第三話
おれの足首を冷気が撫でた。それだけではない。おれが中へ入ると息が白く濁った。さながら冷蔵庫だ。空調がおかしくなったのかとも思ったが、よく考えてみるとまったく空気を調えていないことに気がついたので、これは空調の故障でないと確信した。となると、考えられるのは魔法しかない。中にいる客はみな両腕を抱えて震えているし、テーブルの上には暖かい飲み物が置かれている。大勢の客がおれをめがけて突撃してきた。
「「その戸を閉じちゃあいかん!!」」
おれは戸を閉じるのと同時に、波打ち際の荒波に揉まれる海草のようにくしゃくしゃにされて、訳もわからぬまま怒鳴られた。何故戸を閉めた、だとか遅かった、だのよくわからない語がおれの上を飛び交い、唇を真っ青にした青年に胸ぐらを掴まれる。
「何故戸を閉めた!?」
「ああ? 何言ってんだ? 戸を開けたら閉めるって子供の頃に母親に教わらなかったのか?」
「うるせえ! 今はそれどころじゃねえんだよお! 見てわかんねえのか!?」
「てめえの顔がグールみてえに青っちろい顔だってこと以外わかんねえよタコ!」
嘘だ。本当はわかっている。すべてわかっている。どうして酒場の中が冷蔵庫みたいになっているのかも、それが一人の魔法使いによって引き起こされていることも知っている。だが、おれは苛立っていた。いきなり人の胸ぐらに掴みかかるその心意気に腹を立てていた。だから嘘を吐いた。
青年は、いきなりおれの胸ぐらを掴んだことをよくないと思っているらしく、悴んだ手を徐に離すとおれの肩に手を回して、見てみろと言わんばかりにある一点を指差した。やはりいた。そこには、右耳のピアスを揺らし、黄金の蛇を首に巻き、魔法使い特有のローブ纏い、長い杖をカウンターに立て掛け、頭上に魔素の渦を作った――言わずもがな、冷気はそこからでている――真っ赤な髪の少女が、凍ったミルクを幾つもカウンターに並べて座っている。しかも、ミルクが凍る度に亭主に注文しているせいで、それはどんどん増えていくのだった。
「待て待て。状況は何となくわかった。誰か! こうなった経緯を教えてくれ!」
今度はおれが怒鳴った。いくら魔法使いが面倒な奴ばかりと言えど、ここまで面倒臭い輩は珍しいと言わざるを得ない。何故店を氷漬けにしている? 確かにおれを殺すつもりならば、中々優秀な罠だがそれに他人を巻き込むのはどうかしている。つまり、頭が狂っている。
「あ、あいつが来てからだ。あの魔法使いがいきなりやって来て、『今からここを閉鎖します』とか言い出したんだよお」「お陰で入ることはできても出ることはできない地獄のできあがりだあ」「あいつを倒そうとした奴は氷漬けにされちまうし、なんなんだよお! おれたちが何をしたんだよお!」
「……」
正解は簡単だ。なにもしていない。客は誰一人としてなにもしていない。強いて非を挙げるとするならば、魔法使いなぞ存在するだけで厄介事を引き起こすわけで、そんな奴に遭遇した自分の不運を責めるべきだろう。尤も、ここにはあいつ以外におれという”大”魔法使いがいる。まああれだ、ここにいる客には今日が厄日だったということで諦めてもらうしかない。
「……魔法使いは掛けちゃ駄目だ。足さなくちゃあならない。それと、すまん」
「な、何言ってんだこの黒髪の兄ちゃんは。頭がおかしくなっちまったのか?」
「いいや、先にあんたらに謝ろうと思ってな。これからすっげえ迷惑をかけることになると思うからな」
「お、おい、どういうことだ?」
黄金の蛇がこちらを向いた。明らかに動揺している。おれにつくべきか奴につくべきかで揺れているのだろうがそんなことはどうでもよかった。何故なら蛇がこちらを向いたのと同時に奴もこちらを向いたのだからな。奴はおれを見るや否や蛇を振り解いて、ただでさえ鋭い目つきをナイフのように尖らせて立ち上がった。
