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嵐の中の選択

 部屋に飛び込んで、鍵をかける。

「どこ行ってたんだよ!」

 つい怒鳴ってしまったが、紫衣里は平然と答えた。

「そこのコインランドリー……財布借りたよ、そこらに放り出してあったから」

 お金、とは言わないあたり、何だか力が抜けた。

 確かに持たずに出かけはしたが、紫衣里にとっては、金銭も物の貸し借りでしかないのだろう。

 それよりも、盲点だった。

 まさか、一緒に行ったことのないところにいたとは。

「よく、ひとりで行けたな」

「いっぺん、戻ってきたから。その途中で見つけたの」

 確かに、溜まった洗濯物を全部洗って乾かしていたら、このくらいの時間になるだろう。

 それにしても、居候を決め込みながら、家事など一切しなかったのが紫衣里である。

 洗濯物を全部運んで、僕の財布でコインランドリーを動かすだけでも、たいした冒険だったはずだ。

 どれどれ、と明かりをつけようとすると、止められた。

「ダメ!」

 その剣幕に思わず身体をすくめて、スマホのライトを点けた。

 確かに、山と積まれた洗濯物の傍に、大きなボストンバッグが二つ転がっている。

 すると、傘は差せなかったはずだ。

「自分が濡れてちゃ意味ないだろ!」

 その服はどうしたのかと探すと、ガラス戸を開けたところに脱ぎ捨ててあった。

 しょうがないなと拾い上げに行ったところで、足を滑らせて転んだ。

「痛っ……」

 そういえば、今朝、挫いたのだった。

「ごめん!」

 闇の奥で、紫衣里が立ち上がったのが何となくわかった。

 滑った原因を手探りで探してみて、謝られた理由が分かった。

 僕が掴んだ、Eカップぐらいのブラジャーだったのだ。

 慌てて放り出したところで、もう一方の手に触れたものがある。

 嫌な予感がした。

 今度は、僕が謝る番だった。

「……ごめん」

 濡れたショーツから手を放すと、紫衣里の恥ずかしそうな声が聞こえた。

「買ってくれたの……英輔だから」

 そういう問題ではなかった。

 今、どんな格好をしているかは、さほど想像力を働かせなくても理屈で分かることだ。

「何考えてんだ! 鍵もかけないで!」

 僕は近づけないが、他の男だったら分からない。

 だが、紫衣里は微かに囁いた」

「英輔以外の誰が来るの? こんなときに」

 確かに、空き巣が入るわけがないと思ったのは、僕だ。

 それに、鍵を閉められたら帰れなかった。

 

 ……そうじゃない!


 スマホのライトをつけることもできず、ひたすら手探りで探すと、とりあえずタオルケットが見つかった。

「ほら、これ……とりあえず!」 

 突き出したところで、初めて気付いた。

 暗闇の中に、銀のスプーンが揺らめいている。

 その光が、胸元を照らしていた。

 深い谷間と、その隆起と、その先と……。

 それを隠そうとして放り投げると、紫衣里は乱暴に叩き落とした。

「いいの」

 やむを得ず、僕は背を向けた。

「風邪ひくよ」

「英輔こそ」

 鼻にかかった甘い声で、からかうように紫衣里は答えた。

 さすがに、これにはムッと来た。

 顔をそむけたまま、言葉を探す。

「僕は……」

 頭の中が真っ白になって、何をどうするつもりだったのかも忘れてしまった。

 そこを、紫衣里の声が浸していく。

「私と同じ格好になって……びしょ濡れじゃない」

 近づく音だけでも、その素足の美しさが分かる。

 背中に触れる指の感触に身体が震えて、思わず飛び退った。

「ダメだよ」

「どうして?」

 問い返す無邪気さの中にも、僕の身体の芯を甘く溶かす熱があった。

 その誘惑に耐えながら、必死で答える。

「君を失いたくない」

「私だって」

 低めてはいたが、真剣な響きがあった。

 でも、考えていることは、たぶん違う。

「……どういう意味?」

 尋ねてみても、はっきり答えてはもらえない。

「来たら分かる」

「行けない」

 きっぱり断るしかなかった。

 長い髪が揺れたのが分かる。

 紫衣里は、首をかしげたようだった。

「どうして?」

「行ったら……紫衣里はスプーンを鳴らす」

 それは今朝、自分から言ったことだった。

「鳴らさない」

「きっと……鳴らす」

 打ち消す言葉との間を詰めて、僕は畳みかける。

 その瞬間、窓が開け放たれたかと思うと、白く閃く光が、紫衣里の豊かな胸とたおやかな全身の曲線を照らし出した。

 呆然とたたずむ僕の目の前で、銀のスプーンは未だ風雨が荒れ狂う闇の中へと投げ出される。

 向き直った紫衣里に、まっすぐ見つめられているのが分かった。

「英輔が選んで……どうするか」

「バカ!」

 我に返って窓際に駆け寄ると、スプーンは木の枝に引っかかっていた。

 手を伸ばしても、届かない。

 それどころか、雨に揺れる枝の先で、深い草むらの中に落ちそうになった。

 僕はドアノブのカギを開けるのさえもどかしく、部屋から飛び出す。

 雨の中を空地へと駆け込むと、木に登ろうと足をかけた。

 滑りやすくて落ちそうになるのをこらえたところで、思い出した。

 

 ……今朝、挫いてた!


