イニシアチブ争いはゲームの中だけの話
ようやく、雨樋が掃除できるようになった。
箒を手に、濡れてもいいようにTシャツと短パンに着替えて外に出てみると、雨ざらしになった2階の通路では、スチール製の柵の隙間から滝が落ちていた。
大家さんとしては、業者を頼むのが時間と経費の無駄になるといったところだろう。
脚立を開いて、屋根の下から雨どいをさらってやると、細かいゴミやらボロボロになった木の葉やらが、ボトボトと落ちていく。
その先を目で追ったのがいけなかった。
階下の水たまりと、重く曇った空が揺れる。
スチールのドアがけたたましく音を立てた。
「危ないったら!」
飛び出してきたのは、脚立を押さえにかかる紫衣里だった。
「隠れてろ!」
掃除の準備をするときに着替えてはいたが、そういう問題ではない。
同居がバレたら、高校を卒業する前に、僕は住むところを失う。
そう思って、うろたえたのが余計にまずかった。
脚立が倒れて、僕は水浸しの通路に投げ出された。
「紫衣里……?」
すでに手を引っ込めてアパートに駆け込んでいたが、ドアを開けたまま、いつになくおろおろしている。
「ごめん……」
「閉めろったら!」
立ち上がろうとして、また転んだ。
足首だ。
かなり、痛い。
それでも戸口まで這っていく。
ドアが一瞬だけ開いて、凄まじい力で引っ張り込まれた。
「バカ……!」
限界まで落とした声で叱りつけながら、僕の濡れた身体を拭きもしないで、足首を掴む。
すさまじい音がしたかと思うと、痛みは引いていた。
立ち上がろうとすると、脇の下から身体を持ち上げられた。
「大丈夫だったら……」
そう言いながらも、紫衣里の柔らかい肌の感触は悪くない。
それを察したのか、いかにも不機嫌そうな声が返ってきた。
「まだダメ……! 中国4000年と、マヤ文明2000年の知恵に感謝してね」
どこまでが本当かわからないが、時折見せる、言い知れぬ知識と技には今度も舌を巻いた。
雨は、昼頃から嵐になった。
凄まじい風が窓ガラスに吹き付けて、部屋中がガタガタ鳴った。
天気予報を見ると、夜中には止むらしい。
紫衣里のせいではないのに、何だか済まなそうな顔をしているのを見て、僕は畳の上にごろりと転がってみせた。
「せっかくのオフだったのにな……」
思えば、戦い通しの日々だった。
紫衣里の操る、「魔女ジョアン」。
鬼の目をした老人の「ほら男爵。」
エンゲル係数の跳ね上がった生活……これは誰かさんのせいだ。
佐藤が「ダルタニアン」をマスターできたのは、開発者の特権だと思うとなんだか不公平だ。
板野さんが、「長靴をはいた猫」をあれだけ使えるなんて意外だった。
今、どうしているんだろうか。
〈リタレスティック・バウト・ワールドタイトルマッチ〉で戦ったライバルたちも。
「十三妹」使いのフィービー・マイケルス。
「弁天小僧菊之助」ならウジェーヌ・フォーコンプレ。
「レイアーティーズ」の瞬殺ぶりを見れば、エセルバート・ウィルフレッド=ヒュー・スウィンナートン4世(名前長い!)には、プリンスの二つ名がふさわしい。
彼らと「シラノ・ド・ベルジュラック」で戦った、自由な日々が懐かしい。
やせ我慢の無頼漢には、なかなかなれるものではないらしい。
せいぜい、洗濯物は溜まったまま、食べるものもないのに耐えるくらいが関の山だった。
そこで、ふとセコいことが気になった。
……明日は弁当くらい出るんだろうな?