「こ、れ、は、な、に、よ!」
奴が杖を振る。極限まで圧縮した冷気の玉――『鬼醒之氷獄弾』が放たれた。
「おいおい、ここは戦場か?」
笑わせる。『鬼醒之氷獄弾』は個人が扱える攻撃魔法でも最高格の第一格式の魔法だ。効力を一言で説明すれば、一つ撃つと半径五百歩の振動するものがすべて運動を止める。こんな魔法は戦争でもしない限り使われないし使わない。勿論、平常時の使用は堅く禁止されており犯せば重い罰則は免れない。それを平気でしかも一般人を巻き込むことも厭わず仕掛けてくるとは、おれの思った通りこの娘は頭のネジが数本外れていると見て間違いないようだ。
『鬼醒之氷獄弾』が炸裂する寸前、おれは指を鳴らした。それだけで『鬼醒之氷獄弾』は霧散する。
「……」
奴がニヤリと笑った。
チクショウ、してやられた。今のでおれの実力の一端が露見してしまった。この娘……単なる馬鹿かと思ったが意外に頭の切れる奴だった。伊達に実力があるだけではない。胆力もあるらしい。
奴が杖を振るうと、霧散させた粒子が再び集まって一枚の手紙を形作った。それはおれが黄金の蛇に咥えさせた手紙だった。手紙はふわふわと床に落ちていき――
「伏せろ!」
おれが叫んだのとほぼ同時に手紙が爆発した。威力は『鬼醒之氷獄弾』に遠く及ばないものの、それでも人を殺傷する分には十分で、もしおれが『グレタ式汎用結界』を展開して手紙を覆っていなかったら、間違いなく多数の死傷者が出たことは間違いない。滅茶苦茶な奴だ。
「中々やるじゃない」
「あんたもガキのくせに上々だ」
「私は十七よ! ガキじゃないわ!」
奴が更に攻撃をしようと杖を構えた。だが、おれもやられっぱなしじゃない。今しがたの結界を筒状に変形させて奴に向かって放出させる。響き渡る大音声と衝撃波が直線上の物をすべて薙ぎ倒し壁を突き抜けた。奴は結界を舟の舳先のように尖らせてそれを受け流している。亭主の咽び声が聞こえたような気がしたが、聞かなかったことにしよう。
「……手紙は読んでくれたか? ガキんちょ」
「ガキじゃない! 何が『いくらで売れた?』よ! あなたの持ち物は誰も買ってくれなかったわ。何処へ行っても馬鹿にしてるのかって罵られたの。幻術でも掛けてるんでしょ。解きなさいよ」
「いやだね。その言い方だとまだおれの持ち物は持っているみたいだな。返してくれないか?」
「嫌よ」
「所有権が移っているならまだしも、幻術が有効ってことはまだおれの所有物なわけだろ? おれに返すのが道理ってもんだと思うが」
「どうせもうすぐ死人になるのに物を返すってのもおかしな話よ。いい? あなたはここで死ぬの。『雷撃牢の陣』と『鬼醒之氷獄弾』を破ったくらいでいい気にならないで。あんな魔法私からしてみれば小手先の魔法なんだから」
強がっている……ようには見えなかった。どうやら本当に小手先で第一格式の魔法を扱えるらしい。ということはまともに戦うと間違いなくここら一帯が崩壊してしまう。おれはこの国を気に入っているので、ここの景観を損ねるようなことはしたくない。すでに手遅れな感は否めないが、あれは奴が受け流したのがいけないのだ。打ち消さなかった奴にすべての責任がある。
「はあー面倒くせえ。さっさとここにあるものは回収させてもらうか」
おれは亭内に響くように指を鳴らした。これで所有権がおれの物は帰ってくるはずだ。全部回収したらさっさと退散しよう。これ以上の面倒事は誠に勘弁蒙りたい。大体、いつから魔法使いと迷惑が等式で成り立っているんだ? 昔はおれみたいに正体を隠していた魔法使いがほとんどだったというのに……あれ?
