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彼女の意地と思わぬいさかい

 極貧に輪をかけた絶対の危機に瀕した僕は、遂に節を屈した。

 アルバイトのシフトを入れに行くことにしたのだ。そこへ、紫衣里は当然のようについてくる。

 店長に頭を下げるみっともない姿を見られるのは、覚悟していた。

 だが、その先で待っていたのは別の踏み絵だった。

「店長、これって……」

 店長から手渡されたものを見て、僕は絶句した。

 ひとつは今日の昼食代と交通費だったが、これはありがたい限りだった。

 もっとも、歩きで通っているので、交通費の方はそのまま僕の懐か、紫衣里の胃袋に収まることになる。

 だが、店長が差し出したものは、もうひとつあった。

「そんな借りは作りたくないって」

それは、まだ新品の封筒だった。その微妙な厚みは紛れもなく、あの12万円のものだ。

 僕が専門学校入学のために貯めてきた、そして板野星美が修学旅行に行くために必要な……。

「板野さんは?」

 本人がいないのを確かめた上で、僕は辛うじて口を開くことができた。

 そうしなければ、思わず手を伸ばして返してもらっていたところだ。

 情にもろい店長に頼んだのがいけなかった。その情の天秤に僕と板野さんをかけたら、健気で可愛い女の子の方を選ぶに決まっている。

 だが、僕がうかつだったのはそこではなかった。

 店長は、いつになく気難しい顔をして、暗い声で言った。

「その分のお金稼ごうとして無理してさ、体調崩しちゃったんだって」

板野さんの姿がどこにも見えないのは、そのせいだった。

 胸の痛みを感じながら尋ねた。

「どのくらいですか? 休むのって……」

 そのとき、僕の背後から間髪入れずに答えた声があった。

「休みません」

 振り向くと、そこには板野さんが険しい顔つきで立っていた。

 そこには怒りや軽蔑だけではない、何か別の感情があった。

 深い悲しみにも似た心の揺らぎが、僕の胸を締めつける。

「無理……しなくていいよ」

もっとも、無理をしているのは僕のほうだった。

 たぶん、笑ってみせても頬は引きつっていただろう。

 ある程度は覚悟していたが、板野さんの反応はそれを遥かに超えるものだった。

「余計なこと、しないでください」

 そのひとことには、カチンと来た。

「余計なことだとは……思ってない」

ここで頭を下げるくらいだったら、最初からあの12万円を差し出したりはしなかった。

 身を粉にして働いて貯めた、e-スポーツのプロになるために通う専門学校の入学金だ。

 だが、板野さんはさらに言葉を強めた。

「人の世話になってまで、修学旅行に行きたくありません」

 こう言われてしまうと、もう引っ込みがつかない。

「世話なんかしてない。貸すだけだ」

人に施しをして、いい気になるつもりなんかなかった。

 無理をしている板野さんを見るのがつらかっただけだ。

 しかも、叶えようとしているのはささやかだけど、切実な望みだった。

 僕が自分の親に言っているワガママに比べたら……。

 それだけに、板野さんのひと言はこたえた。

「そんな大金、バイト仲間に借りたなんて、母に言えません」

 言われてみれば、確かにそうだ。

 ゲーセンのバイトでいきなり12万円稼いできたら、親も不審がるだろう。

 だが、ここで引き下がることもできなかった。

 とっさに、とんでもないことを口走ってしまう

「それは……店長が」

「おいおい!」

 苦し紛れの思いつきで話を振られた店長が、かぶりを振った。

 明らかに、巻き込まれまいとしている。

 だいたい、いいオッサンが女子高生に12万円も渡したりしたら、どんな誤解を招くか分からない。

 助けを求めるのは、無理なようだった。

 なんとか声を絞り出したが、みっともないくらいに裏返る。

「板野さん、僕は……」

 これ以上、何て言ったらいいのか分からなかった。

 どう考えても、無理を言っているのは僕のほうだ。

 でも、はいそうですかと12万円を引っ込めるわけにもいかなくなっていた。

 何とかしてやりたいのが半分、格好がつかないのが半分。

 そんな気持ちが入り混じって胸がいっぱいになっているところへ持ってきて、板野さんの一言で話はさらに妙な方向へこじれていった。

「長谷尾さんからしたら、たいしたお金じゃないのかもしれませんけど」

 売り言葉に買い言葉というヤツだったのだろう。

でも、そう言われるとカチンときた。

「そんなワケないだろ」

 もう行くつもりはないけれど、確かに、専門学校は学費の割と安いところを選んだつもりだった。

 でも、親から見れば海のものとも山のものともつかぬ仕事を目指すことに変わりはない。

 勝手なことを言う以上、一切の援助は期待できなかった。

 僕にとっても、この12万円はギリギリの闘いで得たものだったのだ。

 板野さんは板野さんで、一歩も退かずに僕を睨み据える

「とにかく、今日は帰ってください。シフトはアタシが入ります」

ここまで来ると、もう意地の張り合いだった。

 店内の空気が張り詰めるのが、肌で分かる。

 客がゲームをする手を次々に止めて、睨み合う僕と板野さんを眺めていた。

 うろたえたのは店長だった。

「あ、ああ……」

店長としては、商売あがったりといったところだったろう。

 僕も、このままバイト先の営業を邪魔したくはなかった。

 紫衣里との生活を抱えて、ここをクビになりたくはない。

 そんな僕がどんなふうに見つめられているか気になって、目をすぐ隣にそらしてみる。

「あ……」

 板野さんと同じくらい険しい目つきにギクっとした。

 だが、その視線は僕に向けられてはいないらしい。

 気が付くと、傍らには見覚えのある男が立っていた。

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