姉と妹の間は複雑です。
「兄さん、朝だよ。起きて」
その声と共に純白のカーテンが開けられ、朝の日差しが窓から俺を照らした。あまりの眩しさに顔を顰めるも、どうにか怠さに打ち勝って体を起こす。
「今日もいい天気だね」
そして次に目に映るのは歳が一つ下の妹の姿。水色の長髪をサイドテールにまとめた、高校一年生としては平均より少し背の高い少女。
俺は頭を意味もなく掻きながら、妹の名を呼んだ。
「ん…おはよ、紗菜」
「おはよう。兄さん」
紗菜はそう答えると、ハンガーに掛けてあった俺の制服を手渡してくる。自分でやると言うのに何とも気が利く妹である。
「今日の朝食担当って紗菜だったっけ?」
「うん。もう準備できてるよ。姉さんも待ってると思う」
我が筧家は両親が共働きという事で、食事の用意は三人日替りで交代している。初めは紗菜に任せきりだったのだが、それじゃ負担になるだろうと俺が抗議して現在の形に収まったのである。
まあ、結局は紗菜が担当する日が多いのだが、俺もできるだけ手伝っている。紗菜は料理を作るのが上手いから勉強にもなるしね。
「それじゃ私は先に降りてるから、着替えたら来てね」
部屋を出ていく紗菜に頷いて、俺は少し急いで着替える事にした。
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洗面も済ませいつものテーブルに向かうと、真剣な表情で原稿用紙に目を通している制服姿の女性がいた。
気付いていないみたいなので声をかけようとする。しかし、数秒遅かったようで、そのややつり上がった瞳がこちらを捉えた。
「あら、おはよう天馬」
「…おはよー」
俺は姉である美郁に挨拶を返しつつ椅子に座る。どうやら紗菜は食器などを用意しており、もう少し時間がかかるようだ。
特にする事もないので、隣に座る美郁を横目に見る。紗菜とは対照的に赤色のウェーブヘア。制服越しにでも分かる出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる抜群のスタイル。おまけに運動神経もよく、インチキでもしてるんじゃないかと思うほど成績も常に学年一位。
俺たち三人が通う星見原高校の生徒会長としては、十分過ぎる容姿と実力を兼ね備えていると言えるだろう。
改めて自分の姉の偉大さを確認したところで、いい加減この沈黙に耐えきれず思いきって話しかけた。
「美郁…何読んでんだ?」
ちなみに少し前までは美郁の事を「姉ちゃん」とか「姉さん」と読んでいたのだが。
『気持ち悪い』
と一蹴され名前で呼ばれる事を命じられた。何故だ。
「今日の集会のスピーチよ。割と長くてね」
「そんなの読み返さなくてもお前なら余裕だろ…」
「念のためよ。もし間違えたら生徒に示しが…」
美郁はそこで言葉を切って、何かに気付いたように俺を見つめる。そのまま俺の首元に手を伸ばしてきた。
必然的に彼女の顔が接近して、その美貌に思わず心拍数が上がる。実の姉とは言え、赤の他人からすれば羨ましい光景だろう……たぶん。
何だよ、と美郁の行動を怪しんだが、彼女は制服のネクタイを締め直してくれただけだった。少し緩んでたらしい。
「気の緩みは服装にも表れると言うわ。気を付けなさい、天馬」
「…はいはい」
そんな会話を終えたところで、台所から紗菜が顔を出した。
「ごめんね。兄さん、姉さん。それじゃ食べよっか」
何気ない会話。何気ない日々。
こうして、また俺の一日が始まった。
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星見原高校は別段変わった特徴のある学校ではない。
偏差値は県の平均程度であり、設備も目新しいものがあるわけではない。
そんな高校を選択した理由は、家からちょうど歩いて行ける距離であり、自分の学力に見合っていたから。ただそれだけ。
特に将来の夢があるわけでもない自分にとって、最も適した高校だと(勝手に)判断した結果、通うことになった。
そして俺は今、学校への通学路を一人で歩いている。
