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衣食に関するリアルな悩み・告白編

 納豆を啜って寝た翌朝のことだった。

 僕と紫衣里は、カーテンの隙間から差し込む朝日の中で、囁きと喘ぎを交わしていた。

「紫衣里……」

「あ……ん……」

つややかな唇を微かに開いて、甘い吐息が漏れる。

 細く、まっすぐな光に照らされた白い肌は、夏だというのに霜が降りたかのように冷たく輝いていた。

 僕は荒い息をついてもがきながら、その名を何度となく呼び続ける。

「紫衣里……紫衣里……紫衣里……!」

 しなやかな背中が豊かな胸を突き上げて、身体がのけぞる。

「くぅ……あ……!」

 それには構わず、僕は叫んだ

「紫衣里! シエリ!」

微かに震える声が、最後のため息を漏らす。

「あ……!」

 紫衣里は、そのまま力尽きて布団の上に果てた。

 白い光の中に、黒い髪が乱れてこぼれている。

 僕も、深く息をつきながら床の上に転がる。

「何だよ、ひと晩くらいこらえろって……」

 苦しげに上がったり下がったりする胸を横目で見ながら、どうしても鎮められない声を上げる。

 だが、紫衣里は聞かなかった。

 寝返りを打って僕に向き直ると、切なげに訴える。

「ダメ……もう私……ちゃんと買ってきて」

 ひと晩じゅう頑張って、もう体力の限界だった。

 それでも、この頼みだけは断れない。

「分かったよ……。ちょっとの間だけど、我慢してくれよ」

 少し疲れた顔の紫衣里は、精一杯の笑顔で答えた。

「うん……待ってる」

 僕はファスナーの開いた寝袋から跳ね起きると、大急ぎでTシャツと短パンに着替えた。

 果てしなく軽くなった財布をポケットに、最寄りのコンビニへと走る。

 まだ、スーパーは開いていなかったからだ。

 ひんやりとした朝の風を浴びて身体を冷やしながら、僕はアパートへと駆け戻る。

 買ってきたものを、紫衣里の前に突き出した。


「ほら、食え!」

 満面の笑みと共に、震える声が答える。

「ありがと……」

 目をしょぼつかせながら、紫衣里はずるずると布団から這い出した。

 さすがに下着一枚で寝かすのはアレなので、白地に青のストライプが入ったパジャマの上下は買ってある。結構高かったが、それがこのアパートの台所にトドメを刺した最終要因でもあった。

 そして、微かに残った息の根は今、紫衣里の胃袋に収まろうとしていた。

 僕ががっくりと膝を突いて、天井を仰ぐ。

 だが、やはり心配で、朝食にむしゃぶりつく紫衣里の様子をちらちら見ないではいられなかった。

「ゆっくり食えよ……」

 言ってるそばから、喉に詰まらせていれば世話はない。

「ん……ふぐう、ふ……」

 仕方なく背中を叩いてやると、再び紫衣里は手にしたものを片端から貪り食う。

 梅とおかかと鶉卵のバクダンおにぎりが1つ、意に溜まりそうなものをと思って買ってきたカレーパンとピロシキが1つずつ、思い切って買った照り焼きチキンが2ℓ入りのウーロン茶で一気に、可愛らしい唇の奥へと流し込まれていった。

