第一話
南風は朗らかに、照りつける太陽と木陰の間を渡り歩く。おれはロールトン大陸の南に位置する都市国家トトを目指して歩いていた。旅の途中に立ち寄った宿場町で聞いた話によると、トトは水の都とも呼ばれているそうだ。この都市は大陸一大きいメセニー川の河口、無数の三角州群に発達した河口都市で、毎年春になると上流の雪解け水が川の水位を押し上げ、三角州内に作られた迷路じみた道という道を水没させてしまうらしい。
実に面白そうな都市である。おれはコンパスを取り出し方角を確かめ、日除けのマントを南風に翻しながら、飛ばされそうになる帽子を押さえつけ左目に着けた眼帯の位置を調整した。周りは赤茶けた砂漠が広がっているというのに、この先に水の都があるとはなんとも信じ難い話だが、宿の客が口を揃えて言うので本当なのだろう。点在する青々とした一本木がそれを裏付けているように思えた。
暫く歩いていると遠くにキラキラしたものが見えた。蜃気楼か、と疑いつつ望遠鏡を覗くと、そこには一本の大きな川――メセニー川――があった。おれの歩む道は川に沿って続いていた。足早になる気持ちを押さえもせず、おれの足は駆け足となった。何せ、五日ぶりの水浴びができるのだ。道中、水溜まりくらいの泉で体は拭けた。しかし、爽快感がない。擦り切れた布切れから滴る灰色の液体は、おれの汚れなのかはたまた布切れ元々の汚れなのか、それとも泉の水が濁っていたからなのかよくわからないし、何より気分が悪い。
おれは川の袂に生えていた青い木の下まで来ると、周囲を確認し――別に覗きを警戒したわけじゃない。盗賊に尾行されていたりしないかを確かめただけだ――服を脱いだ。そして、そのまま飛び込んだ。川の水は温かった。だが、澄んでいた。川底の小石は丸っこくて踏んでも痛くなかった。小魚がおれの周りを遊泳し、捕まえようと手を伸ばすとサッと逃げられた。伸びた髪の毛に水をふんだんに含ませ頭皮をマッサージした。布切れで体をごしごしと拭いた。一度岸に上がって荷物の中から剃刀を取り出し、水面を鏡に伸びた髭を剃った。
そうして、一通りのことが終わると、おれは足を川へ入れたまま体を岸へ投げ出した。丁度ここは木陰となっていて一眠りするのに具合がよかったのだ。おれは伸びた髪の毛をいじくりつつ、トトに床屋はあるのだろうか、と考えているといつの間に眠ってしまっていた。だから、夢と現を行ったり来たり、船を漕いでいる最中に水の跳ねる音が聞こえたときは心底驚いた。盗賊かと跳ね起きたおれは、近くに忍ばせておいた短刀をひっ掴んで周囲をねめ回す。
「動くな!」
「――っ! どうして!?」
そこにいたのは裸の少女だった。右耳のピアスが羞恥に揺れている。この辺りの出身ではないらしく、白い素肌には日焼けの跡がうっすらとついていた。胸は大きくないものの、実に健康そうな体つきだった。燃えるように赤い色の髪の毛は肩で切り揃えられ、同じく赤色の瞳には力強い決意が宿っている。水浴びに来たと見え、岸に彼女の荷物がまとめられていた。ここからでは幾分か距離があるものの、少女の持ち物から察するに、彼女は魔法使いのようだ。南方用に生地を薄くした日除けローブと魔法使い特有の長い杖がきちんと畳まれている。おれは背筋を伝う嫌な予感を十全に感じた。
「魔法使いか……」
「惰眠の魔法を掛けた筈よ。どうして目を覚ますの」
「残念、おれはお守りを持っているんだ」おれは手首につけたミサンガを振った。魔法を無効化した反動でほとんど焼き切れてしまっているからもう効果を発揮することはないだろう。
「残念だったな。それと動かないでもらおうか」
「それはこちらの台詞よ隻眼の寝坊助さん。足元をご覧なさい」
「なんだと?」
短刀を突きつけながら足元に目を向けると、薄紫色に光る魔法陣が展開されていた。なるほど、それで彼女は余裕綽々なのだな。おれに襲われる心配がないから隠しもせずに堂々としているのだ。