美郁は生徒会の仕事、紗菜は友達と一緒に行くらしく、一足先に家を出てしまった。既に新学期が始まって二ヶ月。美郁は色々とやる事が多いと思うし、紗菜も新しくできた友達と交流を深めたいのだろう。
「これはこれは、我が親愛なる友人の筧天馬くんじゃないかぁ」
なんて事を考えていると、とてつもなく芝居がかった声に呼び止められた。
「んん? 何かテンション低いぞぉ? こんな告白するには絶好に天気いい日に、そんなしけたツラしてたら可愛い子ちゃんも寄ってこねぇぞ?」
こんなに良い天気だからこそ、朝イチでお前の顔を見て気が重くなってんだよ。
「おおう…相変わらず辛辣な対応だな。でも好きだぜ、親友」
こいつは田崎恭也。クラスメイトであり、一応俺の友人…という事になっている。
知り合った切っ掛けは何だったか…今ではよく覚えていない。かと言って思い出す気もない。こいつの性格を知ってしまってから。
何を隠そうこの男、入学初日にクラスメイトの女子全員に告白するほど超恋愛脳な野郎である。
星見原は一学年で約二百人。一クラス四十人であるからその半数の二十人の女子生徒に告白し、見事玉砕した。
勿論こんな軽薄そうな奴がそれで終わるはずもなく、二年生に進級する頃には学校の女子生徒すべてに振られたらしい。
正直、容姿はそんなに悪くないと思う。紗菜も初めて会ったときに「かっこいい人だね」って言ってたし。まあ十中八九こいつの中身が原因なのだろうが…
「連休明けはキツイよな~。こんな時に巨乳で可愛い彼女が居てくれれば癒しになるんだけどなぁ~」
これである。常に女に飢えているようで吐き気すら沸いてきそうである。
「おいおい、あんま邪険にすると流石に俺泣いちゃうよ? お、そうだ。実はこの連休で進展があったんだよ。聞きたい?」
自慢気にそう言ってくる恭也。微塵も聞きたくないが断ったところで喋るのをやめないだろうし、俺は続きを促した。
「俺さ、隣町の北川浦に友達がいるんだけど、この連休中にそいつのとこに遊びに行ったんだ。そしたらそいつ、女友達を連れててさ。めちゃくちゃ可愛いかったんだよ」
で、見境なく告って玉砕したと?
「いやいや。俺も最近はすぐに告白するのは控えてんだ。むこうもびっくりしちゃうからな」
いい心掛けだ。散々な結果になるのは目に見えてるしな。
「んで、たまたまその子と二人きりになってよ。ちょっと表情がぎこちなかったけど、いい雰囲気だと思ったから告白したんだ!」
それはおそらく、お前のがっつき具合に辟易してたんだろ。そもそもいい雰囲気かどうだったかすら怪しい。
「OKはしてくれなかったけどよ、お友達からってメルアド交換したんだ。時間ができたら連絡してくれるってさ!」
…遠回しに「連絡する気なんてないから」って言ってるように思うのは俺だけだろうか?
「ああ~早く来ないかなぁ。俺はいつでもウェルカムだってのに!」
自分の携帯電話をにやけた顔で見つめる恭也。まあ本人が幸せそうならいいか。てか、関わりたくないしどうでもいい。
「天馬も恋愛しろよ! 恋愛はいいぞ~! ハッピーになれる!」
俺は恭也の言葉を鼻で笑った。お前のように簡単に前向きになれれば良いが、生憎と恋愛に興味が無いからだ。
気になる人がいなければ、候補になるような人もいない。
「恋愛…ね」
自分がそれに悩まされるのはまだまだ先の話なのだろうな、と達観した表情で一歩踏み出したのだった。
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恋愛なんて先の話、と思っていた俺だが、割とすぐに考えさせられる事となる。
数日後の夕食。久々に俺が料理を振る舞った日、ある異変に気付いた。
「……?」
前に座る紗菜の様子がおかしい。食事を始めてからほぼ手付かずになっている料理。紗菜本人も俯いており、明らかに元気がない。
「紗菜、食べないのか?」
「え? あ…」
自分の表情が暗かった事に気付いたようで、慌てた様子で箸を動かす紗菜。しかし、少し食べたところでまた俯いてしまった。
「もしかして…不味かった?」