 片方の足首に激痛が走る。

 とっさに掴んだ枝が折れそうになった。

 それでも身体を引き寄せて、次の枝に手を伸ばす。

 スプーンのきらめきは、その先にあった。

 

 ……届かない!


 もう少しと踏ん張ったところで、再び足首が悲鳴を上げた。

 枝が揺れて、スプーンが跳ね上がる。

 痛みをこらえて飛びつく。


 ……掴んだ!


 だが、その分、足元が疎かになった。

 枝にしがみついていたのがくるんと上下ひっくり返って、そのまま落ちそうになる。

 あっと思ったところで、何かに掴み上げられた身体が雨の中をするりと滑った。

 見上げれば、ベランダから手を伸ばした紫衣里に腕を捕まえられていた。

 右の手首の先で、握りこぶしから覗いている銀のスプーンが輝いている。

 それは、オリハルコンとか閻浮檀金えんぶだごんとかいうものの放つ光だったのかもしれない。

 照らされて見え隠れするのは、逆さまになった紫衣里の、伸びやかな裸身だった。

 ほっとしたおかげで、慌てふためく余裕ができた。

「……って、バカ! 人に見られたら」

 その気の緩みがいけなかった。

 ない力を振り絞って持ち上げてくれていた紫衣里の注意がそれたのか、僕の身体が滑り落ちる。

 だが、とっさに左手でベランダを掴むことはできた。

 体育会系でも何でもない、筋力のない腕で身体を支えるのは、かなりきつい。

 挫いた足で落ちれば、怪我がひどくなるかもしれない。

 入院などということになれば、明日(もしかして、もう今日か?)のお披露目は台無しになる。

「あ……!」

 今度は、指に激痛が走った。

 コントローラーを操る左の指に。

 紫衣里も、それに気づいたようだった。

「英輔!」

 再び僕の腕を掴んで、渾身の力で引き上げる。

 僕も、挫いていないほうの足に力を込めて、アパートの外壁を蹴った。

 タイミングが合ったのか、濡れた着衣と乾いた裸身が、もつれ合って畳の上を転がる。

 それが止まったところで、僕を見上げる紫衣里に囁いた。

「無理するなよ、そんな身体で……」

 身体に張り付いた服が気持ち悪い。

 立ち上がって、一枚ずつ引き剥がした。

 全部脱ぎ捨てたところで、背中に柔らかいものが押し当てられた。

 それが、すがりつく紫衣里の乳房だと気づいて、絡みつく腕を身体から慌てて振りほどいた。

 今度は、抱き寄せられた。

 紫衣里が爪先立ちでしがみつくと、息が詰まった。

 甘い唇が、僕の唇を塞いでいた。


 ……この時間を失いたくない。


 えもいわれぬ不安に駆られて、僕は紫衣里を抱きしめた。

 勝つか、負けるかではない。

たとえ負けても、専門学校へ行こうが、高校を辞めて働こうが、紫衣里と生きていくことはできる。

 しかし、勝たなければ、銀のスプーンの力を狙うアルファレイドに立ち向かえない。

 さらに、板野さんのような人たちの希望を奪うことになる

 絶対に勝つには、銀のスプーンの音が必要になる。

 だが、それを使えば、紫衣里を失う。


 ……どうすればいい? 僕は?


 もう、何も考えたくなかった。

 気が付くと、紫衣里の裸身は僕の肌の下にあった。

 銀のスプーンは、すぐ手の届くところに転がっている。

 その光に照らされた髪は、唇は、胸は、脚は、侵しがたい超一級の芸術品のようだった。

 紫衣里は動かない。

 かすかな声で尋ねるだけだ。

「それが……英輔の選択?」

僕に全てを委ねた腕に優しく抱きしめられて、一つだけ、頭の中に閃いたことがあった。

 

 ……紫衣里には、背負った宿命がある。


 銀のスプーンを守るためだけに、女の子を残す。

 そんな「紫衣里」が世界中に、いったい何人いることだろうか。

 彼女たちを、僕はどうしてやることもできない。

 できるのは、目の前の紫衣里だけだ。

 最後の1日だけ、銀のスプーンの音を守り抜けば、僕のものにできる。

 それは、紫衣里を自由にすることもできるということだ。

 誰に連れまわされることも、誰から逃げることもない。

 あの老人からも、アルファレイドからも。

 そして、僕からも。

「僕は……勝つ。紫衣里のために、僕の選択で」

 背中に回されたしなやかで柔らかい腕をほどいて、身体を起こす。

 淡く輝く銀のスプーンに手を伸ばす。

 それを首にかけてやると、紫衣里は横たわったまま微笑んだ。

 見つめあっていると、お互いに気の抜けた音がする。

 すきっ腹が鳴ったのに気付いて、微かな光の中、放り出したタオルケットを引き寄せてふたりでくるまった僕たちは、くすくす笑った。


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