帰ってきたのは黄金の蛇だけだった。おれに胴を握られて申し訳なさそうにしている。
「おい小娘。おれの持ち物は何処へやった?」
「さあね。教えるわけないじゃない」
奴は不敵に笑う。ここには持ってきていないようだ。
魔法使いにとって所有権というのは非常に重要な要素である。物を引き寄せたり引き離したり、魔法をかけたりするのは必ず自分に所有権のあるものでなければならない。が、例外も存在する。市場に流通する貨幣がそうだ。貨幣は人々を渡り歩く。つまり、所有権がコロコロ変わる。このような物に魔法をかけるのは簡単な反面上書きすることもまた容易なのだ。だから、奴はおれの金貨に魔法をかけられた。
まあ、これにはちょっとしたミソがある。例えばずっとポケットに入れていた思い出の貨幣。例えば海賊の財宝。このようなものには貨幣といえども他人が魔法をかけることは難しかったりする。四本の金の鎖がすぐにおれに与したのも、ずっとおれの腰巻きに巻かれていたからだし、黄金の蛇が中々おれに与しなかったのも、蛇を創るときに使った金貨に皮袋の金貨が混じっていたからだ。
それは魔法を行使する際にも言える。魔法使いが物を壊したり怪我をさせたりしたら、基本的にその張本人でなければ修復、治癒したりすることはできない。極論、魔法使いが修復や治癒を拒否したのなら、壊れたまま傷は癒えぬままなのだ。勿論、そのようなことでは社会が成り立たなくなってしまうので、所有権を強制移譲させる魔法も存在する。まあ、そのいった魔法は個人で扱えないようなものなので、おいそれと使えるものではない。
「隠してきたのか」
「もしものときに備えてね。私だって馬鹿じゃないわ。『雷撃牢の陣』を単独で脱出するような人間に無策で挑むわけないじゃない」
おれの書いた手紙には続きがある。『いくらで売れた? トト一番の酒場で待つ』がおれの書いた手紙だ。魔法使いは基本的に隠者であることを好む――遭遇したら厄介なだけなのだ――。だから、人が多く集まるところへ来れば大事にはならないだろうと踏んでいた。それがどうだ? 奴はそんなのお構いなしに魔法をぶっぱなすではないか。綺麗に裏を掻かれた形だ。
こうなってしまうと、寧ろ状況はおれに不利になる。おれは客を守りながら奴と対峙しなくてはならなくなった。こうなると正攻法ではとてもじゃないが戦えない。搦め手を使わなくては。
「そうか。なるほど、よし、決めた」
「何がよ? 死ぬ覚悟でも決まったのかしら? だったらありがたいのだけど」
「あんたがおれの持ち物を持っていないってんなら仕方がない。日を改めよう」
「はあ!? 何言ってるの!? 改める……って私が律儀にあなたの持ち物を持ってくるとでも? デートの約束じゃないのよ!?」
「それも面白いな。デートをしよう。おれとあんたの二人でこの都市を心行くまで回ろう。面白いことになる。魔法使い同士がデートだなんて恐らくこの世界が始まって以来のことだろうからな!」
「な……な……なな……! ふ、ふざけないで! あなたはここで死ぬの! 私に殺されてね! なんで私があんたみたいな変態とデデデ、デートしなくちゃいけないの!?」
奴は耳まで真っ赤になった。赤い髪、赤い瞳と合わさってなんだかよくわからない赤い生き物が出来上がった。よくもまあこんな寒い亭内でここまで赤くなれるものだ。というか、そこまでムキにならずともよくないか? おれはほんの冗談で言っただけだぞ? 魔法使い同士でデートなぞ、気味が悪いったら。本当にそんなことをしたら都市の一つや二つ消し飛ぶからな?
