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嵐(テンペスト)

 紫衣里のサンダルが戸口に転がっているのに気づかれなかったのは幸いだった。

 もっとも、男物か女物かは、ちょっと見ただけは分からなかっただろう。

 問題は、実家への電話だ。

 部屋に踏み込んでしまった大家さんが、言い訳するのは疑いない。

 そこで、彼女を下宿に連れ込んでいるなど告げ口されてはかなわない。

 下手をすれば、家賃を止められかねない。

 実家から電話がかかってくるのは、時間の問題だろう。


 ……さて、どんな先手を打つか。

 

 紫衣里が戻ってくるのを人に見られないかとひやひやしながら考えていると、それを遮ってスマホが鳴った。

 名前を見れば、佐藤だ。

 考えようによっては、救いの神ともいえるだろう。

 何の用だか知らないが、こいつとしゃべっている間は、親からの電話を受けなくて済む。

「……何か?」

 電話に出ると、聞こえてきたのは嵐の日には似つかわしくない、爽やかな声だった。

「いや、大したことではないのですが、ご挨拶をと」 

 この、地を這うような努力こそが、営業には欠かせないのだろう。

 それが佐藤をアルファレイドの一大イベントを仕切るまでに押し上げたのだとしても、どうでもいいことだった。

 いつもの僕なら。

 だったら掛けてくるな、と切りかえすところだ。

 しかし、今日はありがたい限りだ。

「いえ、ご丁寧にどうも」

 できるだけ、引き延ばさせてもらうことにした。

 そのうちに、紫衣里も戻ってくることだろう。

 さすがの佐藤も、そんな腹芸には気づかないようだった。

「いやあ、明日ですねえ」

「ええ、どうもよろしく」

 特に話すことはない。

 よほどのことでない限り、何を言っても聞き流すことにした。

「雨天決行ですのでよろしく」

「ああ、もうそれは」

 やっぱり、どうでもいい。

「宿題は?」

「なんとか」

 バイトから帰るたびに、死に物狂いで片づけてきたのだ。

 もっとも、紫衣里も手伝ってくれたが。

 英語から地理歴史から、知らないことがない。

 〈リタレスティック・バウト〉に明け暮れていても、9月1日の始業式には間に合いそうだった。

 だが、そこはやはり佐藤だった。

「何か変に低姿勢ですね」

「そうですか?」

 すっとぼけてみせても、いったんスイッチの入った佐藤の勘は止まらない。

「もしかして、お邪魔でしたか?」

「いえ、そうなんですけど、そうじゃないです」

 嘘がバレないように本当のことを言うのは、匙加減が難しい。

 電話の引き延ばしはできたが、いつまでも続くわけではない。

 あれやこれやと次の手を考えていると、向こうから助け舟が出た。

「何かできることがありましたら」

 これも、営業の基本スキルなのだろう。

 おかげで、とっさのアイデアが閃いた。

 大家さんが実家に詫びの電話を入れて、下宿に僕が女の子を連れ込んでいたと、半分だけ本当のことを言っても家賃を止められる心配のない方法が。

「……超特急で、安くて新しい物件案内してくださいます?」

「引っ越すんですか?」

 怪訝そうな返事が聞こえた。

 当然だ。

 アルファレイドも不動産くらいは手掛けているだろうが、佐藤としては畑違いの仕事だろう。

 それは分かっていたが、押しに押すしかなかった。

「ことと次第によってはアパート全体で」

「……分かりました」 

 歯切れの悪い引き受け方で、電話が切れた。

 慣れない芝居を打ったせいで、どっと力が抜ける。

 畳の上にへたりこんだところで、窓を打ち鳴らす激しい雨音がようやくのことで聞こえてきた。

 そこで気づいたことがある。


 ……紫衣里が戻ってこない!


 僕は雨の中へと飛び出した。

 背中から吹き付ける風に押されるように、流れ落ちる滝のてっぺんにも似た通路を駆け抜けた。

 断崖並みに急で滑りやすい階段を転げ落ちそうになりながら降りると、雨で視界のかすむ薄暮の中を走り回った。

 大きな木の下の、背の高い雑草に覆われた空き地に倒れているわけではなかった。

 近くの路地を、隅から隅まで探し回る。

 あたまから濡れネズミになって、やっと気が付いた。

 

 ……きりがない!