 残されたコンビニの袋を畳みながら、恐る恐る尋ねてみる。

「これで……いいか?」

 紫衣里はちょこんと正座すると、すまして答えた。

「とりあえず」

 何事もなかったような顔をして、それはないんじゃないかとさすがに思った。

 これで、財布は完全に底を尽いた。

 明日から、食べるものはない。

 それなのに、怒る気力もない、というか、どうしても紫衣里に強く出られない。

 澄んだ瞳で見つめられると、肝心なことは何も言えなくなるのだ。

 そんな僕は甘いと、自分でも思う。

 とりあえず、皮肉を込めて口にしてみる。

「ごちそうさまは?」

 笑いながら、こう言うのがせいぜいのところだ。

 紫衣里はというと、今気づいたとでもいうような顔で、ちょこんと正座した。

 豊かな胸の前で、パチンと手を合わせる。

「ごちそうさまでした!」

言わんとしたことは、全く通じていないようだった。

 仕方なく、こっちも決まり文句で応じるしかない。

「いえいえ、お粗末様でした……」

 いや、お粗末なのは僕の懐だった。

 もう、1円もない。

 それでも、家賃の他に水道代と電気代だけは、なんとか維持しなければならなかった。

 だが、湯だけ飲んで生きていくこともできない。

 ここで紫衣里と一緒に生きていくためには、たった1つしか方法がなかった。

 ないないづくしの中で意気消沈してい僕に気付いたのか、ようやく、紫衣里は申し訳なさそうに顔を伏せた。

「ごめんね……」 

 上目遣いにそう言われると、やはり何も言えなくなる。

 僕はつい、強がってしまった。

「気にすんな」

 これは、本音だ。

 紫衣里が気にしてくれただけで充分だった。

 僕の腹はもう、決まっている。

 あの12万円のせいでいろいろと気まずいが、背に腹は代えられない。

 今日にでもバイト先に、頭を下げてシフトを入れに行くつもりだった。

 紫衣里は身体をすくめて、再び謝った。

「ごめんね……」

この辺の事情は、紫衣里も察してくれていたようだった。

家計を圧迫しているという自覚はあったらしい。

 だが、俺には紫衣里を責める気はない。恩を着せる気もない。

 武士は食わねど高楊枝とばかりに、胸を張る。

「まあ、なんとかなるさ」

断言はできなかったが、それでもきっぱり言い切る。

もしかしたらクビになってるかもしれなかったが、そのときはそのときだった。

僕は、ブルゴン座で権力者お抱えの下手な役者を舞台から追い出して大見得を切っている、シラノ・ド・ベルジュラックになったような気分だった。

 もう、あの12万円に未練はない。

 だが、紫衣里が気にしていたのは、そこではなかった。

 さっきとは打って変わって大真面目な顔で言った。

「迷惑なら、いつでもスプーン鳴らすから」

 家計と食費と収入源のことで頭がいっぱいだった僕は、何のことだか分からなかった。

「スプーン?」

 聞き返すと、紫衣里はパジャマの胸元を開いた。

僕は思わず目をそらしたが、紫衣里は硬い声で囁いた。

「見て……」

 そう言われても、ここは拒むところだ。

「いや……ダメだよ、そんなの……」

 と、きれいごとを言いながらも目がそっちを見てしまうのは、悲しい男の性(セイではない! サガだ!)と言わざるを得ない。

 それに気づいたのか気付かなかったのか、紫衣里は低い声でぼそりと言った。

「これ……」

 何のことだか分からず、僕は聞き返さないわけにはいかなかった。

「……え?」

どうも心配して……というかちょっと期待していたのとは違う展開だった。

 拍子抜けして勢いも削がれ、ぽかんとしている僕につきつけられたものがある。

 紫衣里は、僕を見据えて、はっきりと言った。

「それでいいなら……鳴らすよ」

 白く細い指先に吊るされた銀のスプーンが、冷たく輝いている。

 だが、あの、鬼の眼をした老人は言った。

 ……1カ月の間、鳴らしてはいけない

「ダメだ」

 僕は即答した。

 返ってくる声が、アパートの小さな部屋に重く響きわたる。

「……どうして?」

 真面目な顔で睨みつける紫衣里に、僕は真っ向から答えた。

「いつまでも、君と一緒にいたい」

 葉の浮くような言葉だったが、本気だった。

 問題は、それをどうやって実現するかということだ。

 だが、金が欲しかったら、働けばいい。それだけのことだ。

 紫衣里はというと、僕から目を反らして答える

「無理……」

 力なくつぶやく紫衣里に、僕は告白の勢いに任せて言い切った。

「やる! ……やってみせる!

実を言うと、もうe-スポーツのプロになることなんかどうでもよくなっていた。

 何なら、高校を辞めて紫衣里のために働いたっていい。

 だが、そこまで覚悟を決めた僕への返事は、予想を遥かに超えていた。

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