戦いの始まりと、刹那の不安
だが、スマホのアプリに板野さんからのメッセージは来なかった。
バスのタラップを踏んで振り向いたときの笑顔を思い出すと、心配で仕方がなかった。
何があったんだろうか……。
いや、身も心も疲れ切っているはずだから、連絡がなくてもしかたがない。
そう思って、敢えてこちらからメッセージを送るようなことはしなかった。
紫衣里はといえば、そんな僕を気にはしているようだった。
「ごはんまだ?」
口では無邪気にそう言うが、その目はスマホをいじくりまわす僕の手を見つめている。
そんなときは、なけなしの食材で、肉なしのモヤシ炒めなんかを作ってやると気が紛れた。
ものを食べないときはどうかというと、網戸だけを閉めた窓際で、遠い空を眺めていたりする。
その先にあるのは、何だろうか。
「鬼」と呼ばれる者たちに付き従って胸に提げた銀のスプーンを守り、その宿命を継ぐ者を産むべく定められた少女たちか。
それとも、もっと遠くにある、世界そのものの行く末か……。
僕の想像の及ぶところではなかった。
盆休の書き入れ時は、板野さんの代わりに入ったバイトに明け暮れた。
その給料も、稼ぐそばから紫衣里の食費に消える。
夏休みの後半も、瞬く間に過ぎ去っていく。
そして。
〈リタレスティック・バウト・ワールドタイトルマッチ〉の当日がやってきた。
会場について受付を済ませて、やっと予選が始まろうというときだった。
木曽川と揖斐川と長良川が合流する辺りにある大きな遊園地には、専用の大きなスクリーンが設営されている。
その前で出場者席から立ちあがった僕は、スマホを手にピリピリしていた。
「……どういうことですか、店長! そんな、今まで知らなかったなんて!」
つい張り上げた大声に、周りの出場者が何人か振り向く。
中には、僕を知っている者もいるらしい。
おい、長谷尾英輔だぜ、という囁き声の中には、悪態も聞こえた。
……そりゃテンパるだろ、世界的プレイヤーが相手なんだから。
……もしかすると俺らでも楽勝じゃね?
うるさい。
僕は今、それどころじゃないのだった。
店長が急に電話をよこしてきたのだ。
「いや、今日、長谷尾くんいないだろ? で、今日、大会でしょ? 店にモニターもないのに、客どっと来ちゃってさあ……で、急遽、星美ちゃんに頼もうとしたら、そういう事情で」
何でも板野さんが、交通事故に遭ったらしい。
スマホにかじりつかないわけにはいかなかった。
「で、容体は?」
よほどうろたえているのか、店長の話はあっちこっち飛んで要領を得ない。
開会が迫る中、マナー違反の電話に周りの眼もそろそろ厳しくなってきたところで、辛抱強く聞いた話を要約すると、こういうことだった。
ショッピングモールから帰ったあの日、バスから降りようとした板野さんは、病院へ向かう横断歩道で車にはねられたのだという。
赤信号にも気づかないくらい疲れていたらしい。
やっとのことで落ちついた店長は、最後にこう締めくくった。
「そのときは頭を強く打ってて、精密検査やなんかが必要だったんだけど、今日、退院だって。夕方には、学校行くって言ってたかな」
修学旅行のキャンセルに行くのだ。
その前に、僕は優勝して佐藤と話をつけなくてはならない。
僕の手元に紫衣里がいる限り、嫌とは言わないだろう。
「そうですか……安静にするよう、伝えてください」
そこで電話を切ったのは、試合前だということとは別のプレッシャーがあったからだ。
少しでも試合を早く終わらせるためには、最低限、僕が常に2本先取しなければならない。
目の前のスクリーンには、世界中の有名e-スポーツプレイヤーたちの顔が、使用キャラクターと共に次々に映し出されている。
燦燦たる夏の太陽の下で、耳元に囁き声が聞こえた。
「大丈夫……その夕方には、あなたが優勝してるから」
爽やかな風が全身を吹き抜けたような気がした。
振り向くと、いつのまにか背後に立っていたらしい、白いブラウスを着た長い黒髪の少女が足早に立ち去っていくところだった。
その後ろ姿が、試合の出番を待つ男たちを続けざまに振り向かせながら消えていく。
俄然、やる気が出た。
もちろん、やがて始まった戦いには、それだけでは勝てない。
対戦相手はいままでに経験したことのない強敵揃いだった。
「くらえ、『開拓の斧』!」
不敵な面構えの大柄な若者が叫んだ。
大画面では、メソポタミア神話の英雄ギルガメッシュが、手にした斧を縦横に振り回す。
これをものともせず、冷ややかな眼差しの女が、恍惚とした顔で応じた。
「これでどう?『復讐の翼』!」
フィンランド神話『カレヴァラ』の魔女ロウヒが、巨大な鷹に姿を変えて空中から襲いかかる。
凄い……でも、僕には勝利の女神がついている!
どんな強敵が来ようと、どんなにレアで強力な技が来ようと、紫衣里に支えられた僕が操るシラノ・ド・ベルジュラックを倒せるわけがない。
午前中の予選が終わると、僕はベスト8に入っていた。
遊園地内のフードコートでハンバーガーを頬張る僕に、紫衣里は、これまで見せたことのない不敵な笑いを浮かべて囁いた。
「やるじゃない」
そう言いながら、僕が選手特権で食べ放題なのをいいことに、紫衣里は図々しくも幾つもピザだのホットドッグだの、ファーストフードの皿を積み上げて、デザートのプリンにとりかかっている。
その食いっぷりときたら……。
揺れるプリンがいくつも、たっぷりのカラメルソースと共に、紫衣里のつややかな唇の向こうに消えていく。
この日のためにバイト料を前借りして買った白いブラウスが汚れるのが心配になったくらいだ。
だが、ふと、僕の心をよぎる不安があった。
でも、これが終わったら……。
僕が戦うのは、板野さんを修学旅行に送り出すためだ。その後は、紫衣里と暮らせれば、それでいい。
でも、紫衣里が僕に望むのは、e-スポーツで戦い続けることだ。それは、2つのリスクを伴う。
僕がスプーンの力を必要とするときがくるかもしれないこと。
そして、紫衣里とその一族が守り続けてきたスプーンの力がアルファレイドに利用されてしまうことだ。
それを避けようとすれば……。
頭が突然、ぐらりと揺れて、僕は我に返った。
目の前では、プリンの皿を10枚ばかり積み重ねた向こうから、紫衣里が真剣な顔をして見つめてくる。
「ダメ。今は、あの子のことだけを考えるの。そうすれば、あなたは負けない」
勝負を左右しかねない陰気な考えごとを察したのか、紫衣里はたしなめるように、僕の額を再び小突いた。
ふらつく頭に不安も吹き飛んだおかげで、今はきっぱりと言い切ることができる。
「ああ……大丈夫さ、あれは使わせない」
残ったハンバーガーを思いっきりかじろうと、目を閉じて口を大きく開ける。
銀のスプーンがきらめく、紫衣里の豊かな胸元は、もう見えない。
雲一つない、暑い青空を見上げると、喉の中をひき肉の塊が滑り落ちていった。




