女王の帰還
蛍光灯をLEDに代えた後、給湯室の流し台に落ちた天井の埃をあの臭い布巾で拭いていたら、店長が店との間にかかる暖簾から顔をのぞかせた。
「あ、悪いけど長谷尾君、クレーンゲームの景品、アームに引っかかっちゃったみたいでさ……」
〈リタレスティック・バウト・ザ・ビヨンド〉のエキシビジョンマッチが終わって、この「フェニックスゲート」もいくばくかの恩恵は受けた。
配信された対戦を見たファンは次から次へとゲームに挑戦する。
さらに、ゲーマーは休憩時間の僕に挑んでくるので、シフトが入っているときのほうが気楽なくらいだった。
雑巾を持って給湯室を出ると、出入り口の自動ドア脇のガラス壁に、裏側からデカデカと、こう書いてある。
〈リタレスティック・バウト〉
〈ワールドタイトルマッチ エキシビジョンマッチ>
勝者 店内プレイヤーから出ました
見ないようにして、その手前にあるクレーンゲームに歩み寄った。
小さな男の子が、その傍らの父親と、筐体の中を眺めている。
僕に向かって、口を尖らせたまま、透明パネルの中のアームを指さした。
膝を屈めて、その子の目を見つめる。
「ごめんね、調子いいところで」
筐体の横にある管理パネルで、 アームの動作を一時停止する。
雑巾で拭いた透明パネルを開けて取ってやると、男の子は言った。
「もっかいやる」
僕は頷く。
「そうこなくちゃ」
景品を、次の1回か2回で取れるくらいの場所に置いてやった。
暗黙のサービスってやつだ。
コインの代わりのサービスクレジットを入れて、再開してやる。
深く頭を下げて、事情を説明する。
「お楽しみのところ、申し訳ありませんでした。お子さんの腕なら、間違いなく取れます。ごゆっくりお楽しみください」
父親に促されて、男の子も頭を下げてから言った。
「ありがとう、自分でちゃんと取るよ」
親指を立ててやりながら、次の作業に移る。
繁盛するようになると、モノの傷みも早い。
客が興奮してガタガタやるせいか、椅子がきしむようになっていた
くるくる回してみて、油を挿したりする。
ふと、それが、紫衣里が座っていた椅子だと気づいた。
座ってスティックを弾いてみると、デモ画面ではジャンヌ・ダルクが必殺技を放っていた。
「オルレアンの復活!」
処刑台の炎に包まれたかのようなジャンヌが、白い光の中で彼女が蘇るように立ち上がる。
『西遊記』の牛魔王から受けたダメージが、そのまま跳ね返された。
「殉教者の光!」
ジャンヌの背後に燃える十字架の幻影が立ち上がり、祈りの言葉とともに円形の聖炎が地面から噴き上がる。
火焔山の禍々しい炎が吹き払われ、牛魔王の巨体が白い光の柱に変わる。
「フランスの花!」
ジャンヌが旗を掲げると、空に浮かんだ百合の紋章から光の槍が降り注ぐ。
最後に巨大な1本が、牛魔王の巨体を貫いた。
「あ……」
食い入るように見ていた画面に、水滴が落ちた。
慌てて拭いたが、きりがない。
涙だと気づくのに、少し時間がかかった。
慌てて席を立つと、間の悪いことに店長が話しかけてくる。
「ああ、そういえば入試は?」
背中を向けて、手の甲で目の辺りをごしごしやる、
鼻が詰まるのごまかそうとして、口で息をしながら答えた。
「先週終わりました」
フガフガいいながらの返事を、店長は訝しむ様子もない。
受かって当然という、軽い口調で尋ねてくる。
「どうだった?」
看護ならともかく、昨今は専門学校の推薦入試で滑る人はそうそういない。
答えるのも面倒だったが、愛想笑いをしながら振り向いた。
「まあ、文化芸術系ですから」
もう、そんな季節だったのだ。
夏休みにあったことを思い出しても、それが自分のものかという気がする。
……紫衣里との出会い。
……このゲームセンターでの完敗。