佐藤に聞いてみようかと思ったが、こんなことで電話するのも格好悪いのでやめた。
財布の中に、今日の洗濯代と食料品を買うくらいの現金はある。
明日に回せば済むことだ。
先のことを考え始めると、気になることはまだあった。
窓際で降りしきる雨を眺めている紫衣里をちらと見やると、膝でにじり寄ってきた。
Tシャツの襟元から奥が見えるのに気付いて目を逸らすと、意地の悪いからかい声が聞こえた。
「何かしたら、これ、鳴らしちゃうから」
紫衣里が明日までスプーンを鳴らさなければ、あらゆる意味で、僕の勝ちだ。
あの老人も、アルファレイドも手は出してこない。
僕は籠の鳥のゲーマーになるしかないが、それは紫衣里と生きていくための代償としては充分だ。
ジークフリートのような不死身ではない以上、仕方がない。
シラノ・ド・ベルジュラックのように誇り高くもなれないが、それが現実というものだ。
佐藤の言う通り、「俺の女に手を出すな」と突っ張れるだけ、まだいい。
だが、そこでさらに気になることがあった。
……アルファレイドは、本当にスプーンを諦めるのか?
考えてみれば、それも佐藤の口約束にすぎない。
僕をスポンサー契約で縛っておけば、紫衣里を手元に置いておくことはできるのだ。
ちょうど、シラノのパワハラ上司である既婚者のド・ギッシュ伯爵が、甥のヴァルベエル子爵と結婚させたロクサアヌに手を出そうともくろんだように。
空腹に耐えながら夕方まで横になっていると、再びドアをノックする音が聞こえた。
覗き窓から見てみると、大家さんだった。
店長よりもちょっと若い感じで、佐藤ほどではないが、どこか小ずるさのある男だった。
「開けてもらいますよ」
それはできない。
振り向くと、紫衣里は窓際で身体をすくめている。
とりあえず、戸口にある台所との間には仕切りのガラス戸を閉めた。
その間にも、大家さんの声が聞こえる。
「女の子と住んでるらしいじゃないですか」
「いえ、そんなことは」
とっさにごまかしたが、心当たりはある。
「見たって人が」
今朝の人が、余計なことを言ったのだろう。
だが、説明はつく。
「あれは従妹で」
「そんなのいないってご両親が」
保証人なのだから、連絡されても仕方がない。
下手に嘘をつけば、余計に怪しまれるだけだ。
「いてもいないっていうんです、折り合いが悪くて」
あながち、嘘ではない。
だが、イニシアチブは向こうにある。
これを最初から握られている分、リアルはゲームよりも性質が悪い。
「上がらせてもらいますよ」
合鍵を使われたらしく、ドアノブのシリンダーが回った。
力ずくでドアを引っ張ろうにも、ノブを掴めるような瞬発力はなかった。
こういうとき、ゲームでのスキルは何の役にも立たない。
「ちょっと……」
ずぶ濡れのまま、サンダルを脱ぎ捨てた大家さんは僕を押しのけた。
ずかずかと踏み込むなり、ガラス戸を開ける。
その向こうが見えたところで、ガサ入れの歩みは止まった。
困ったような、済まなそうな、何とも言えない顔つきで大家さんが振り向く。
その前にもう、僕は勝利を確信していた。
家主の権限の乱用を咎める代わりに、佐藤のような慇懃無礼さで頼みごとをする。
「窓は……閉めといてください。雨、入ってきますんで」
思い切ったことをする娘だ。
この雨の中、窓から飛び降りて逃げたのだ。
外には、大きな木がある。
その下は、背の高い雑草の生い茂った空き地だ。
怪我をすることはないだろう。
とぼとぼと部屋を出ていこうとするところで、更にバカ丁寧な追い打ちをかける。
「すみません、実は彼女連れ込んでました」
これも、本当のことだ。
大家さんは、力なく念を押す。
「住んでるわけじゃないんですね」
「勘弁してください、今朝振られましたんで」
これは、嘘だ。
絶対にあってはならない。
我ながら白々しい笑いだったが、バレることはなかった。
「じゃあ、ご両親にはそのように説明を」
「……それだけは」
話をろくに聞きもしないで、大家さんは吹き込んでくる雨の中を、いそいそと出ていった。




