがえしていた。
僕は何となく、空いている席に座って気づいた。
……この辺だった。
紫衣里に初めて会った日、〈リタレスティック・バウト〉で挑戦されたのだった。
女の子だと思って甘く見ていたのが、最大の敗因だった。
紫衣里の操る「ジャンヌ・ダルク」に、僕の「宮本武蔵」は惨敗した。
本気を出して「シラノ・ド・ベルジュラック」を使えば、「魔女ジョアン」に翻弄された。
その結果、僕はなけなしの昼食代をはたいて、紫衣里にパフェをおごることになったのだった。
……だからって、何で昼メシに。
ファーストフードのパフェを頼んでしまった自分を、我ながら未練がましいとも思う。
紫衣里が黙々と口に運んでいたパフェは、負けの代償だった。
生活を切り詰めに切り詰めて、ぎりぎりの計算でひねり出したあの日の昼食代は、これで消えたのだった。
……あのときと、変わらない。
違うのは、パフェを食べるのが紫衣里ではなくて、僕だということだ。
フードコートを行き来する人にぶつかりそうになりながら、僕は順番待ちの番号札を握りしめて、席へと向かう。
思い出すのは、エキシビジョンマッチの後、軌道エレベーター基盤部の上で聞いた、鬼の目をした老人の言葉だった。
……「必ずやってくる、とだけお知らせしておきましょう」。
夏休みが明けた後は、いつ会えるかと心待ちにしていた。
だが、高校3年の秋は忙しい。
9月に入れば、もう受験の準備が待っている。
e-スポーツのプロになるための専門学校進学を、親はまだ認めていない。
自分で願書を揃えて、生活を切り詰めて、バイトのシフトも増やして受験した。
もちろん、単位も落とせない。
死に物狂いで勉強した。
そのおかげで進路は確定したが、あの夏のひとときのことは記憶から消えていった。
紫衣里のことは忘れるわけがなかったが、僕たちの間に遭ったことは、まるで夢か幻のように思えてならなかった。
テーマパークでのワールドタイトルマッチ。
伊勢湾上の、軌道エレベーターでの決戦。
イベントだけではない。
大型スーパーでの買い物。
極貧生活。
昇り竜に似た松の枝のある古寺でのひととき。
フードコートでの、佐藤との対決。
そして。
……嵐の夜の抱擁。
雨に打たれて冷え切った身体を、僕と紫衣里は素肌を重ねて温めあったのだった。
あの日々は、たぶん、どこまでも続く日常の中で、薄れ、かすれて、記憶の中に消えてしまうのだろう。
混んでいるにも関わらず、何も置かずに空けたさっきの席は、まだふさがっていなかった。
ツイてると思いながら腰を下ろしたところで、その理由が分かった。
向かいの席に、先客がいたのだ。
白のフード付きロングパーカーを羽織った、ポニーテールの女の子だ。
満面の笑顔で、僕に向かって身を乗り出してくる。
「久しぶり」
黒縁の眼鏡の奥には、澄み渡った瞳がある
かなり可愛い女の子だが、心当たりがなかった。
もともと、僕には女の子の知り合いが少ない。
クラスの女子の顔もよく覚えていないくらいだ。
だが、目の前の女の子は、いくら何でも忘れないだろうといえるくらいの美少女だった。
「ええと、どちら様?」
目の前に迫る整った顔立ちにアクセントをつけているのは、もちろん、太い黒縁の眼鏡だ。
その顔をまじまじと見ているうちに、ようやく、眼鏡にレンズが入っていないことに気づいた。
いわゆる、伊達眼鏡だ。
……これ、取ったら分かるかもしれない。
だが、伊達眼鏡の美少女は、ムッとした顔で立ち上がった。
黒のショートパンツからは、すらりとした白い足が伸びている。
紺のニーソックスに、白のスニーカーが映えていた。
不満げに腕組みをして、僕をじっと見降ろしている。
やがて、ベージュの小さなショルダーバッグをテーブルに置いた。
前のめりになったところで、パーカーの前がはだける。
思わず全身で目をそらしたのは、白い薄手のリブニットで抑えようとしても分かるボディラインだったからだ。
そこで一瞬、考えてはいけないことを考えてしまったのは、僕も男だからだろう。
あの嵐の夜、僕の背中に押し付けられた、あの感触を思い出してしまったのだ。
……まさか?
やましいことがあるので、顔を背けたまま、おそるおそる横目で見上げてみる。
豊かな胸元には、あの銀のスプーンが光っている。
女の子は、勝ち誇ったような顔でにやりと笑った。
ポニーテールをほどいて、眼鏡を上げる。
その素顔を見て、僕は思わず、身体を起こして声を荒らげた。
「どこに行ってたんだよ!」
テーブルの脇を通り過ぎた客が、驚いて振り向いた。
すみません、何でもないですと首をすくめる僕の前に、紫衣里はショートパンツの腰を下ろした。
「いろんなとこ」
平然と答えるとテーブルに中肘をついて、組んだ指の上に顎を乗せる。
最後に目にした白のワンピース姿とは真逆の奔放な姿に、思わず目を奪われる。
……こんな感じだったっけ?
今までとは別の可愛らしさに、声が詰まる。
だが、無理矢理に押し出さないわけにはいかなかった。
「あんなに姿晒して!」
この1ヶ月半、どれだけ心配したか。
一緒にいた記憶が現か幻か分からなくなっていったとしても、いや、それだけに不安だった。
紫衣里の存在そのものがなくなって、いや、なかったことになってしまうのではないかとさえ思われたのだ。
佐藤がアルファレイドを内部告発で脅して、修学旅行のための奨学金を退職金代わりにせしめたのが先月末のことだ。
それまでに見つかってしまったら、スプーンを奪うためにどんな目に遭わされるか分からなかっただろう。
だが、紫衣里は気にもしない。
それが奇妙に微笑ましく、また腹立たしくもあった。
……ちょっとは気遣ってくれよ、僕の気持ちも!
考えてみれば、よほどのことはない限り、なかった気がする。
どっと力が抜けて、次に何を言っていいのか分からなくなった。
だが、気まずい間ができることはなかった。
フードコートに、アナウンスが入ったのだ。
「8番札をお持ちのお客様……」
神のお告げとばかりに、間を持たせようと掌を開けてみると、しっかり「8」の字が刻印されたプラスチックの札がある。
「あ、ああ、パフェ、取ってくるよ」
紫衣里の顔つきが、ぱっと明るくなった。
いそいそと席を立って、人混みの中へと潜り込む。
振り向くと、手を振る紫衣里の姿が行き交う客の影に隠れて見えなくなった。
ファーストフード店の窓口でパフェを受け取ったところで、ふと、不安になった。
……これ、本当に紫衣里が食べるのか?
そのつもりで、僕自身が口に運ぶのではないかという気がした。
恐ろしい記憶がよみがえったからだ。
それは、あの鬼の目をした老人が海風の中、沈む夕陽の中で黒い影となって告げた言葉だった。
……「いずれ、忘れられても仕方がありますまい」。




