夏のひとときを賭ける
僕はフードコートの売店から持ってきた大盛りのチョコレートパフェを、彼女の前に差し出した。
「……どうぞ」
絶対的な挫折感からは、まだ立ち直れない。
負けた。完全に負けた。
負けは絶対に許されないと、自分を叱咤してきたのに。
親とケンカしてまで目指す道なのだ、e-スポーツは。
それなのに、こんな可愛い女の子に負けるなんて。
しかも、手加減なしに秘術という秘術を繰り出した上での完敗だ。
自分自身にさえも、言い訳が利かない。
もっとも、怪我の功名というのか何というのか、結果的には客寄せになったようだ。
そのご褒美に、余分に休憩時間がもらえたのだから。
特別手当をつけてくれるとか、そういうんじゃないところがあの店長らしい。
……まあ、せいぜい楽しむとしよう。
気持ちを切り替えると、窓の向こうに遠く、夏休みの碧い山脈が見える。
その緑を波立たせる風にあおられたかのように、目の前の長い黒髪が微かに揺れた。
「ありがとう」
無邪気な声が応える。
テーブルの向かいに座ると、サマーセーターにジーンズ姿の女の子が、僕をじっと見つめてきた。
無邪気で、きれいな瞳だ。
ガラスみたいに澄んでいて、でも、その分、なんだか冷たい。
それだけに、何だか哀しいものが感じられた。
年は高校生くらい。胸元の白い肌に、銀のスプーンをあしらったペンダントが映えている。
どう見ても、僕を対戦型ゲーム「リタレスティック・バウト」で叩きのめした、あのテクニックの持ち主には見えない。
彼女が黙々と口に運ぶパフェは、その負けに僕が支払う代償だ。
生活を切り詰めに切り詰めて、ぎりぎりの計算でひねり出した今日の分の昼食代は、これで消えた。
敗北と、金欠。
でも、挫折のどん底にいるはずなのに、不思議と悔しくはない。
プラスチックの使い捨てスプーンが、生クリームを綺麗な唇に運ぶ。
思わず見とれていると、名前も知らない彼女が見つめ返す。
この沈黙に、何だか心が躍った。この時間が、いつまでも続けばいいと思ったくらいだ。
しかし、何事にも終わりはある。
この夏が、いつまでも続かないように。
ましてや、なけなしの金でおごったパフェなど、なくなるのは時間の問題だった。
だが、その前に、この特別な時間は終わった。
突然に聞こえた頭上からの声が、僕たちの間の沈黙を破ったのだ。
「行きましょう、シエリ」
バイオリンの、粘りつくような旋律を思わせる声だった。
見上げると、灰色のジャケットに水色のスラックスという涼しげな姿の老人が、ソフト帽を胸に見下ろしている。
家族か何かが、迎えに来たらしい。急かすからには、ここに長居できないような用事でもあるのだろう。
だが、彼女は返事もしない。
ちょうど、最初の反抗期を迎えた幼児がこういう態度を取る。
親が何度呼んでも知らん顔をして、1人で遊んでいたりするものだ。
「シエリ……」
名前を二度呼ばれても、彼女はパフェを静かに食べ続けている。
フードコートは結構、混雑していて子供が走り回ったり中高生が騒いだりと、けっこううるさい。
それなのに、この2人の間だけは夏場だというのに空気が凍り付いている。
冷房が効きすぎているとかいうのではなく、とにかく、見ていて痛いくらいに雰囲気が張りつめているのだ。
業を煮やしたのか、老人は低い声で命じる。
「来なさい」
声は穏やかだが、その奥には有無を言わせない押しの強さがあった。
押しというか、どこか違う世界にでも無理やり引きずり込もうとするかのような強引さが。
全く関係ないはずの僕でさえも、思わず立ち上がりそうになったくらいだ。
だが、女の子はそんなことを気に留める様子もない。
「ごちそうさま」
僕に向かって、感謝で一杯の微笑を浮かべる。
空になったパフェのグラスは、さっさとセルフサービスのカウンターへと運ばれた。
その後ろ姿をみているうちに、僕の心の中で何かが動いた。
たぶん、それは彼女が感じているものと同じだった。
この老人に知らん顔したい気持ちはよく分かる。上からものを言われるのは、僕だって嫌いだ。
……少しでも、彼女に自由な時間をあげたい。
そう思うと、身体が勝手に、フードコートの軽いプラスチックの椅子から立ち上がっていた。
心の中には「やめとけ」とたしなめるもう1人の自分がいる。
それは分かってはいたが、もちろん、そんなものは振り切った。
大きなお節介かもしれないが、シエリと呼ばれた彼女が戻ってくる前に、ケリをつけておきたかったのだ。
「ちょっと待ってあげてくれませんか? 彼女、今は僕のお客なんです」
そうはいっても、高齢者には礼儀正しくするのが僕のやり方だ。
e-スポーツのプレイヤーは、ただのゲーマーではない。
体育会系ではなくても、スポーツマンシップというか、騎士道精神を持っていなくてはならない。
僕の気持ちが分かってもらえたのか、このお年寄りもまた、慇懃に答えた。
「私たちも時間がないのですが、そこまでおっしゃるなら……」
言葉は丁寧だったが、老人のまなざしには、モールの空調なんか問題にならないほどゾッとした。
人間のものではないとまでは言わないが、ただの老人とも思われなかった。
目は冷たく光っているのに、その奥には地獄の炎を思わせる何か狂暴なものが潜んでいる。
下手に関わったら、命までもがないような気がする。
気圧されて返事もできないでいると、老人は厳かに申し出た。
「戦い取ってみますか? その時間」
不思議な一言が、この夏の僕の運命を決めた。




