思わぬトライアングル
そこで僕は、何事もなかったかのように話を締めくくった。
「じゃ、そろそろ……」
話を切り上げた方がよさそうだった。
下手に踏み込んだ話をして、また板野さんと気まずくなるのは避けたかった。それに、紫衣里が佐藤とどんな話をしているのか心配でもあった。
そもそも、あの二人はどういう関係なのだろうか。
あの老人は、僕が紫衣里を預けるに足る男かどうか試しているらしいが、佐藤もそのひとりだったのかもしれない。
だとすると、いい年をして性質の悪いストーカー行為を働いていることになる。
そこまで妄想が膨らんだところで、僕の足は勝手に動き出した。
だが、店のほうへ出ていこうとしたところで、板野さんは僕を呼び止めた。
「あ、その前に……ひとつだけ、聞いてもらえます?」
声は底抜けに明るかったが、それだけに無理をしていることは痛いほど分かった。
こっちも、放っておけない。
焦りと苛立ちを隠して、必死で笑顔を作る。
「……何?」
板野さんは、もうすっかり落ち着いていた。
だが、ふふん、と鼻で笑うと、もったいをつけて語り始める。
「私が何で、自力で修学旅行に行きたいか……」
やっぱり、重い話だった。
そこにはたぶん、今まで胸に秘めていた思いがあるはずだ。
紫衣里への妄想と板野さんの現実を天秤にかけてみたが、考えるまでもない。
もちろん、ここは妄想を妄想と割り切って、きちんと聞いてやるところだった。
「……どうぞ」
もちろん、そんなことが板野さんに分かるはずがない。
まじめくさった僕の顔がおかしかったのか、それとも敢えて明るく振る舞ってみせたのか、くすっと笑う。
「中学校のリベンジなんです……台無しにされたから」
とっさに、僕は止めた。
「……あ、その先は」
この先は、聞くべきじゃなかった。
僕なんかが踏み込むには余りに深い、心の闇の世界だった。
だが、それを吐き出そうとするかのように、板野さんはまくし立てる。
「ほんっとに地獄なんですよ、修学旅行でいじめが始まると。だって、帰ってくるまでどこへも逃げられないんですから」
僕の修学旅行は去年、無事に終わったが、同じ状況になったらと思うと耐え難いものがある。
「だから、やり直したいんだ……」
相槌を打ちはしたが、それが精一杯だった。
これ以上は、僕もきついし、何よりも板野さん自身の心が持たないんじゃないかという気がした。
だが板野さんは僕をキッと見据えると、鋭く言い放った。
「まだ終わってないです……アタシの話」
余計な気遣いだったらしい。
すくみ上がった身体を、さらに縮こまらせて謝るしかなかった。
「……ごめんなさい」
低い、呻きに似た声が、うつむいた顔の奥から漏れる。
「あいつらの顔、二度と見たくなくて、親に一生に一度のワガママ言って私学に入って……でも、そんな自分が許せなくって」
いじめの加害者へ怨念をぶつけているか、被害者になってしまった自分を責めているのかは分からない。
だが、その口調は何かがとり憑いているかのようで、放っては置けなかった。
「でも、それは当然だろ? 自分を守らなくちゃ」
つい口を挟んでしまったが、それは当然のことだった。
誰が聞いても、心ある人間ならば同じことを言うだろう。
その辺りは板野さんも分かっているらしく、すっきりとした顔を上げると、はきはきと答えた。
「それは切羽詰まってた時の話です。高校生になって落ち着いてみたら、なんかそういうの、納得いかなくなって」
やれやれと安心はしたが、問題はそこじゃない。
「間違ってない、間違ってないけど……疲れちゃうよ、そんなの」
今までだって傷ついているのに、そこまで自分を追い込むことはない。
それでも、板野さんは毅然として答えた。
「借り、作りたくないんです。親にも誰にも」
負けた。
言い負かされたんじゃない。
人間として、負けた。
これが同じ男だったら、立ち直れないところだ。
「……悪かった」
自然に、頭が下がった。
板野さんは自分なりの意地と誇りを持って、自分自身に降りかかる試練と闘っているのだ。
だが、その声は急に和らいだ。
「ごめんなさい……意地張って。本当は、嬉しかったんです。長谷尾さんの気持ち……」
いや、どっちかといえば、僕のはむしろ、大きなお節介だった。
「あ、ああ、そんな……」
気まずいのをごまかそうとして言葉を濁しただけなのだが、すっかり誤解された。
「ごめんなさい、そういう意味じゃ……彼女、いるんですよね」
「あ、ええと……」
死角からの奇襲に、返す言葉がなかった。
さらに、悪い時には悪いことが重なるものだ。
澄んだ声が、僕と板野さんの間を分けて流れてきた。
「……お邪魔だったかしら?」
狭い給湯室に入ってきた3人めは、紫衣里だった。
最低、1人は出ないとかなり息苦しい。
密着した身体とか、紫衣里の胸とか、いろんな意味で……。
その緊張を破ったのは、板野さんだった。
「失礼します!」
店の中へと慌てて駆け出して行く。
当然の結果として、僕と紫衣里だけが残された。
咳払いなんかして、こっちから口を開く。
「別に、やましいことは……」
バカだった。
聞かれもしないのにこう答えたら、やましいことがあると勘ぐられても仕方がない。
紫衣里の口調も、いつになく真剣だった。
「大事な話があるの」
こういうときの「大事な話」は、ろくでもないことが多いらしい。