「旅人のあなたでもこの魔法がどんなものなのか知らないわけじゃないでしょう? だったら、私の水浴びが終わるまでそこで大人しくしていることね」
「『雷撃牢の陣』……か」
又の名を『マクリーの陣』。憎々しい名前だ。法陣から出ようとすると雷撃が降ってくる必殺の魔法だったか。罪人を捕らえておくときによく使われる魔法で、おれの記憶が正しければ法陣内には武器防具の一切の持ち込みが禁止されているはずだ。持っていたら雷撃が落ちてくる。ということは、おれの持っている短刀は――。
構えていた短刀は砂となっておれの手から零れ落ちた。
彼女の魔法陣は惚ほぼ完璧だった。何歳なのかは知らないが、きっとまだ十代だろう。それでこの精度の魔法陣を描くことのできる魔法使いとなると、一国に一人二人いるかどうかだ。おれはこの魔法陣に免じて大人しく水浴びを待つことにした。
太陽を見てみれば既に傾き始め、おれが寝ていた場所はとうに日向となっている。ここで昼寝をして少なくとも四時間は経過しただろう。完全に眠ってしまっていたようだ。さっきは寝ていないなどと反論したが、真っ赤な嘘になってしまった。
しばらくして、魔法使いの少女が水浴び終えて岸に上がった。体を伝う水滴を手で弾き飛ばし髪を絞る。指を弾くと、魔法のポーチからタオルが飛び出して彼女の手に収まった。体を拭き、髪を乾かし、下着を身に付けて服を着る。日除けのマントと杖を持ち、ポーチを提げるとおれの方へ近づいてきた。
「あんた、名前は?」
おれが尋ねる。
「教えてどうするの? あなたに教えても意味ないわ」
「そんなことないさ。挨拶ってやつだ。人と人が出会ったらまず最初にするだろ? 私は某です。あなたは? ってな」
「ふん、馬鹿じゃないの? 私の水浴びを見ていた人に教えるわけないでしょう? 下心が透けて見えるのよ」
「それは嘘だな」
「どうしてよ」
少女が顔をしかめた。
「おれは下の毛も満足に生え揃っていないようなガキは眼中にないからな」
「こんのっ――!」
赤い髪さながらに顔を赤くした魔法使いが股に手を当てる。
裸は見られてもなんともないのにそこには羞恥心を持つのか、とおれは若干呆れつつも、これはしめたと更なる追い討ちをかけることにした。
「世の中甘く見ないこった。おれはあんたの裸を見ようとこれっぽっちも興奮しない。色の薄い乳首もガキっぽいし、浮き出たあばらもガキ臭い。ましてやつんつるてんときたら……」
「……殺す」
「なんだって?」
少女は静かに杖を握り込んだ。それだけで周囲の魔素が渦を巻き彼女の上空に集まり始める。少しやり過ぎただろうか、と思う間もなく渦は大きさを増し、おれが荷物を置いていた木が渦に触れてどろどろに溶けた。がしかし、あわやおれを巻き込む寸前、魔素の渦は唐突に霧散した。
「いいことを思い付いたわ」
魔法使いは急ににこやかになった。辛うじて溶けた木に飲まれなかったおれの荷物の方へ歩いていく。そのままおれの荷物をひっくり返した。どさどさという音と共に落ちてくるのは、コンパスに手紙、羽根ペン、インクと始まり、着替えやちょっとした魔法具に野宿用のあれこれ、最後の最後に旅費の詰まった小さな皮袋が、ちゃりんと落ちた。
「生憎おれは大した物は持ってないぞ」
「はん、はったりね。この紙は上質紙よ? 吟遊詩人ならまだしも、そんなものを持っている旅人が何処にいるの?」
魔法使いは値踏みするようにおれを見る。
「ここにいるが?」
「黙りなさい」
魔法使いはおれの言葉を遮ると、皮袋を拾い上げた。苦戦しながら紐を解くと中から金貨が三枚と銀貨が五枚、銅貨が八枚出てきた。これがおれの全財産だ――というのは嘘である。旅人であるおれが盗賊対策をしていないわけがない。彼女の持つ皮袋はダミーで、本物はおれの腰巻きに巻き付けてある。その金額は皮袋に入れた金額の十倍以上だ。