……共に凌いだ極貧生活。
……〈リタレスティック・バウト・ワールドタイトルマッチ〉。
……紫衣里を探し回った、嵐の中。
……軌道エレベーターでの決戦。
何もかも、遠い昔に見た映画のようだった。
ぼんやりしていると、身を乗り出した店長の顔が目の前にある。
「何もタイトル返上しなくても」
元の生活に戻っただけなので、気にもしていなかった。
エキシビジョンマッチで勝てば、プロ契約……アルファレイドの公式アンバサダーになれるはずだった。
ワールドタイトルマッチで優勝しただけでも、専門学校の学費を肩代わりしてもらえる。
その特典を、僕は残らず返上したのだ。
店長は、自分のことのように深いため息をついた。
「後できっと思うよ、もらっとけばよかったって」
……夏目漱石『坊ちゃん』の、下宿のおかみさんじゃあるまいし。
ひとりでアパートに帰ったあの日のことだけは忘れられない。
月明かりの下、隣を歩いているはずの、白いワンピースの少女はいなかった。
ひと月の間、ふたりで暮らしたあの部屋にひとりで座り込んで、佐藤に電話した。
軌道エレベーターの基盤部から名古屋港へ戻る艀の上では、逃げ場がないので言わなかったことだ。
さすがに困ってはいたが、返事はあっさりしたものだった。
……では、あとのことはお任せになって、明日からの学校生活に勤しんでください。
あの慇懃無礼さを思い出すと、口調もつい、似てしまう。
「やっぱり、僕の人生ですから。自力でやらないと、肝心なところで他人に振り回されます」
月並みな答えだったが、得られた人生訓は、せいぜいこのくらいだった。
……自分の力で、プロゲーマーを目指す。
両親とも話をつけた。
オフクロは先々を考えろと機関銃のような勢いでまくしたてたが、僕は黙って聞くだけに徹した。
ここが正念場だと思ったのか、喜怒哀楽すべての感情表現を駆使して説得にかかる。
それを途中で止めたのは、親父だった。
ぼそりとつぶやく。
……選んだことには、責任を持て。
そんなわけで、あの12万円は入学金に使って、あとは仕送り一切なしの予定だ。
紫衣里との同居に輪をかけた極貧生活が待っている。
「もったいないよ、長谷尾君」
店長はしきりに繰り返すが、そうでもないと思う。
因みに金3000万円は時点優勝のプリンスに渡り、修学旅行援助はアルファレイドが引き受ける。
あとは、こっちが大げさに驚いてみせるだけだ。
「危なかったんですよ、公式アンバサダーなんて引き受けたら」
本当は、自信がある
ただ、アルファレイドと関わりたくないだけだ。
……紫衣里のこと、思い出してしまうから。
話題を切り替えようとして、僕はポスターの貼り換えにかかる。
まずは、こいつからだ。
「梅仁丹から火星旅行まで」
店長が、床を吐きながらぼやいた。
「できるのかね、本当に……軌道エレベーターだってあんなんだし」
アルファレイドのキャッチコピーが変わった理由を、僕だけが知っている。
店の自動ドアが開いたときの、軽やかな電子音が鳴り響いた。
それが止まないうちに、明るい声が呼びかける。
「こんにちは……長谷尾さん」
ポスターを貼り換える手を止めて振り向く。
胸の前で手を振っている、小柄な女の子がいた。
板野さんだった。
少し照明を落とした店内に、白のスニーカーが映える。
白のブラウスと、フレンチスリーブからのぞく腕の素肌が眩しい。
淡いデニムのロングスカートを揺らして、小走りに駆け寄ってきた。
僕はポスターの裏側てっぺんから剥離紙をめくって、壁に固定する。
先に板野さんへ声をかけたのは、店長だった。
「買い物?」
僕はポスターを裏返して、左右の剥離紙をめくり取る。
それを、手元に差し出された掌に乗せた。
ふた月ほど前も、こんなことをしていた気がする。
……あれ?
