衣食に関するリアルな悩み 衣服編
僕は、いらいらしながら紫衣里を真剣に口説いていた。
「あのさ……早くしてくれないかな」
あふれ返りそうな感情を抑えて、必死で囁く。
だが、紫衣里は甘い声をたてるだけだった。
「……無理言わないでよ」
僕の切実な願いを、紫衣里は聞いてくれない。
もう、何十分、こうしているだろうか。
焦らすのも、たいがいにしてほしい。
爆発しそうになりながら、思いのたけを告げる。
「……もう、待てないよ」
ちょっと怒ったような声で、紫衣里は僕をたしなめる。
それは、年上のお姉さんが弟分のような少年をからかうときの口調に似ていた。
「……女の子にもね、それなりの準備ってものがあるの」
そんな言い方をされると、ちょっと悔しい。
僕もつい、ムキになった。
「分かってるだろ……僕の気持ちも考えてよ」
きっと、まだあられもない格好をしているに決まっている。
もう、このままではいられなかった。
我慢の限界まで来ている僕を、紫衣里は無邪気な笑いでからかった。
「ふふ……せっかちなんだから」
そんなこと知らない、という口調の返事が、カーテンの向こうから聞こえた。
そう言われると、余計にいきり立たないではいられない。
「そんなこと言われたって……分かんないよ、男なんだから」
女の都合など、僕には分からない。
必死で声を低めてはいるが、叫び出したいほどの衝動は次第に高まってくる。
紫衣里はというと、平然と僕に囁き続ける。
「心配しないで……私なら、大丈夫だから」
何を言われようと全く気にも留めない様子で、衣擦れの音を立ててみせる。
これを何度、聞かされただろうか。
そこで、理性が吹き飛んだ。
たまらず、僕は絶叫する。
「だったら自分の下着のサイズくらい把握してろよ!
紫衣里との生活を続けているうちに、いい加減、着替えその他の洗濯が間に合わなくなってきていた。
こういう買い物は僕一人で行けるものではないので、当然、紫衣里と一緒になる。
それでも店長や板野さんとあんなことがあったので、あれからバイト先に顔を出すのは、ちょっと気が引けた。
ありがたいことに、ゲームセンターのあるショッピングモールからだいぶ離れたところに行けば、大型スーパーはある。
僕はとりあえず、これから必要になりそうなものは、ここで買うことにしたのだった。
だが、それにも限界がありそうだった。
そもそも女性下着売り場などは、男がうろうろするものではない。
妙な噂の種になるのがオチだ。
「やだ……何アレ……」
「変態よ、変態……」
あちこちから聞こえる囁きと、どこからともなく突き刺さる視線が、痛い。
焦りを通り越して、恐怖が全身を駆け巡る。
このままでは、冗談抜きで警察に通報されかねない。
声を立てるわけにもいかず、僕は呻いた。
「早くしてくれ……」
脱ぐ手間の割に、紫衣里はさっさと着替えて試着室から飛び出してきた。
「お待たせ~!」
着ているのは、見るからにぶかぶかの、僕の服だ。
その手に商品を持った紫衣里の手を引っ掴んでレジに走り、そのままバイトっぽいおばちゃんに突き出す。
僕と紫衣里の会話と、周りのひそひそ話を聞いていたのかいなかったのか、不愛想な顔で商品を受け取る。
とりあえず、言い訳だけはしておくことにした。
「あ、コレ僕の妹です妹なんです妹、はははは……」
おばちゃんは怪訝そうにレジのキーを叩く。
代金は、結構な額になっていた。
男の下着をまとめて買うのとはわけが違う。
そろそろ底を尽きはじめている現金を、僕は財布からしぶしぶ抜き出して支払った。
袋詰めされた下着を紫衣里に押し付けると、僕は苛立ちを声にしてぶつける。
「行くぞ!」
当の紫衣里はきょとんとするばかりだ。
「え……?」
白く柔らかい手を引いたまま、僕は猛然たるダッシュで女性下着売り場から逃げ出した。
どのくらい経っただろうか。
店から出てしばらく歩いたところで、僕はつぶやいた。
「もう、このくらいでいいだろ……」