「言ったろ? それが全財産だ」
「嘘ね」
「本当だ」
「嘘よ。こんなに口の固い財布は開いたことのない財布だからではなくて? どうせ本物は腰巻きにでも巻き付けてるんでしょ?」
「……」
魔法使いは無駄に勘がいいことが知られている。それはまた魔法使いが嫌われる一番の原因でもある。本人に自覚がないのが厄介なところで、魔法使いと仲良くなろうとか考える頭のおかしな連中は、大体これで奴等の無自覚な陰湿さに気が付き離れていく。そもそも、奴等に絡まれると大抵ろくなことにならないのだから近づくべきではないのだ。これは万人に布教してもいい。何せ現在進行形で面倒に巻き込まれているのだからな。
「取りなさい」
「何をだ?」
「腰巻きよ」
「はあー、わかった。ほらよ、クソ野郎」
おれは腰巻きを外して全裸になると魔法使いの顔をめがけて投げつけた。てっきり避けるものと思っていたが、腰巻きは彼女の顔面に命中した。
「ぎゃっ、何するのよ汚らわしい! でも、これから起きることに免じて許してあげるわ」
「ふん」
陰湿な顔の魔法使いはおれの腰巻きをまさぐり、目当ての金貨三十五枚を見つけると満面の笑みを浮かべた。端から見ると男の腰巻きをまさぐる変態に見えなくもない。というか、見える。この面倒が早く片付かないかな、と辟易していると彼女はおれの方をちらちら見ながら赤面していた。
「……ちょっと!」
「なんだ? 追い剥ぎ野郎のクソッタレ魔法使い」
「私は野郎じゃない! それにクソッタレでもない! ってそれりも……前、前を隠しなさいよ!」
「……」
本当になんなんだこの魔女は。それがおれの率直な感想だった。自分の裸は見られても何ともないのに、おれの裸を見て顔を赤くして……まさか、このガキ――
「ふ、ふん! まあいいわ。これだけあれば十分ね。あなた……覚悟はいい?」
「そんなことよりも早くここから出してくれないか? おれはこの先のトトでやるべきことがあるんだ」
「あら、じゃあそれは他の人にお願いするといいわ。だってあなた、ここで死ぬんだもの。その余裕面もここまでよ。泣いて謝ったってもう遅いわ。私、自分の裸を見た人は必ず殺すことにしているの」
「……」
だから余裕だったのか。どうりで手際がよかったはずだ。大方おれがそのまま寝ていたら水浴びを終えた後、立ち去ってから『雷撃牢の陣』を解除したのだろうな。だが、おれは起きてしまった。だから殺す。隠しもしなかったのは彼女がおれのことを殺すと決めていたからだ。
魔法使いは両手に五枚ずつ金貨を握ると、その金貨は四本の鎖に変化した。それはおれの手足に絡み付き大の字に縛り付ける。次に魔法使いが三枚の金貨を握り込んだ。すると、金貨がトロリと融け出し彼女の足元に落ちる。落ちた金貨だったものは、まるで生きているかのように動き始め、金貨が次々に握られては融けを繰り返すと、一匹の大きな黄金の蛇となった。
「ほら、ご覧なさい」
黄金の蛇が『雷撃牢の陣』を周回し始めた。
「何をするつもりだ?」
「私の裸を見た罰よ。その蛇にあなたのあ、あ、あそこを食べてもらうの」
「マジかよ。趣味悪いなあんた」
「ありがとう、と言っておくわ。それとこれ、置いておくわね」
魔法使いは魔法陣の外に『治癒の札』を置いた。それも丁寧に風で飛ばされないよう石を添えてだ。
「……」
「やっと余裕がなくなってきのね。最初からそうしていればさっさと死なせてあげたのに……まあいいわ。それと、その鎖は私の蛇があなたの大事な物を食べたら外れるようにしてあるわ。食べられただけじゃあ死なないかもしれないから、そのときはその札を使って回復してもいいわよ?」
