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オルフェウスの神話

 その後ろから、騒ぎたてるフィービーの声が聞こえてきた。

 どうやら、警備員ともめているらしい。


 ……置いてきてよかったのか?


 軌道エレベーターの深奥部に向かうと思しき階段の途中で、僕はふと足を止める。

 気になって、振り向いてみた。

 暗闇の向こうに眩しく浮かぶ入口には、佐藤の影がくっきりと浮かんでいる。

 その、穏やかさとは裏腹の皮肉を込めた声だけが、地下……というか水面下へと向かう空間に響き渡った。

「ギリシャ神話のオルフェウスじゃないんですから」

 オルフェウスは神と人との間に生まれた詩人で、その歌と竪琴は、天地自然の万物を魅了したという。

 毒蛇に噛まれて死んだ妻エウリデュケを取り返すために、冥府へ赴いた話は有名だ。

「方向が逆ですよ。それに……」

 そこで僕は、神話の続きを思い出した。

 オルフェウスの歌は冥王ハーデスの妻ペルセフォネの心を動かしたという。

 だが、ハーデスはエウリデュケを連れ帰るのに条件を付けた。

「後ろに付き従う妻を振り返ってはならない」……。

 地上の光を目前にしたにもかかわらず、オルフェウスは、つい不安に駆られて振り返ってしまったのだった。

 そこまで思い出したとき、僕の胸も疼いた。


 ……まさか。


 傍らに目を遣る。

 紫衣里が見つめ返してくるのが、上から差してくる夏の太陽の光に照らし出されていた。

 佐藤は何やらため息をついて、ぼつりとつぶやいた。

「あなたのエウリデュケは、そこにいる」

 それが、いつになく低かった。

 足音も、少し遅れて聞こえる。

 だが、どちらもかえって、僕の背中を押した。

 紫衣里の手をしっかりと握る。

 握り返す手が、温かい。

 改めて、足元の暗闇を見据える。


……離すものか。絶対に。


 並んで階段を下りていく僕は、オルフェウスが失ったものを取り返そうとしているような気がしていた。

 佐藤はついてこない。

「ああ、そこから動かないでください」

 階段を上っていく影が、小さくなっていく。

 やがて、あの罵詈雑言の応酬が微かに聞こえてきた。

 フィービーともめているのだ。

 その様子は、たぶん、スマホで配信されていることだろう。

 興味津々の紫衣里とふたりで、確かめてみた。

 映っているのは、白い半袖カッターシャツに制帽をきっちり被った警備員の姿だ。

 フィービーが食ってかかっている。

「Hey! Seriously—don’t block me!」

(ちょっと! 邪魔しないでよ!)

 そこへ、佐藤が張り出しへと上がってくる。

 爽やかな営業スマイルで、穏やかに、しかし、きっぱりと告げた。

「Young lady, please refrain from unlawfully entering the facility.」

(不法侵入はやめてください)

 何か指図された警備員は、胸のピンマイクへと顔を傾けた。


 ……あ!


 地上……いや、海上からの光が、次第に小さく閉ざされていく。

 階段への入り口が塞がれたのだ。

 僕たちは、狭く、細くなっていく光の道を呆然と見つめているしかなかった。

 そこで耳をつんざく音に我に返って、スマホに目を遣る。

 フィービーが声を荒らげていた。

「I told you—I have a temporary press‑access permit from the actual authority……」

(管理権限者から『報道目的の一時接近許可』も……)

 仏頂面した佐藤は、あの慇懃無礼な物言いで反論する。

「That permit doesn’t say you can enter. So please enjoy your view……from outside.」

(入っていいとは言ってませんよね。どうぞごゆっくりご覧ください……外から)

 強い海風にも屈することなく、フィービーとフォロワーのブーイングとシュプレヒコールが波の音を裂いて響き渡った。

「Booooooo!!」

 海風に乗って、長く低いブーイングが響く。

 どこかで誰かが叫ぶと、すぐに合唱になった。

「Shame! Shame!」

(恥を知れ!)

 更にヤジが飛ぶ。

「What are you hiding?」

(何隠してんだよ!)

「Open the gate! Open the gate!」

(ゲートを開けろ!)

 そこでフィービーも叫んだ。

「This is public interest!」

(これは公益よ!)

 それでも光はこちらに差してこない。

 彼らの正義を背負ったシュプレヒコールは、熱狂へと変わっていく。

「Let her in! Let her in!」

(入れろ! 入れろ!)

「No more cover‑ups!」

(隠蔽するな!)

 渦巻く風のような怒号は、もはや、フィービーだけではどうにもならない気がした。


 ……何か、まずくないか? これ。


 そう直感したところで、フィービーがスマホで自分の顔を映す。

「We have the right to know!」

(知る権利をよこせ!)

 フォロワーたちへの呼びかけだ。

 世界的インフルエンサーだったと思い出したとき、その影響がちらりと頭をよぎった。

 炎上、ってやつだ。

 しかも、地球レベルの。

 たちまち、コメント欄がパンクした。

「Stop blocking the press!」

(報道を妨害するな!)


 何だか、たいへんなことになってきた。

 そこで、スマホの中から聞こえてきた爆音に、僕はその場にいるかのようにうろたえた。

 

 ……何だ?


 フィービーも慌てているのか、画面が揺れながらあちこちに飛ぶ。

 何の音だか、確かめようとしているのだろう。

 やがて、画面が真っ青な空を映し出す。

 ローター音を轟かせながら、ヘリコプターがいくつも飛び交っていた。

 拡大されたところで、その腹に映るJAとSから始まる番号が見えた。

 JAから始まるのは警察、Sから始まるのは海上保安庁だ。

 フィービーのフォロワーたちが騒ぎ立てる中、スマホの中から佐藤のぼやき声が漏れた。

「……やれやれ、やっとか」

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