 紫衣里は、常に僕と行動を共にしている。

 だから、見当もつかないところにいるはずがない。

 紫衣里と行ったことのある場所を、片端から考えてみる。

 

 ……フェニックスゲート。


 店長に電話をしてみる。

「すみません、仕事中に……」 

 無理を言って休みをもらったので、ちょっと話しづらい。

 店長は店長で、遠慮がちに答えた。

「ああ……休みなのにこんなことになっちゃって……」

 別に気遣ってもらうことでもない。

 余計に恐縮しながら、聞いてみる。

「あの、ええと……彼女は?」

 よく考えたら、店長は紫衣里の名前を知らないのだった。

 察してくれるといいのだが。

 しばらく考えてから、返事があった。 

「ああ、星美ちゃんなら……」

「失礼しました」

 僕は即座に謝って、電話を切った。

 ある意味、さすがは店長だった。

 あれだけ人目を惹く美少女だ。

 店の売り上げにもずいぶん貢献しているはずなのだが。

 それを思い浮かべることができないとは……。

 感心している場合じゃない。


 ……あそこか。


 紫衣里も今さら用があるとは思えなかったが、あそこへ行ってみた。

 予想はしていたが、当然、ひそひそ声にさらされる。

「何? アレ」

「目、合わせちゃダメだからね」

「変態、変態よあれ」

「ちょっと、店員さん……」

 紫衣里を連れて行かざるを得なかった、あの大型スーパーの下着売り場だ。

 あのときは、試着室で何やらもたもたやっていたはずだ。

 思わずカーテンを押しのけそうになったところで、おずおずと声がかかった。

「あの……お客様!」

 非難と警告を込めた最後の一言で、我に返った。

 女性客が眉をひそめる中、女性店員が肩で息をしながら僕を見つめている。

 雨のしずくをぽたぽた垂らしながら、僕は頭を下げた。

「すみません! ……人を、人を探しています。」

 ずぶ濡れの状態でそんなところを覗き込んだら、場合が場合なら警察に突き出されてもおかしくない。

 だが、頭を下げる僕の様子で、切羽詰まっているのは伝わったのだろう。

 店員は試着室にいちいち声をかけてはカーテンをめくり、誰もいないことを確かめてくれた。

 恥ずかしさで顔を火照らせて、その場を逃げ出す。

 そこで思いついた場所があった。


 ……あそこだけか。


 あの竜に似た松の木のある寺だった。

 古い歴史のある寺で、観光客もしばしば訪れる。

 だが、この嵐の中でわざわざやってくる者など、いはしないだろう。

 でも、僕と紫衣里だけなら。

 明日が、たぶん最後の戦いになる。

 勝てば、全てが手に入るだろう。

 僕の自由以外は。

 負けても、紫衣里と二人なら、ゲーマーを目指そうが目指すまいが、なんとかやっていけるだろう。

 だが、その前に起こりえることがある。


 ……紫衣里は、スプーンを鳴らすかもしれない。


 それを予期して、僕との思い出のある場所に行くことがあり得ることだ。

 だが、寺の門は閉まっていた。

 見えるのは、雨をじっとりと含んだ松の枝だった。

 それは確かに、自ら起こした雲に向かって駆け上っていく竜にも見える。

 僕がジークフリートかイリヤ・ムーロメツとならひっ捕まえて背にまたがり、高い空から紫衣里を探して回りたいとさえ思った。

 そこで、電話が入った。

 実家からだ。

 出てみると、いきなりお袋からの小言が聞こえた。

「いもしない従妹なんて、つまらない嘘ついて……まあ、大家さんが大目に見てくださるそうだから」

 そこで、親父が電話を横取りしたらしい。

 さっきとは打って変わって、妙に機嫌がよかった。

「そんな色事、お前にできるわけがないがな」

 何言ってんですかお父さん、の声と共に電話は切れた。

 と、思ったところで今度は佐藤から、一言だけ電話が入った。

「まあ、ご不満もあるかと思いますが、明日はよろしくお願いします」

 いささか面倒臭そうに聞こえたのは、余計な仕事をさせられたからだろう。

 とりあえず、読みは当たった。

 アルファレイドの力で、より好条件で安い賃貸住宅の案内をアパート全体にかければ、大家が慌てると踏んだのだ。

 親父の豹変ぶりを見る限り、家賃の取りっぱぐれがないよう、女を連れ込んだ話はなかったことにしたとみていい。

 だが、住居が確保できても、紫衣里がいないのでは意味がない。

 

 ……万策尽きたか。


 ずぶぬれになって帰った頃には、すっかり暗くなっていた。

 アパートの戸に手をかけると、開いている。

 そういえば、鍵もかけずに飛び出したのだ。

 とはいえ、こんな嵐の中で、わざわざそんな家をさがす空き巣もいないだろう。

 いや、そもそも問題は、そこじゃない。

「……ただいま」

 もしかしたらと声をかけてみる。

「お帰りなさい」

 え、と声を漏らしたところで、くすくす笑う声が答えた。

「まずいんでしょ? 一緒に帰るの見られちゃ」

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