できるはずもないことを言う。『雷撃牢の陣』から出れば必殺の雷撃が飛んでくる。それは、どんなことをしても防ぐことはできない。だから、この魔法は牢と言っておきながら檻がない。単純に自分の下が薄紫に光るだけだ。入るのは自由です。でも、出るのは死んでからね、というのがこの魔法の真髄だった。実に魔法使いらしい性格の悪い魔法である。
「じゃあ、またどこかで会いましょ」
陰湿な魔法使いは、おれのコンパスと残った金目の物をすべてポーチに仕舞うと、後ろ手にひらひらと手を振った。
「そうだな。また、どこかで会えるといいな」
おれはいけ好かない魔法使いが完全に離れたのを確認すると、今にもおれの逸物に食らいつこうとしている蛇に話しかけた。
「そいつは美味しくないからやめておけ」
蛇は開いていた口を閉じて首を傾げる。おれの言葉が理解できるようでホッとした。もし、そうでなかったらと考えると怖気立ってしまう。
「それにおまえの口じゃあおれの逸物は咥えきれないからな。咥えた瞬間、おまえの体はチューブバルーンみたいに膨れるぜ?」
蛇はおれの冗談を本気にしたのか後退りする。
「大体おまえは元々おれの金貨から創られたものだろう? だったらあんな陰湿なガキんちょ魔法使いに従うよりも本来の持ち主のおれに従うってのが道理じゃねえか?」
蛇は悩ましく頭を振り更に後退った。
「ほら、見てみろ。鎖たちは物わかりがいいぞ」
おれが鎖に目を向けると手足を縛っていた四本の鎖が解かれていく。鎖たちはおれを護るように取り囲み、蛇を威嚇して牽制した。当の蛇はいきなりの裏切りに目を点にして何が起こったのか分かっていない様子だ。それでも、自分が不利な状況になったというのは理解しているらしく、四本の鎖に隙を見せないようにじりじりと『雷撃牢の陣』から離れていった。
「いいのか? 一応、おまえの創造主にはおれの逸物を食い千切れと命令されているんだろ? そのままだと達成できないぞ?」
蛇がシュルルッと鳴く。おそらく否定しているんだろう。おれには蛇の言葉なぞてんでわからないが、なんとなくわかった。このまま蛇と遊んでやっても埒が明かないので、おれはパチンッと指を鳴らした。すると『雷撃牢の陣』は煙となって霧散する。
「惚れ惚れするくらい完璧な魔法陣だった。おれが先生なら九十九点をつけてやってもいい。だがな、この魔法はおれが考案したんだ。考案者が解除方法を知らないわけないだろ」
ちなみに、残りの一点はスペルミスだ。魔法陣にはどこかに考案者のサインが入っている。おれはこの魔法を創ったとき、自分の名前のスペルを間違えて刻印してしまい、それがそのまま魔法の名前となってしまったのだ。だから一点減点。おれの名は”大”魔法使いのマクリーンであり、マクリーじゃあない。
やっと自由になったおれはその辺に放られた腰巻きを身に付け、手早く着替えて荷物をまとめた。そして、一枚の便箋と羽根ペン、インクを取り出して軽く筆を走らせた。宛先はあの魔法使いだ。それを、いつの間にか川岸にまで追い込まれていたた蛇に咥えさせる。
「おまえはこれをあの魔法使いに届けろ。いいな?」
四本の鎖を下がらせたおれは蛇によく言い聞かせてその尻を叩いた。蛇は一目散で荒野を滑っていき、あっという間に見えなくなった。残されたおれは四本の鎖を元の金貨に戻し、都市国家トトに向けて旅を再開した。
夕日が陰り始め気温も下がってきた荒野には一番星がきらめき、陸風がおれの背を後押しする。木が濡れて岩に霜が降り、おれはマフラーを首に巻いた。あの丘の向こうから夕日とは違う光が漏れているということは、あの向こうに都市国家トトがあるということだ。おれは先へ延びる道を歩いていく。
ここがよかったよ! ここが悪かったよ! だけでなく、どんな些細なことでも感想が書かれるだけで作者のモチベーションが天井知らずに上がりますので、もし気になったのならば気兼ねなくどうぞ!
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