左右の手は、衣料やら食料品やらを詰めこんだ特大のレジ袋で塞がっている。
これ以上、買うのは無理だった。
そのぎりぎりの判断を、紫衣里はたぶん、分かっていない。
見当違いの気遣いをしてくる。
「汗かいちゃったね……帰ってからシャワー浴びよっか」
いかに冷房が利いているといっても、かなり大きなショッピングモールだ。
あちこち歩きまわって必要なものを買いそろえれば、汗も出る。
もっとも、紫衣里は涼しい顔をしていたが。
「はいはいご自由に!」
僕は苛立ち紛れに答える。
実を言うと、僕の着るものもそんなにはない。
なにしろ、これまでも毎朝毎晩、シャワーを浴びた後、ぶかぶかのを紫衣里に提供していたのだ。
おまけに、貯蓄も底をついていた。
佐藤と勝負した次の日、僕は店長にあの12万円を「期限なしで貸すだけだ」と押し付けたのだった。
それっきり、顔も出しづらくなって、しばらくアルバイトを休むことにしていた。
従って、収入もない。
さらに、こらえなければならないことがあった。
全然モテはしないが、僕も男だということだ。
思えばこの数日、理性を保つのは大変だった。
男の一人住まいのアパートでは、一張羅の下着を洗っては干す場所やサイクルにも限界がある。
僕の服と一緒に洗うわけにもいかない。
室内でしか干せない上に、天気のいい日ばかりでもない。
とうとう、ぶかぶかの服の下は何も付けられなくなってしまった。
近くを通られるたびに、豊かな胸や、くっきりとした身体の曲線を意識しないわけにはいかない。
顔が火照る思いで、一緒に下着を買いに行かなくてはならなかったのはそういうわけだった。
それでも、夏空の下を歩いていると、気持ちが晴れやかになってくる。
歩くのもそれほど苦にはならなくなってきたところで、紫衣里が急に立ち止まった。
「へえ、こんなところがあったんだ……」
覗きこんでいるのは、大きな鐘撞き堂がある古い寺の境内だった。
全然、気が付かなかった。
買い物に来たときには、モノがモノだけに、さっさと済ませて帰ろうと気が急いていたからだろう。
それに、興味もない。
だが、紫衣里と一緒なら、話は別だった。
「……入ってみるか?」
男の煩悩を払うには、いいかもしれない。
紫衣里は、こくんと頷いた。
立派な楼門を、軽い足取りでくぐっていく。
僕は両手で荷物を下げた不格好な姿で、その後を追った。
門に掲げられていた由来によれば、この寺は9世紀の初めに建てられたらしい。
織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった東海地方の三英傑の保護を受けてきたという。
今でもお遍路さんが回る札所になっているらしい。
だが、そんなことは紫衣里の知ったことではない。
「あ、何この木、何この木、変、変、変……!」
紫衣里がバチ当たりなことを言ったのは、境内にある傾いだ松の枝のことだ。
ちょっと見ると、雲の間を飛ぶ龍のようにも見える。
下から見ると空に浮かんでいるような緑が、夏の光に眩しい。
その青空の下で、僕の服を不格好に着た紫衣里の白い肌はやっぱりよく映えた。
「ねえ、夏休み、あとどのくらい?」
紫衣里の楽しげな声が、かえって僕を現実に引き戻した。
確かに、こんな時間はいつまでも続かない。
暦の上では、もう秋が来ている。
「二週間くらい……かな?」
半月もすれば、この寺でもツクツクホーシが鳴きはじめて、夏の終わりを告げるだろう。
あの鬼の眼をした老人が告げた期限が来るのも、その頃だ。
僕の服を着た紫衣里の胸元では、あの銀のスプーンが夏の光に輝いている。
これを鳴らすことなど、あるはずがない。
紫衣里は、ずっと僕のもとで暮らすことになる。
僕は、このまま高校に通うべきだろうか。
それとも、e-スポーツのプロなど諦めて、退学して仕事を探すべきだろうか。
いや、何よりもその前に、実家の両親との対決が待っている。
決してゲームなどではない現実の戦いでは、空を駆ける龍になどなれそうになかった。




