女神フィービー再び
巨大なクルーザーが大きな波を立てながら寄せてきたので、艀は大きく揺れた。
佐藤がコロッセオの張り出しへとかけた、幅の狭い板が海へと落ちる。
それが流れていくのを、割り込んできた別の艀が拾い上げる。
艀がクルーザーに寄せたところで、その上に乗り込んできた者があった。
どうやら、女性らしい。
熱い海風に長いブロンドの髪がなびいている様子は、ボッチチェリが描いた『ヴィーナスの誕生』を見ているようだった。
裸ではないので胸も前も隠す必要はないが、艀が近づいてくると、ポルノ雑誌の見開きくらいのインパクトがあった。
白いクロップトップのマリン風ブラウス。
生地は薄く、海風を受けてふわりと膨らむ。
肩が大きく開いたオフショルダーの胸元は控えめに結ぶだけのデザインで、風が吹くたびに形が変わる。
ハイウエストの、白のショートパンツと、そこから覗く脚線は夏の終わりの太陽を反射して、いろんな意味で眩しい。
腰に巻いた薄いシフォンのパレオは透明感のある水色で、海風に煽られると大きく舞い上がる。
それは、「ヴィーナスの誕生」で女神が乗っている貝殻のようだった。
大ぶりのゴールドのフープピアスが、形の整った耳元で輝いている。
手首にはビーズのブレスレットをはめているが、持っているものは女神にふさわしくない。
片手にスマホ。
もう片手の、過激な環境保護団体もかくやと思わせるようなハンドスピーカーが喚きたてる。
意味が分からなくても悪態だと分かる言葉を、紫衣里が耳元で翻訳してくれた。
「Freeze right there, you villain wannabe! ……そこ動くな! このナマ悪党!」
佐藤が珍しく、目をぱちくりさせる。
罵った本人はそれに目もくれず、大きなレイバングラスを頭に乗せた。
あっと思ったところで、紫衣里が手を振る。
「Hello! Long time no see!」
お久しぶりです、と言ったのは、僕でも分かる。
再開の相手は、〈リタレスティック・バウト〉の「十三妹」使いにして、僕の顔を勝手に世界配信してくれたインフルエンサー……。
フィービー・マイケルスだった。
「ハーイ! ハセオ! プリティガール!」
そう言うなり、フィービーはスマホ片手に、こっちの艀に乗り込んできた。
セルフィースティックに差し替えて何か早口で言ったかと思うと、佐藤に突きつける。
ぽかんとしていた僕の胸を、紫衣里が肘でつつく。
あっと気づいて、スマホで「配信 フィービー・マイケルス」と検索する。
ほとんどリアルタイムで、字幕付きのやりとりを見ることができた。
「Sooo, anyway—whatever that even means! Okay, self‑roasting aside, I'd love to introduce my Haseo and my pretty girl…but today's main event is this Smile Mask! …Are we live?」
(えー、そんなわけで、ってどんなわけよ? ってひとりツッコミは置いといて、あたしのハセオと、プリティガールを紹介……したいところだけど、今日のメインは、このスマイル仮面! ……配信OK?)
佐藤がOKするはずがない。
「This area is restricted. Please vacate the area.」
(ここは立入禁止区域です。お引き取りください)
その程度で、フィービーが引っ込むわけがない。
「Huh? I can’t hear you! Is it the sea breeze or ……what?」
(え? 聞こえな~い! 海風の……せいかな?)
佐藤は営業スマイルを崩さない。
だが、その口から発せられる言葉に、紫衣里は軽く目を閉じると、額に手を当てた。
英語が聞き取れていたら、きっと僕も耳を覆っていただろう。
「Get out! Take your whole boat and get out! This is a crime!”」
(出ていけ! 船ごと出ていけ! 犯罪だぞこれは!)
その後の口論は、紫衣里にとっては聞くに堪えなかったことだろう。
フィービーが言い返す。
「Which country’s law, and which article and clause does this violate? Explain it in 30 seconds!」
(どこの国のどの法律の第何条何項に違反するのよ! 30秒以内で教えて!)
「Are you some Japanese elementary school boy or what!」
(お前は日本の小学生男子か!)
佐藤は笑顔のまま、凄まじい勢いで罵り返す。
もはやこれはプロの芸人か俳優レベルのテクニックに達していた。
フィービーも、低次元の屁理屈で返す。
「Alright, that’s ten seconds! Tick‑tock, twenty left!」
(はい、10秒経った、あと20秒~!)
そこで一息ついて、一気にまくしたてる佐藤の反論はもう、理解不能だった。
「Let me be brief.Your actions violate the Maritime Collision Prevention Act—unsafe approach,the Ship Safety Act—endangering vessels,and Japan’s Penal Code Article 130—refusal to leave a restricted area.
This zone is under our lawful control, and unauthorized approach or boarding is illegal.That should suffice. Please vacate immediately!」
(簡潔に申し上げます。あなたの行為は、海上衝突予防法の“安全航行義務違反”、船舶安全法の“船舶の安全を害する行為”、さらに刑法130条の不退去罪に該当します。ここは当社が管理権限を有する区域で、無許可接近・接舷・乗り移りはすべて違法です。以上、十分でしょう。速やかに退去を!)
フィービーは悠々と反論する。
「Nice speech, but all of that is already cleared.My captain has a valid Japanese license, our route was filed with the Coast Guard,and this area isn’t legally restricted anymore.I also have a temporary press‑access permit from the actual authority here.So your ‘illegal’ claim doesn’t stand.You’re the one obstructing us.」
(ご立派な演説だけど、全部もうクリア済み。うちの船長、は日本の免許持ちで航行計画も海保に提出済み。それに、この区域、もう法的に『立入禁止』じゃないんだ。ちゃんと管理権限者から『報道目的の一時接近許可』も取ってある。だからあなたの『違法』は成立しない。妨害してるのは、そっちよ)
そう言っている間にも、艀の周りには、他の小さな船やゴムボートが押し寄せていた。
だが、乗っているのは地元の漁師でも港湾関係者でも、横断幕を張った活動家でもない。
胸にアクションカメラ、頭には360度カメラ。
スマホを3台同時配信モードで固定。
防水ケースに入れたタブレット。
風でバタつくマイク用の巨大な「もふもふ」……。
なんだか、エキゾチックな顔立ちの、オタクっぽい人たちだった。
事情はどうあれ、ここに入ってきてはいけない皆さんだというのは、何となくわかる。
笑顔を絶やさない佐藤の罵詈雑言と、屁理屈をこねるフィービーとの口論は、さらにヒートアップした。
「You started streaming without permission! To them, of all people!」
(勝手に配信しやがったな! あいつらに)
「The rule only applies to the event! Inside this boat, it’s totally fine!」
(ダメなのはイベントだけでしょ! この船の中ならいいよね!」
「See?! This is why you’re basically a Japanese little schoolboy!」
(だから、お前は日本の小学生男子かって言ってんだよ!)
配信を見ていたらしい外野陣のブーイングが、海風の音にも負けずに、佐藤が僕たちを乗せた艀を包囲する。
そうこうするうちに、佐藤のスマホが鳴った。
電話に出たところで、目の前にいもしない相手に直立不動の姿勢を取る。
どうやら、配信を見た上役からのお叱りの電話らしい。
「え……そうなんです、すぐに警察と海保に……え、上に相談するって……決定権は誰にあるんですか?」