「面白そうだから」
「はあ!?」
「おれが変態かどうかはさておき、じゃあ帰らせてもらうからな。明日の夕方、場所は……そうだな、リカ島の中央議事堂前の噴水でどうだ? そこならお互い迷わないだろ」
おれは指を鳴らす。奴の魔法を解除した。一気に暖かい空気が亭内を包み込み、客たちから歓喜の声が沸き上がった。
「え? え、え、え? ちょっと待っ――」
「かかった!」
奴がおれの背を追いかけてきたその瞬間、おれは奴に向かって二つの魔法を放った。零式結界魔法――『静謐』で奴を包み、第一格式攻撃魔法――『鬼醒之氷獄弾』を結界内で炸裂させる。半径五百歩を絶対零度にする魔法を結界内で食らうとどうなるのか。結界内は真っ白になっているので中は見えないが、まあ死んでいると見て間違いない。
「……。……魔法使い同士が仲良くつるむわけないだろ。あんたが持ってないならこの蛇に聞くまでだ」
正直な話どうして奴が動揺していたのかおれには理解できなかった。何度も言うように、俺を含めて魔法使いという生き物は陰湿で性悪で動くトラブルメーカーだ。近くにいるだけで厄災を振り撒く。そんな奴らが仲良くなれる道理などない。あるのは向け合う杖と、飛び交う魔法だけ。それを奴も知らないはずがない。
恋焦がれる乙女でもあるまいに、とおれは首を振った。おれは宙に浮いた結界を床に落とした。ガラスが割れるような音と共に一回り小さな球状結界が現れた。
「まじかよ」
おれは結界を一つしか張っていない。つまり、新たに現れたこの結界はおれのものではない。そしてこれが壊れていないということは、奴が生きているということの証左でもあった。おれはその結界を叩き壊す。すると、更に結界が現れた。二枚、三枚、四枚、五枚と次々に割っていっても奴の姿は現れず、二十枚目を割った辺りから『鬼醒之氷獄弾』の効力が薄れ始め、二十五枚目になると、結界にうっすらと氷の膜が張られているだけになっていた。
奴はその中で踞っていた。
幸い反撃に遭うことはなかった。奴も結界を創ることに精一杯でそれどころではなかったらしい。それに『鬼醒之氷獄弾』の冷気を完全に防ぐことはできなかったようだ。おれが最後の一枚を割ると、極冷の冷気と共に奴が床に落ちた。歯をガチガチと震わせ、さっきまで赤かった顔も髪も青くして半死半生状態だ。
「皆、迷惑をかけたな。だが、悪い魔法使いはおれが退治したからもう安心だ。これから好きなだけ酒を飲んでくれ。それと亭主、壁を壊して悪かった」
おれは壁へ向かって指を鳴らした。ぽっかりと開いた壁はそれだけで元のように直る。客たちの驚愕の眼差しにこそばゆさを感じつつ極力それを顔に出さないよう努め、亭主から厚手の毛布を一つ買い取ると奴を簀巻きにして黄金の蛇を鎖代わりに縛り上げた。しぶとさに免じて毛布には温熱の魔法をかけてやった。
このお転婆魔法使いは再教育が必要なようだからな。おれの持ち物の在処も問い質すのも含めて一度宿まで持ち帰ることにしよう。奴が目を覚ましたらじっくり尋問してやる。じっくり、じっくり、実に魔法使いらしいやり方で尋問をしようか。
「その魔法使いはあんたの知り合いなのか?」
客の一人が簀巻きの奴を指差しておれに問うた。
「いや、お互い裸を見ただけだ」
嘘は言っていない。おれは奴を肩に担ぎ上げると客の不思議そうな顔を尻目に『魚追い亭』をあとにした。
本日分はここまでとなります。本当は毎日更新……といきたいところなのですが、自分の執筆速度ではそれも厳しい為一週間に一二話程度の更新となると思います。それでも宜しければ、末永くお付き合いください。