第一章2 『人は見かけによらない』
シャワーの流れる水音が響き、目の前の鏡には細身の女性の身体が映る。
「……はあ」
シャワーから流れ続ける湯を浴びながらため息を吐く。流れる湯は身体についている泡と汚れを落としていく。
シャワー室の前に脱いである服は埃まみれで、洗濯をしない状態のままではできれば着たくない。しかし彼女を誘拐した男がそれを許してくれるかわからない。
「……そもそもこれって誘拐なのかな?」
確かに気が付いた時は手足は拘束されていたし、口には猿ぐつわをされており叫ぶことも出来なかった。でも今はそれらは全て外され、その上シャワーまで貸してくれている。
鞄は奪われてしまっているし、ここを貸してくれる前の男の言葉からすぐに解放するつもりはないらしい。
「大体これが誘拐だとしたと仮定しても、あの人は何が狙いなんだろう……身代金? いや、それは私なんかよりもっと適切な……誘拐に適切も何もないか」
自分の考えに呆れて、否定するように頭を横に振る。
髪を濡らす水があたりに飛んだことに気付いて、慌ててシャワーを止めて、シャワー室のドアを開けた。
「…………あ」
「………………え?」
我ながら随分と素っ頓狂な声が出たと思った。
何か用でもあったのだろうか、体が洗面台の方を向いた男が立っており完全に鉢合わせという状況に陥っていた。
「き……」
悲鳴を上げようとした彼女に真っ白なタオルが投げつけられる。そのタオルで自分の身体を隠して、男をキッと睨む。
この男が誘拐犯だろうが何だろうが、裸を見られたのだ。恥ずかしくて顔が赤くなる。
しかし見た男はというと、平然とした顔で「これ、替えの服ですから」と服を床に置いて何処かへ行ってしまった。
茫然と男が立ち去っていった方向を見ていたが、寒くなってくしゃみを一つ。急いで体についている湯を拭くと、男が持ってきた服を着る。
太いベルトから白いシャツと格子柄のスカートに分かれている複雑な造りのワンピースで、何故かサイズは合っていた。
「可愛い……」
近くにあった洗面台の鏡で着た服を見て、素直な言葉が無意識に零れていたのだった。
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拘束された状態で先ほどまでいた場所に戻る途中でいくつか分かったことがある。
一つは、ここは普通のマンションとか家とかそういう場所ではないという事。
先ほどまでいた場所もそうだが、この建物自体がコンクリートで作られた建物であり、それがむき出しという事は人が住むようには作られていないという事だ。もしくは人が住むように作る途中で破棄されたか。
シャワー室があった。洗面台もあった。さっき通ったところにはキッチンの様な作りかけのものもあった。
おそらく予想としては後者の方が有力と考えた方が妥当だと言える。
もう一つは、誘拐した男の正体。
正体といっても詳しいことが分かったわけではない。ただ歩いている途中で思い出しただけだ。
気を失ったときより前の記憶が曖昧だったのだが、思い出した。
それに男の姿が約束したときの感じと全く違う雰囲気だったのでわからなかったのだ。
窓から見えた陽の光の位置から誘拐されたのは昨日の正午。約束の時間だ。そして誘拐したのは約束していた男。名前は……なんだったか。確か神社で会ったときに名乗ってもらった記憶があるのだが、肝心の名前が思い出せない。
約束したのが一昨日。誘拐されたのが昨日。そして今日。
スマホも時計もないので時間の確認はできないが、仕事に行かなければならない。今日はクライアントと相談があったはずだ。
しかし仕事に行くにはこの状況から脱しなければならない。
「何してる」
考え事をしていた所為で、男が目の前に来ていることに全く気が付かなかった。背の高い男を軽く見上げると、違和感を覚えた。
その違和感が何なのかわからず首を傾ける。
「何か?」
「い、いえ。なんでも……」
「ふーん」
踵を返して部屋に戻っていく男の背を見つめながら部屋に入っていく。やはり違和感がある。