ええ、と店長に答える声がした。
剥離紙を掴んだ手が引っ込められる先を目で追う。
小さめのショルダーバッグを肩にかけ直す板野さんが、照れくさそうに微笑んだ。
「いろいろ心配してもらったので、ご挨拶にと」
目は僕に向けられているのに、話す相手は店長だというのがややこしい。
それに気づかない声は、上機嫌だった。
「いつから?」
ポスターをゆっくり、まっすぐ貼っていく。
左右の剥離紙のいちばん下まで来る直前に、裏側のを横一文字にはぐる。
それを、ひょいと差し出される手に乗せた。
お礼を言おうと思って向き直ると、板野さんは笑顔のまま、首をちょいと傾けてみせた。
カウンター脇のゴミ箱まで歩いて行って捨てながら、店長に返事をする。
「明日からなんです」
店長が何か言う前に、僕はその間を盗んで、ようやく板野さんに駆け寄ることができた。
「もうアルバイトじゃないのに」
9月に入ってすぐ、板野さんは退院の報告を最後に、アルバイトをやめた。
それでも、日曜日には必ずやってくるようになっていた。
もちろん、板野さんの修学旅行費は無事、アルファレイドの奨学金で確保されている。
だが、頷く顔には、ちょっと複雑な表情が浮かんでいた。
「アルファレイドの、奨学金で」
あの過酷なステージの報酬のつもりかと思うと、忘れかかっていた試合の記憶が怒りで蘇ってくる。
……板野さんを晒しものにしやがって。
板野さんがエキシビジョンマッチのことを口にしたことはないが、これはこれで腹立たしい話だった。
「大丈夫だった? あれから」
レッスンでも試合でも、疑似スプーンにあれだけ振り回されて平気でいられるほど、板野さんは頑丈には見えない。
僕の問いには答えずに、板野さんは頭を下げた。
「あの……すみませんでした」
「え?」
僕がまごついたのは、話の脈絡が見えなかったからばかりではない。
ハーフアップの髪のかわいらしさに見とれていたのだ。
……こんなんだったっけ? バイトしてたときも。
そんな邪念など知る由もない板野さんは、まっすぐに見上げてくる。
「あんなこと言って、心配してくれたのに」
いろんなことを話した覚えはあるが、それだけに、いちいち覚えていない。
とくに、エキシビジョンマッチのときはクリームヒルトが強すぎた。
板野さんの技を読むのに神経をすり減らして、インカム越しに話したことは全て消え失せていた。
熱い戦いもまた、記憶という脳の番人を雲散霧消させるものらしい。
「ああ、僕も余計なこと言っちゃって」
とりあえず、話だけは合わせておく。
板野さんも、次の言葉が出てこないようだった。
目を伏せて、何だかもじもじしていたが、ようやく口を開いた。
「結局、何とかなっちゃって」
そこで、ふと気になったことがある。
アルファレイドが修学旅行向け奨学金の創設を発表したのは、9月も末になってからだった。
だが、ワールドタイトルマッチに出るときは確か、こんな話になっていたはずだ。
「優勝したら、板野さんの修学旅行費用もアルファレイド傘下の旅行会社が持つ」
タイトルとプロ契約を蹴ったとき、いちばん心配したのは、それが反故になるのではないかということだった。
優勝したら専門学校の授業料を出すという条件の他に、僕がゴリ押ししたものだからだ。
これを出さないというカードを佐藤が切ってきたらどうしよう、と真剣に悩んだものだった。
だが、よく考えると、修学旅行費が間に合ったと店長から聞いたのは、エキシビジョンマッチの前だ。
……計算が合わない。
とりあえず、まずはめでたしめでたしというところで収めることにした。
考えても仕方がないことだと思って、話題を変えた。
「準備はいいの?」
もちろん、社交辞令だ。
出発を明日に控えて忙しいだろうが、好きなだけ、ここにいてほしい。
そんな気持ちが伝わったのか、板野さんは嬉しそうに笑ってみせた。
「心配してくれたんだから、報告は当然です」
「いや、気にしなくていいよ」
これ以上、この話題を引っ張ったら、ボロが出そうだった。
自分で言ったことを覚えていないのがバレて、また泣かれてはかなわない。
だが、そこで板野さんは、声をひそめた。
「だって……実はあの後、私、本当に病院にいたんです」
考えてみれば、当然のことだった。
ゲーマー系アイドルなどという、取ってつけたようなコンセプトのコスプレ姿だけではない。
歌って踊れるだけでなく、僕と互角に戦えるだけのテクニックを1週間かけて仕込まれたのだ。
それも、あの疑似スプーンに振り回された結果なのだから、過労で倒れないほうがおかしい。
紫衣里を探し回っている場合ではなかったのだ。
「ごめん……」
申し訳ない気持ちが、つい、口を突いて出た。
板野さんはきょとんとした顔で、僕を見つめている。
やがて、慌てて首を横に振った。
「いいんです、いいんです、いいんです」
それでも僕は、頭を下げた。
悔しさと恥ずかしさが熱い塊になって、頬に溜まる。
板野さんは、僕の顔よりも低く屈んで、事情を説明した。
「目が覚めたらベッドの上で、どこだろってきょろきょろしたら、お医者さんや看護師さんが行ったり来たりしてて……凄かったんですよ。あ、みんなあのマークつけてて」
首を捻って、指さす方を眺める。
レーシングゲームの筐体には、「α」のロゴがデカデカと書いてある。
アルファレイドのイベントなんだから、系列の病院に担ぎ込まれるのは当然の流れだろう。
僕が顔を上げたのをいいことに、板野さんは急に背筋を伸ばした。
「で、あのメガネかけた人がこ~んなふうに突っ立ってて」
このたびは誠に申し訳ありませんでした、と慇懃無礼な口調をそのまま真似て、直角に腰を折る。
……佐藤か!
