第一章1 『感じる不安と恐怖』
今思えばここ数日可笑しなことが多かった。
――現在から23時間前。
篠原由紀は社会人二年目の二十三歳である。
「お疲れ様です! 先輩」
「うん。またね」
仕事終わりに後輩とカフェに行った帰り道。時間もかなり遅く、夕日は完全に降り真っ暗な夜の世界へと変わっていた。
最近変質者が出るとか、出ないとかそんなはっきりとせず噂の域を出ない話を聞いたばかりであったうえ、最近少し誰かから見られているような視線を感じていた所為もあり不安で怯えながら帰路を歩く。
――もう少し、早く帰るべきだったかな。
あまりの恐怖にそう考え始めた頃、後ろから足音が聞こえてくる。誰かいるのかと後ろを振り返っても誰も居らず、足音もない。
空耳だったかと首を傾け、再び歩き出すとやはり後ろからは足音が聞こえてくる。
家までの距離はここからならばそう遠くはない。
正直走りには自信はないが、何とかならないだろうかと走ってみる。すると予想通り足音は速度を上げついてくる。
――随分と典型的な……!
捕まるわけにもいかない。必死に走っているうちに諦めたのか足音は由紀のだけになる。
しかしこれで普段感じていた視線の正体が少しわかったような気がする。
見ているだけでは飽き足らず、家にまでついてこようとするストーカーならどこに相談しようか。
警察? いや、それは時期尚早というものではないか?
上司? 駄目だ、あのヘタレ上司は使えない。
後輩……は迷惑をかけるわけにもいかない。
指折り数えてはその候補を潰していく。本来なら真っ先に相談するべき両親は離婚しており父親は頼ることはできない。
母親は……
「あれ?」
マンションの一室。由紀が借りている家の前に誰か立っていることに気付く。
こんな夜更けに誰が何の用で訪ねてきたのだろうと疑問に感じながらも、扉の横に付けられている表札をジッと見つめる高身長の男に声をかける。
「あの……どうかなさいましたか?」
「え? あ、すみません」
振り返った男は由紀の姿を視認すると微笑み、表札を指さして言った。
「ここの篠原さんという方はいつ頃お戻りになるか……ご存知ですか?」
「篠原は私ですけど……」
「そうなんですか!? ああ、よかった……」
男は安堵の表情を浮かべると、由紀の顔をまじまじと見る。その顔はどこか憎悪に満ちているようで、嫌な感じがした。
「実は篠原さき子さんのことでお話がありまして……」
「母の?」
「はい、少しばかり話が長くなりますのが時間があるならば今」
「…………今日は時間が遅いので明日でもいいですか? 明日なら仕事は休みですので」
時計で時間を確認すると、男が張り付けた笑みを浮かべて提案をした。
「それでは明日の12時に神社で会いましょう。すぐそこ……ですよね?」
「ええ、わかりました」
警戒を抱いていない訳ではなかった。張り付けた笑みにあんな恨みの籠った視線。絶対に何かがおかしいとわかっていたのに、母の名前を知っている。それだけで易々と約束をしてしまう。
男はそのまま帰ろうとするが、重要なことを聞いていないと振り返る。
「――え?」
そこにはすでに男の姿はなく、隣に住んでいる中年女性が
「今の彼氏?」
と、問いかけてきただけだった。
「……いえ、違いますけど」
「そうなの? 篠原ちゃんは若いんだから仕事ばかりに精を出してたら駄目よ~」
「はぁ……」
笑いながら部屋に入っていく中年女性。普段だったらああいう問いかけには笑って返しているのだが、今日はそんな気にはなれなかった。
隣の女性が男が立ち去るのを見ていたというのなら、由紀が振り向いたタイミングを考えると、由紀の横を通り過ぎた後走ったのだろうか。
何故そんなことをする必要が?
男の指先と鼻の頭が微かに赤くなっていたことを考えると、長時間外にいたことになる。そしてその長時間というのが、ここで待っていた時間を指すなら彼はきっと由紀が帰るまでここに居るわるつもりだったのだろう。
それならどうして由紀と会話をした後走って帰る必要がある?
由紀の仕事上、今日は後輩とカフェにも行けたほど比較的早く終わった方だ。いつもならこの時間はまだ仕事をしている。ならば由紀が帰宅するのはもっと遅くなる可能性だってあるはずだ。
その場合後の予定は入れない筈。
「あー、駄目。わからない……」
母の名前を知っていたという事は、少なからず母の知り合いであるか、母の事を知っている人であるという事。
しかし由紀は彼の存在を知らない。
一時期不可解な行動をとっていた母の事をしっているのだろうか。
「とりあえず、明日会えばわかる……でいいのかな?」
仕事柄大体疑うところから始める自分の性分に嫌気がさしながら、マンションのドアを開けた。
――約束の場所で誰かに何かで気絶させられたうえ、誘拐されてしまうことなど予想も出来ずに。