おかしいな。今日のジャンボハンバーグは渾身の出来だったのだが。美郁も美味しいって褒めてくれたし。
「そんなことない!兄さんが作るご飯はいつも美味しいよ!…そうじゃなくて、その…」
紗菜は何度か俺と目を合わせたところで、絞り出すかのように言葉を発した。
「あのね、私、男の人の先輩に告白されたの」
……なるほどな。
「高瀬って名字の…たぶん兄さんと同じ学年だと思う。付き合わないかって言われて…」
紗菜の説明で大方納得した。要するに急に告白されて戸惑っているのだろう。紗菜は高校に入るまで恋愛経験も無かったみたいだし。
「ま、紗菜は可愛いからな。むしろ告白されるのが遅すぎるくらいじゃないか?」
これは心からの言葉だ。紗菜はとても健気な女の子だし、兄という立場から退いても魅力的だと思う。
「…!に、兄さん。そんなにはっきり言われると恥ずかしいよ…」
頬を真っ赤にした紗菜が俺から視線を逸らす。うん、可愛い。
「それで? 紗菜はどう返答したの?」
隣に座る美郁が紗菜に尋ねる。僅かに口調が強くなってたのは俺の気のせいだろうか。
「まだ…恋人とかよく分かんないから、ごめんなさいって断ったの」
「それでいいわ。学生の本分は勉学。色恋沙汰に現を抜かすようじゃ紗菜のためにもならないもの」
うーん。美郁の言う事にも一理あるけど、やっぱり花の女子高生ってわけだし、恋愛の一つか二つしてみたいものなんじゃないかな?
美郁も紗菜も、しっかりしてるから悪い男には引っ掛からないと思うし…。
でも、そうか。いずれ二人とも好きな人ができて、自立していく事になるんだよな。いつまでも三人一緒ってわけじゃない。そう考えると、寂しい気持ちがこみ上げてきた。
「俺も、本気で好きな人を見つけた方がいいのかな…」
うっかりそんなことを呟くと。
「え…兄さん、好きな人がいるの?」
信じられない物を見るかのように、紗菜が俺を見つめてくる。
「ん? いや…」
その視線に耐えきれず、俺は隣の美郁の方を向く。が…。
味噌汁の入ったお椀に口を付けたまま、美郁は俺を射貫くように見ていた。
「私も興味があるわ天馬。好きな人、いるの?」
な、何だ?まるで警察の取調室に居るかのようなプレッシャーだぞ。別に悪い事はしていないはずなのに、手汗と背中の冷や汗がとんでもなくヤバい。
「いやさ、二人ともいずれこの家を出て、自立する事になるだろ?俺も早く好きな人見つけて、二人の負担にならないように家を出れればいいなって思って…」
うん、嘘は言ってない。
「もう、そんな心配しなくていいのに」
「まったくね。そんな事気にするだけ無駄よ」
緊迫した雰囲気は解かれ、二人は何事も無かったように食事を続けた。
…何だったんだろう今の。
得体の知れない悪寒により完全に食欲が消え失せていたが、俺はどうにかハンバーグを胃袋に収めた。
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「おーい、天馬。昼飯買いに行かね?」
翌日の昼休み。財布を片手に恭也が俺の席までやって来た。購買にパンでも買いに行くらしい。
紗菜が作ってくれた弁当があるため、恭也の誘いを断る。
「そっか、そらしょーがねーな」
そう言って恭也が教室から出て行くのを見送った後、俺は弁当も開けずに昨日の事を思い出していた。
『心配しなくていいのに』
『気にするだけ無駄よ』
あれはどういう意味なんだ? 例え好きな人ができても、俺は負担にならないって事なのか?
二人の将来のためなら、俺は居ない方が楽になるんじゃないのか…?
軽く頭を抱えると、聞き慣れない女子生徒の声が教室に響いてきた。
「あの…筧紗菜ちゃんのお兄さんっていますか?」
思わず俺は立ち上がり、その女子生徒の元まで向かう。クラスメイトの視線が集まっているが、気にしない事にした。
「あ、良かった…私、紗菜ちゃんの友達で朱里って言います」
こちらも軽く挨拶をしておく。たぶんこの子が最近紗菜がよく話す友達の事だろう。
「あの、一緒に来てもらっていいですか?」
紗菜に何かあったのか?