板野さんを巻き込んでおいて、よく言う。
だが、よく考えたら、なぜ板野さんに白羽の矢を立てたのだろうか。
腕のいいゲーマーなら、いくらでもいる。
疑似スプーンを使ったとしても、あそこまで追い込まなくて済んだはずだ。
……僕にぶつけるため?
板野さんと僕の関係を知らなかったとは言い切れない。
ふたりで給湯室に入るところを、佐藤は見ている。
確か、〈リタレスティック・バウト・ワールドタイトルマッチ〉出場を持ちかけてきた日のことだ。
あれが原因だったとしたら。
もう、隠すこともなかった。
「ごめん、あんな奴と関わっちゃって!」
再び頭を下げると、板野さんは余計に慌てた。
「私もいけなかったんです、急に家に尋ねてきて、母の前でなんかいろいろ話してて、なんかアタシをお嫁さんにくださいって言うくらいの勢いで……あ、そんなこと言われてませんよ、そんな感じで気が付いたら、あんなことになっちゃってて」
怒りで拳が震えてきた。
……あのスケコマシ、じゃない、人たらし、じゃなくて。
余計なことに注意がそれたら、がくんと肩の力が抜けた。
それをどう誤解したのか、板野さんはおずおずと、その後の事情を語る。
「……その日のうちに退院できました」
ようやく身体を起こしはしたが、申し訳なくて、まともに顔が見られない。
板野さんは、すっかり困り果てた様子で、話を迷走させる。
「思い切って、もう無理ですってあのメガネの人に言ったらいろんな書類出てきて、帰るの夜中になっちゃいましたけど。で、次の日学校行ったら、なんか凄いことになってて……」
そこで急に、下げた僕の頭を両手でつかんで押し上げた。
満面の笑顔で、力を込めて告げる。
「格好良かったです、長谷尾さん」
その顔にしばし見とれていたのに気付いて、僕は目だけ横にそらした。
「あの……人が見てるから」
実際、ひそひそ噂しあう声や、冷やかしの口笛が聞こえなくもない。
板野さんは慌てて飛びのくと、僕に向けた背中でわざとらしく手を組んで、あさってのほうを向いた。
その様子を見ていたのか見ていなかったのか、店長がそそくさと駆け寄ってきた。
「あ、大丈夫? ほら……最近」
僕たちを見ていた客はそれぞれ、再びゲームを始めたり自販機に向かったりしたが、まだ、ちらちらとこっちをうかがっている者がいる。
そういえば、板野さんは「長靴を履いた猫」で僕と対戦して以来、隠れファンがいるらしい。
しかも、最近、とみに増えた感がある。
その原因は、はっきりしていた。
板野さんは、何でもないという顔で答える。
「ああ、人違いですから、って」
僕が板野さんを救えたのは、フィービーたちがエキシビジョンマッチをLIVE配信してくれたおかげだ。
全世界が注目する中では、アルファレイドも狡猾な真似はできなかっただろう。
それに、プリンスに買い取られて軌道エレベーターを諦めはしたが、転んでもただでは起きなかった。
言わずと知れた、HILDEのブレイクだ。
もちろん、板野さんではない。
それでも、似ているというだけで注目を浴びるのは仕方がない。
店長は、大真面目な顔で僕に言った。
「頼むよ、変なのが星美ちゃんに声かけないように」
実際、学校では大変らしい。
夏休みが終わると同時に、板野さんを見る周りの目はすっかり変わった。
なにしろ、HILDEの地下……海面下コンサートの動画は一晩で世界中を駆け巡ったのだ。
告白してくる男子は引きも切らず、先週で6人目を撃沈したらしい。
何で僕が知っているかというと、週末ごとに、困った顔で報告されるからだ。
