艀の上での戦い
試合当日の朝は、昨日の嵐が嘘のように晴れ上がっていた。
僕が必死で登ったアパートの裏の木は、僕たちが手をしっかりとつないで横たわる部屋に、枝の影を絡み合わせていた。
もちろん、ちゃんと寝間着で寝ていた僕たちは、あくび混じりで起きると、また顔を見合わせて笑った。
すきっ腹を抱えたまま、そそくさと身繕いをする。
僕はTシャツにジーンズ、紫衣里は出会ったときの、あの白いブラウスだ。
お互いの姿をじっと見つめあうと、やがて、同じ言葉を口にした。
「……で、何時から?」
しばしの沈黙の後、大慌ての口論が始まる。
「ちょっと英輔! 聞いてなかったの! こんな大事なこと!」
こんなにムキになる紫衣里も珍しい。
僕は僕で、すっかりうろたえていた
「普通、向こうから言うだろ、こういうことは!」
そうはいっても、あの佐藤のことだ。
聞かなかった僕たちが悪い、と不戦敗扱いにするかもしれない。
それならそれで、今日は選択の一日だ。
おとなしくアルファレイドのもとでゲーマーを目指すか、高校を辞めてさっさと就職口を探すか……。
そこでスマホが鳴って、発信者を確認すれば、佐藤だ。
電話に出ると、慇懃無礼な声が挨拶した。
「おはようございます、お迎えに上がりました」
時間を指定しなかったのは、そういうわけだった。
出発の準備をしてアパートの敷地の外へ出ると、朝靄の中からするすると滑ってきたのは真っ黒な車だった。
妙に長い。
紫衣里が呆れかえった。
「……リムジンなんて」
初めて見た。
こんな田舎町には、およそ似つかわしくない。
後部座席のドアを開けて出てきた佐藤が、恭しく頭を下げる。
「伊勢湾までお供いたします。御用があれば何なりと」
できれば、こんなことまでアルファレイドの世話にはなりたくない。
「時間と場所を正確に教えてくだされば……」
みなまで言わないうちに、佐藤は顔だけ挙げて答えた。
「場所が場所だけに」
「じゃあ、最寄りの駅だけ教えてください」
僕の要求に、佐藤は背をすっくりと伸ばした。
かしこまりました、と薄笑いを浮かべる。
「関係者だけですので、開始の時間は融通が利きますから」
「食費と交通費はください……紫衣里の分も」
間髪入れずに付け加えると、面倒くさそうに顔をしかめてみせる。
「いらないと言ってみたりくれと言ってみたり」
「アルファレイドには限度とか常識って言葉はないんですか」
要求は正当だと思っているから、ちょっと強気に出てみる。
佐藤は困ったように、愛想笑いをしてみせた。
「あの、私基本、カード払いなので」
伊勢湾までどのくらいの時間がかかるか知らないが、それまで食事も移動もこいつと一緒なんてまっぴらだ。
狭い車の中で、物理的にも紫衣里と一緒に籠の鳥になることはない。
「じゃあ現金用意してきてください。それまでどっかで朝ごはん食べてますから」
そのくらいの金は、財布の中に残っている。
佐藤はおずおずと付け加えた。
「じゃあ……それも食費で落ちます」
僕も恭しく頭を下げてみせてから言った。
「昼食代だけでいいです……大丈夫、逃げませんから」
イートインのコンビニで、朝食を済ませた。
狭い店だから、紫衣里は目立つ。
レジに並ぶ男性客は後に回る。
「お先にどうぞ……いえ、レディファーストってやつで」
そんなことを言いながら、ちょっとでも眺めていようとする。
文句を言うのは女性客のほうだった。
「ちょっと! どこ見てんの! 急ぐんだけど!」
店員も、手が止まらないように女の子と交代させられた。
窓の外には、演劇大会のロゴが正面に入った、Tシャツ姿の男子部員が呆然と立ち尽くしている。
年上らしい女子部員に小突かれて、自転車に乗っていった。
落ち着かないね、と言いながらも、紫衣里は楽しそうに笑った。
早く、と僕はおにぎりをむさぼる。
不特定多数に紫衣里の姿をあまり晒したくはなかった。
駅までバスで30分弱。これでひとり400円。
バスなんか久々に乗った。
子供のころ、正月に実家の親と街中のデパートに行ったときくらいだ。
親の反対を押し切ってこっちの高校に入ってからは、経費節減の毎日だった。
アパートの自転車置き場は月極だから家賃の無駄だし、高校もバイト先も歩いて通える。
だから、真っ赤な2両編成のバスが来たときは驚いた。
紫衣里は、はしゃぎながらタラップを踏んだ。
「見たことない! こんなに長いの!」
空いた車内で振り向いて、付け加える。
「イギリスのが横になったみたい」
いわゆるダブルデッカーのことだろう。
へいへい、と見聞の広さを称えながら、車体をちらりと眺めて後に続く。
「全長18mだってさ」
まだ客の少ないシートにいそいそと座った紫衣里は、車内広告に目を止めた。
「何? 大地に立つ前より50㎝短いって」
日本を代表する某アニメの初代主人公メカのことだ。
インバウンドの波がこんな田舎町にまで来ているとは……。
「サブカル頼みもたいがいにしろよな」
ぼやいてみせると、ツッコミはなかなかにシビアだった」