机の上にあるビニール袋と、自分の鞄を見た時ようやく違和感に気付く。
「髪の色と、服が違う……」
シャワーを借りる前までは真っ黒だった髪が今は栗色になっている。服も歳に似合わないきっちりとしたもの着ていたが、今は年に似合ったカジュアルなものに変わっている。
拭えた違和感が怪しいモノじゃなくてホッとしていると、椅子に座った男がジッと見つめてきているのに気づく。
「座れば?」
男が指さした向かい側の椅子を訝しみながら座ると、男がビニール袋からおにぎりを取り出すと投げてよこしてくる。
食べていいのか迷っていると、さっさと食べ始めていた男が「食えよ」と言わんばかりの目を向けてきていた。慌てて袋を開けて齧る。そういえば昨日早めに食べるからと軽く昼食を食べた以降食べていなかったことを思い出す。
ずっと空っぽだった胃がようやく入ってきた食べ物に、十数時間ぶりに活動を再開させる。
おにぎりも食べ終わるタイミングでスマホが着信を告げる。しかもこのメロディは彼女のスマホのものだ。
咄嗟に出ようと鞄に手を伸ばすも、男に上から押さえられ取ることが出来ない。代わりに男がスマホを取り出すと電話の相手を確認する。
「……木崎さん?」
「しゃ、社長です! 会社の! 出させてください!!」
「やだ」
必死に頼んでも男の返事は「NO」。仕舞いには着信が切れたタイミングを見計らってスマホの電源を落とす。電源の切れたスマホを丁寧に鞄の中にしまうと、押さえていた手を解放する。
鞄に手を伸ばそうとしてもまた押さえられて鞄まで手が届かない。男はジッと目を見つめると「めんどくせえ」と舌打ちをする。
「もう一度拘束するか」
「えっ!? あ、も、もう、鞄取ろうとしないので! 拘束だけは!」
また解放された手を何もしないと言うように振る。
警察とかから聞く誘拐犯と全然違い過ぎて調子に乗りすぎたのかもしれない。それに一昨日の初めて会った時もそうだったが、話しやすいというか、親しみやすい感じがするのだ。誘拐犯だが。
「まあいいや。聞きたいこと聞ければ拘束なんかいらないし」
「……聞きたい、こと?」
「まず名前。名前と家族構成」
指を二本伸ばして最初の要求をしてくる。
彼女からすればその質問は疑問を抱くものだ。誘拐犯というのは大体が身代金等が狙いの為、誘拐する相手の名前、家族構成、身体的特徴や行動パターンなど先だって調べておく輩が多いと聞く。男の質問の意図が読めない。
しかし答えずにいて機嫌を損ねたら何をするかわからない。
「篠原由紀。家族構成……えっと、先月母が亡くなったので……」
「亡くなっ、た?」
「え? あ、はい」
「篠原さき子が?」
ショックを隠しきれていない男の問いに少し訝しみながらも頷く。こんなところで嘘を吐いてどうする。
そういえば由紀の元を訪ねてきた時も母の事で話があると、言っていたはずだ。母の知り合いだったのだろうか? しかし母の口から由紀と同い年くらいの知り合いがいるとは聞いたことがない。
男は一体何者なんだろうか。
男に視線を戻すと身体を強張らせる。
「嘘だろ……死んで? じゃあ俺の、俺の目的は……」
机にポタポタと雫が落ちる。由紀と男の視線が交じり合う。
ショックを隠しきれていない顔はそのまま、ただ大きく開かれた瞳から涙が零れ続ける。
「あの……」
声をかけるとようやく自分が泣いていることに気付き、服の袖で強引に拭う。そして首からぶら下げていたしずく型のロケットペンダントを取り外し、蓋を開けて机の上に置いた。
何をしているのか全く分からない由紀はただその動作を見ていることしか出来ない。
――ロケットに入れられていたのは、小さい男の子とその子の両親と思しき男女が笑っている写真だった。
「俺は葉山琢磨。お前を誘拐したのは二つ用件があったから。でもまあ……一つ消えちまったけど」
「用件……?」
「ああ」
話の意図が読めず首をかしげる由紀に琢磨は言った。
「――お前の推理力で俺の両親が自殺した理由を探してほしい」
先ほどまでのどこか由紀を馬鹿にしたような視線とは違う、真っすぐとした真剣な視線で。
――誘拐されてから19時間経過。