大きいオッさんの小さな懺悔(電車編)
本日、帰りの電車で、私は些細な過ちを犯した。
女性専用車両に乗り込み、あまつさえ混み合う車内の空いた席一つに座り、スマホで小説を熟読、乗り過ごしそうになって、慌てて電車を降りたのである。
車内でなんとなく違和感はあった。こう書くと、
「オッサン脳みそ沸いとるやろ」
って言われるかもしれないが、そこはかとなく良き匂いがした。
そしてなんか知らんが意識が刺さるような……後から思えばそうかもしれんな的な仄かな気配があった。
全てはオッサンの面の皮に吸収されて、つまりは降りるまで気づかない訳である。
しかもこれは初犯ではない。
というか時々ある。
ある時、私は堂々と女性専用車両の長椅子の真ん中に座り、膝に膝をつけてスマホを見ていた。
その私の肩を、女子高生が〝トントン〟と叩いた。
え? と思うでしょう。私もキョトンと女子高生を見上げた。その私と目のあった女子高生は、
「ここ、女性専用車両ですよ」
と教えてくれた。私は思わず、
「えっ?」
と声を上げて、左右を見回した。周りは全て女性。恥ずかしくなった私は、
「あああっ」
と腑抜けた声を出してから、
「ありがとう」
と言って席をたった。
それから二度ほどお辞儀をして隣の車両に移ったと思う。
女子高生が180cm、80kg越え、当時ですら40に近いおっさんに注意したのである。
その精神性に軽くうたれてしまった。
そしてちょっと嬉しかった。その女子高生にとって、私は話せば分かる良いオッサンだと映ったようなのだ。
私は恥ずかしさと共に、少しの喜びをもった。それゆえの「ありがとう」×2だったと思う。
それを反芻している今の私は、女児の父親となった。そして思うのだ。
あれを成功体験として、あの女子高生が正義感を振りかざして生きていたらどうしよう? と。
相手が女子高生に注意されて、紆余曲折して喜んでしまう、私のような変態だったら良いだろう。
だが、そうした注意的な態度を良しとしないオッサンも多くいる。
そうした硬いオッサンにとって、あの手の学級委員長みたいな真っ直ぐさは、一番の天敵ではないか?
私とあの女子高生にとって、あの瞬間の両得な空気……実際私は嬉しかったし、女子高生は私の後に座っていた。
だが数年後の私は、あいも変わらず女性専用車両に乗り込み、あの女子高生は、あの成功体験から、学級委員長度合いを上げてしまったかもしれない。
まったくもって世の中はままならない。父親的目線で、あの時の女子高生を心配する私の目線も気持ち悪い。
というか『後から女性専用車両ってなんとなく良い匂いがしたよな』と思う心の形はさらに気持ち悪い。
しかし、そうした情動はある程度万人にも共通した観念だと思う。
電車というのは、公共性と対人間適正距離の取れなさで、人の心を揺さぶる魔の空間なのだ。
例えば隣が空いている。そこに若い女性が座ってきた。それだけでオッサンは癒されるのだ。
嫌われていないというだけで嬉しいのだ。
そんな事をツラツラと考えながら、乗り換えた電車で向かいに座るオッサンの赤ら顔を見て癒される。
そうだ、貴方達はいつでも私に勇気と希望をくれる。
オッサンはそうしてオッサン度を増しながら、夜の線路を一定速度で運ばれていくのである。