店長は、自分ではやらないことを僕に押し付けて、給湯室に去っていく。
その後ろ姿を見届けて、板野さんは再び囁いた。
「店長……知りませんよね」
何の話かは察しが付く。
僕も囁き返した。
「全然」
話したって信じるわけがない。
板野さんが実はHILDEだったなんて。
ましてや、世界中にその名が知れ渡った日のうちに普通の女の子になったなんてことは。
あの日、シラノとクリームヒルトで戦ったときのように、僕たちは共有する秘密を囁きあった。
板野さんは、照れくさそうに目をそらす。
「あたしも……第3ラウンドの途中までしか覚えてなくて」
たぶん、あの疑似スプーンが発動する前だ。
それまでは、インカムで無駄口を叩きあいながら、お互いの必殺技を読んだり、外したりする駆け引きが続いていた。
……いい時間だったな。
苦しい息の中で、僕たちはひとつの世界を共有していた。
それだけに、あの鼓膜を引っ搔くような金属音の中で聞こえた板野さんの悲鳴もまた、忘れられない。
思い出せば、きっとつらい思いをするはずだ。
だから、ちょっと顔をしかめて精一杯、面倒臭そうに答えてみせる。
「いいんだよ、楽しいことだけで」
板野さんは、ちょっと考えて、おずおずと答えた。
「そういえば……中学のとき、ちょっといろいろあって」
「ああ、その話は」
聞きたくない。
修学旅行のときに遭った、いじめの話だ。
「その子たちが、また、いい気になるなとか言って」
板野さんがモテ始めて、やっかんだのだろう。
怒りで握りしめた、僕の拳が震える。
それを抑えて、聞いてみた。
「よかったら、僕が……」
腕力にも威圧感にも自信はないが、僕が守らなくちゃいけない気がする。
だが、板野さんは首を横に振った。
「ああ、解決しました。クラスの、空手部の男の子が割って入ってくれて」
「……そう、よかったね」
心配しなくてよくなったのに、胸が痛むのはなぜだろうか。
聞いてはいけないと思いながら、聞かずにはいられなかった。
「その人って、どういう……」
みなまで言わないうちに、板野さんは、さらっと答えた。
「今日、映画付き合ってくれって言われたんですけど、断ってこっち来ました」
……7人目かよ。
そこで、板野さんはちょっと考えてから、思い切ったように尋ねてきた。
「なんか、とんでもないこと言いませんでした? あのとき」
そう言われても、いつのことだか分からない。
思い出せるのは、勝負師としての、あの低い声だ。
あれは板野さんの暗黒面なのか、それとも疑似スプーンのせいだったのか。
どっちにせよ、怖かったのは間違いないので、とりあえずはごまかしておく。
「別に……」
それでも板野さんは、真剣に考えはじめた。
目を固く閉じて、唇を引き結んで、眉間を人差し指でこする。
「確か、何か、言ってほしいって……」
そういえば、そんなことを言っていた気がする。
だが、思い出せることはない。
あるとしても、たいしたことではなかった。
「息が聞こえただけだよ……すっ、て」
たちまち、板野さんの顔が真っ赤になった。
慌てて腕時計を眺めて、ぱたぱたと自動ドアへ向かって駆け出す。
「すみません、こんな時間になっちゃって」
その背中に、僕は声をかけて送り出す。
「いい思い出、たくさん作ってね」
よほど急いでいたのか、返事はなかった。
ようやくのことで板野さんが振り向いたのは、フェニックスゲートから出る前だった。
HILDEの歌声と人々の話し声が、どっと流れ込んでくる。
モールから差し込む光で、板野さんの笑顔は眩しく輝いた。
「お土産買ってきますね!」