「英輔がそれ言う? タイトルホルダーでしょ」
車内には、フェニックスゲートの広告もある。
〈リタレスティック・バウト・ワールドタイトルマッチ優勝!〉と小さく書いてある。
その隣の写真では、宙に舞うレイアーティーズを迎え撃つ、シラノの雄姿が、ステージ上のスクリーンに映し出されている。
僕の顔が分からない程度には、小さくトリミングされていた。
それでも、不特定多数の乗客に顔が晒されるのは恥ずかしい。
佐藤が乗り付けてきたリムジンも、案外、場違いではなかったのかもしれなかった。
名古屋駅乗り換えで名古屋港に着くには、40分ちょっとでひとり730円。
世の中は平日なので、電車はだんだん、混みあっていく。
最初は座れたが、それでもお年寄りや妊婦が乗ったりすると、真っ先に席を譲るのは紫衣里だ。
僕はどうしても出遅れるが、それでよかった。
車内に人が増えると、リスクも高い。
アルファレイドは気にしなくていいが、世の男は佐藤だけではない。
その邪悪な手の動きは、〈リタレスティック・バウト〉で鍛えた動体視力のおかげで、瞬時にわかる。
現場を押さえていては、いろんな意味で遅い。
避けたいのは被害だけでない。
加害者を警察に突き出すという手間もある。
受験シーズンに女の子を泣き寝入りさせるのは、それだ。
時間はかけたくなかったし、おそらく国籍もない紫衣里の立場でそれはまずいだろう。
リスクを避けるには、慣れない芝居を打たなければならなかった。
「すみません、手が滑っちゃって」
「おっと……電車の揺れで……大丈夫ですか?」
バスケでマンツーマンのディフェンスにつくかのように、未遂の状態で紫衣里を守り抜くのはなかなかに大変だった。
朝食と移動の時間を計算に入れても、2時間とかからなかった。
港に着くと、ツナギを来た案内のアルファレイド職員が行きの経費を精算してくれた。
ついていくと、桟橋に付けた艀の上に佐藤がいた。
恭しく手を横へ流す。
「どうぞこちらへ……」
先に乗って、後から来る紫衣里を抱きとめる。
その僕の背中から、当然ではあるが無粋な言葉が投げかけられた。
「帰りの経費はお帰りの際に」
ポンポンと音を立てて艀が沖へ出ると、やがて、大きな島が見えてきた。
島というよりも、壁に囲まれた平たい鋼鉄の塊だ。
艀がそこへ付けてみると、ローマのコロッセオを海に浮かべたようなものだった。
ただ、その手前には広い張り出しがある。
制服を着た警備員や、背広姿の、いわゆるSPっぽい人たちに守られた、身なりのいい人たちがたむろしている。
重役とか大株主とか、そういう人たちだろう。
場違いだったのは、どう見ても地下アイドルの追っかけとしか思えない人たちもいる。
鉢巻を絞めて、工事現場の光るアレみたいなものを持って、何やらヤル気満々だ。
艀からは狭い板が渡され、その先を佐藤が手で示した。
「先に降りてください」
だが、板は人が1人通れるかどうかの幅しかない。
船に乗ったときと同じように、僕が先に降りようとして気づいた。
……先に降りれば、紫衣里を連れ去られるかもしれない。
そこで、紫衣里の顔をちらりと眺めた。
肩をすくめて、苦笑いする。
僕の考えていることは、見当がついたようだ。
……後に降りれば、紫衣里を捕らえられる。
どっちをとっても、逃げ道がない。
選択肢を奪っておいて、選択させる。
佐藤……というか、アルファレイドのやり方は、ずっとこうだった。
抗議を込めて振り向くと、佐藤はあさってのほうを向いている。
その向こうには、広い広い太平洋があるばかりだ。
読みは当たっていたらしい。
「なんで、そこまで?」
僕たちは、逃げようと思えば逃げられた。
勝負を降りる手もあった。
それでも、ここまでやってきたのだ。
限度や常識などという次元の問題ではなかった。
……良心とか、信義ってものはないのか?
何を責められているのか分からないわけがないのに、佐藤はシラを切ろうともしない。
いつもの慇懃無礼さで恭しく答える。
「特等席で見てもらうだけですから……私たちがご案内します」
その図太さには、呆れるのを通り越して、ある種の尊敬さえ感じた。
ここまで来ると、遠慮などいらない。
冗談めかして、問いただしてみる。
「で、そのまま誘拐することもできる」
そこで初めて、佐藤は向き直った。
目を閉じて、笑ったような気がする。
僕への嘲りの色はない。
むしろ、どこか自分自身への諦めのようなものが感じられる。
やがて佐藤は、僕をまっすぐに見据えると、大真面目な顔で答えてみせた。
「心外ですね……ちゃんと役目を果たしてくださればいいんです」
その時だった。
どこからか、大きな汽笛の音が聞こえた。
珍しいことに、佐藤がうるさげに顔をしかめた。
あたりを一瞥した目が、突然、驚きに見開かれた。
再び太平洋の向こうへと、そのまなざしが向けられる。
だが、今度ばかりは、見つめているものが確かにあった。
それは、水平線の彼方からやってきたと思しき、少しずつ大きくなってくる船影だった。