「はい…」
歯切れの悪い返答をして彼女は教室を出ていく。俺も彼女の後に続いた。
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「いいじゃんいいじゃん。ちょっとご飯一緒に食べるくらいだからさ」
「いえ、私は友達を待たせてるので…」
「じゃあその子も連れてさ、一緒に食おうぜ」
「困ります…」
一年の教室がある階に来ると、見るからにチャラそうな男子に絡まれてる紗菜の姿があった。あれって…。
「紗菜ちゃんから聞いてませんか? 昨日紗菜ちゃんに告白してきた高瀬先輩という人です。どうやらまた来てるみたいで…紗菜ちゃんも強く言えずに困ってるんです」
だから俺を呼んだって事か。紗菜はそんなにはっきりと物を言うタイプではないし、追い返そうにも言葉に困ってるのだろう。
それにしても、断られたのにまたアタックしに来るとは。一度振られたら同じ人に声をかけない恭也くんを是非とも見習ってほしいと思った。
「あ…兄さん」
俺の存在に気付いた紗菜が、助けを求めるように俺の後ろに隠れる。
「あん? あんたその子の兄貴か?」
一応軽く頭を下げる。相手はどこ吹く風のように言葉を続けた。
「邪魔すんなよ。オレはただその子を食事に誘ってるだけなんだからよ」
紗菜は嫌がってるみたいだけど…。
「別に何もしねぇって。何でわかってくんないの?」
それに失礼だけど…君、昨日紗菜に告白を断られたんだろ?
「…っ。だからこうやって友達から始めようってんだろ! 兄貴風情が出しゃばんじゃねぇよ!」
俺の一言がまずかったらしい。そのチャラ男は激昂して俺を押し退けてくる。
「ねぇ紗菜ちゃん。君もこんな冴えない兄貴がいて迷惑してんだろ? 紗菜ちゃんと生徒会長はこんなに可愛いってのに、こんな平凡な兄貴が全部台無しにしてさ」
かなりムカつく言い方だが、自分の容姿が普通なのは事実なので特に言い返す事はない。そりゃ二人に比べればね?
「こんな奴ほっといて、そろそろいい男と付き合うべきなんだよ。どうせ今付き合ってる人いないんだろ? だから付き合おうぜ。ほら、兄離れって言うでしょ。オレってば超優しいー」
好き勝手な事言うをチャラ男に、俺は納得してしまった。「兄離れ」という単語に。
確かに紗菜は俺に依存している傾向がある…かもしれない。今回の件も朱里ちゃんに俺を呼ばせたのは紗菜の指示だろう。紗菜自信の成長に繋げるのには良い機会なのかも。
だからと言って、こいつと付き合うかどうかは別だが。
結局は紗菜が決める事だと、俺は振り返ると──────
紗菜がチャラ男に殴りかかった。
というか、殴った。
「きゃああああああああ!!」
周りの女子生徒の悲鳴が上がった。当然である。俺も目の前の現実に驚きを隠せない。
殴られた反動で廊下に寝転ぶチャラ男に、紗菜は身体を震わせながら呟く。
「兄さんを、馬鹿にしたな……!」
俺でさえ一度も見た事がないような必死の形相。紗菜はその小さな拳を硬めながら、チャラ男に近付く。
「許さない…!」
歩みを止めようとしない紗菜に、これはまずいと俺は後ろから羽交い締めにした。
「紗菜! 落ち着け、どうしたんだよ!」
紗菜はひとしきり暴れたが、やがて暴れ疲れたのか俺の腕の中ですすり泣くだけだった。
その後教師たちの方にも一連の出来事が伝わり、紗菜は一週間の自宅謹慎を命じられた。と言っても殴られたチャラ男にも無神経な発言をしたという非があるので、特に内申に響くわけではないらしい。
勿論、生徒会長である美郁にも報告が入った。その日の自宅で紗菜に発した一言は。
「よくやったわ、紗菜」
ん? ここ怒るとこだよな?
