プロローグ 『誘拐開始』
――どうしてこんなことになってしまったのだろう。
固くて、冷たいコンクリートの床に横になったまま、首を振って落ちて来る髪の毛を払う。
手足は動けず、しかも厄介なことに手は後ろに回されているようで、長時間この姿勢でいるのは大変苦しい。
そういえば昨日から何も口にしていないことを思い出して、急激に喉が水分を欲しがる。
――喉、乾いたなぁ。
なんて場違いな事を考える。
せめて水だけでも飲みたくて、目の前で座って呑気にスマホを構っている男に懇願しようとするも、言葉が出ない。
正確には出せない。
白い布で猿ぐつわをされているのだ。声は出せても、何を言っているのか理解はされないだろう。
しかしその無様な声に男の視線がスマホから逸れる。
「――どうかしましたか?」
こんな状況を生み出している犯人とは思えないほど、優しげな声。
しかも顔には柔和な笑みが浮かんでいる。
男は「ああ……」と何かを悟った顔をすると、また笑みを浮かべた。
「そういえばあの時から何も口にしていませんでしたね。ハッ、無様な面してんな。お前」
――今度は、悪魔でも宿ったのかと錯覚するほど冷酷な笑みを。
男はスマホを机に置くと、その隣に置いてあった彼の飲みかけであろうペットボトルを手に近づいてくる。
そして目の前でしゃがみ込むと、僅かに残っている水を飲みほした。水を飲み込む喉の動きを見ているだけで、水分を欲する気持ちが増していく。
――どうしてこの人は、こんなことを……
生きる為の欲に忠実であろうとする身体とは対照的に、思考は落ち着き払っている。水はないけれど、まるで水を被ったかのように冷静で、目の前にいる男の正体を考察する。
自分をこんな目に合わせている相手なのだ。生易しい正体じゃないだろう。
でも、帽子を被っている所為か顔を確認しづらいが、少なくとも知り合いにこんな人はいなかった。
それならこの人に何かしてしまって、復讐とかでこんなことをしているという線は消える。
じゃあお金目当て?
残念ながら、母子家庭である家はそんなに裕福とは言えない。ああ、でも幼い頃に離婚した実父なら金はあるはずだ。
しかしあの仕事一筋の実父がこんな離婚したかつての女の子供を助けるために金を払うはずが無い。
それはそれで悲しい話なのだが。
考察している間に目の前から男がいなくなり、今横たわっている部屋からもいなくなったようだ。
今がチャンスと寝返りを打ち、手首を縛る紐をどうにか出来ないかと動いてみるが、そんな術などなかった。その上、いなくなったはずの男が戻ってきた。
「――――」
明らかに動いて脱出を試みて失敗した状態を見て、鼻で笑う。うつ伏せになっている上に跨ると、手首を縛る紐を解く。
数時間ぶりに解放された腕を動かそうとすると、固まっているのか鈍い痛みが走る。
足の縄は解いてくれないようで、ビニール袋を引っ提げたまま先刻まで座っていた椅子に座ると、スマホで床の埃まみれの彼女を撮影する。
「――お前、今自分が置かれてる状況わかるか?」
そう問いかけられるも、答えられない。
理由は二つ。
一つ、猿ぐつわをされているから。
一つ、本当にこの状況が分からない。なぜこんな状況が生まれているのか皆目見当もつかない。
起き上がって男を見つめると、怯えた顔でゆっくりと首を横に振る。
「ああそういえば猿ぐつわ、外すの忘れていましたね。今外してあげますよ」
怯えた顔が彼の中の征服欲を満たしたのか、ゆっくり近づいてくると猿ぐつわに手を伸ばす。
冷たいその手が微かに頬に触れると、びくりと肩を震わした。
猿ぐつわが外されると、一気に解放感が押し寄せて来る。まだ足が拘束されたままだというのに。
「さて、もう一度聞きます。貴女は、自分が置かれている状態が分かりますか?」
「――い、え……わから、ない、です」
長時間猿ぐつわをされていた所為か思ったように声が言葉にならず、詰まりながらもなんとか返事をする。
その返事に男は胸倉を掴んで引き寄せると、耳元で囁いた。
「お前は俺に――誘拐されてんだぜ?」
その瞬間、言い難い何かが彼女の身体を走り、拘束した。
――誘拐されてから、16時間経過。