「うん!」
いや、紗菜も、うんじゃなくて…。
妹の意外な一面が見れたものの、それが良い事かどうかは分からない微妙な気持ちになった。
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数日経った放課後。俺は生徒会室へ向かっていた。
もし美郁の仕事が終わってたら、夕食の買い物に付き合って欲しかったからだ。たまには美郁が好きなものを作ってあげたいと意気込んでいた。
まあ、美郁の仕事が終わってたらの話だけど、と生徒会室の前までにたどり着いた。
「妹さんの事、聞きました。家では結構ギクシャクしてるんじゃないですか?」
そんな声が中から聞こえてくる。気になって覗いてみると、綺麗な顔立ちをした男子生徒が美郁と話していた。
確か副会長の…どうしても名前を思い出せず、とりあえずイケメンくんと名付けた。生徒会に疎すぎだろ、俺。
「いいえ、妹との仲は良好よ。それに他人の家族の事情に踏み入るのはあまり感心しないわ」
「す、すみません」
相も変わらずキツイ言い方。おそらく彼は美郁の心配をしてたんだろうけど、上手く伝わらなかったみたいだ。
「青井くん。私の方はすべて終わったから、そちらとまとめて先生に提出してくれるかしら。君の方はまだ時間がかかるようだし」
「あ…はい」
美郁の手元にはびっしりと文字が書き込まれた書類が積んである。対して青井くんと呼ばれた男子の方はまだまだ進んでおらず、終わる気配が見えなかった。
…手伝ってあげればいいんじゃないかな。
俺の心の声など聞こえるはずもなく、美郁は帰り支度を始めた。でも生徒会の仕事が終わってるなら買い物に付き合ってくれるかなと考えていると
「会長…いえ、美郁さん。貴方に伝えたい事があるんです」
キリッとした表情で、青井くんは椅子から立ち上がった。そのまま美郁に歩み寄り、彼女の正面に立つ。
「何かしら?」
「僕は…初めて会った時から貴方の事が気になっていました。生徒会に入れば貴方をもっと知れると思い、頑張ってきました。結果は実り、貴方の魅力をより沢山知ることができました。僕はもう自分の心を偽れません。どうか僕と…付き合って下さい」
俺は不覚にもその光景に目を奪われた。
生まれて初めて見る告白場面、まして美男美女のやりとりなのだから。そこだけが神秘的な空間にでもなってるかのような感覚だった。
「ごめんなさい」
そして美郁の即答にも度肝を抜かれた。
「り、理由を聞かせて貰ってもいいですか?」
「私は君が好きではないから」
バッサリと言い捨てる美郁。しかし青井くんはなんとか食い下がろうとしていた。
「それは貴方が僕をよく知らないからです! これから…僕の事を知ってくれれば、きっと…」
「青井くん。君は仕事もよくできるし、誠実な人間だと思うわ。けれど、私は君に興味がないの。好きとか嫌いとかじゃないの、ただ関心が持てないの。私は関心がない相手に好意を向けるような薄情な人間にはなれない。だから、ごめんなさい」
「は、はい…」
捲し立てるような美郁の言葉に圧倒され、青井くんはその場にへたれ込んだ。正直…同情する。あんなはっきりと「興味がない」なんて言われたらなぁ。
生徒会室を出ていく美郁に、扉から覗きこんでいた俺が鉢合わせした。美郁は呆れたように溜め息をつく。
「…何をしているの。用があるのなら声をかけなさい」
いやいや、あんな状況で声かけるとか俺には無理。
「それで? 何故私を待ってたの?」
「あー、いや…生徒会の仕事が早く終わったんなら買い物に付き合ってほしくて…たまには美郁の好物も作ろうかなって」
先程までの冷たい表情から一転。目を爛々と輝かせ、花が咲いたように微笑んだ。
「それを早く言いなさい。ほら、行くわよ」
美郁は俺の腕を引っ張り、廊下を歩きだした。それもかなり早足で。
「おい美郁。それよりホントにいいのかよ」
「何の話?」
「さっきの青井くんの事だよ」
「青井…? ああ、そんな名前だったわね。別にいいのよ、どうでも」
「おいおい…彼、たぶん本気だったぞ。もうちょっと考えてやっても…」
「別にいいのよ。貴方が気にする事じゃないわ」
背中にゾクリときた。それはまるで心の底からどうでもいいかのような、彼の事など初めから居ないとでも言うような発言だった。
「それより早く行くわよ。天馬が私のために作ってくれるのでしょう? 私、今日はお魚系が食べたいわ」
無邪気に笑う美郁を見て、俺は姉の事を何も分かっていないと思い知らされた気分だった。
_________________________
更に数日経ったある日。俺は花壇近くのベンチでだらけるように座っていた。
ここ最近あった事をまとめるとこうだ。
美郁も紗菜もモテる。二人ともそれなりに告白されてるようで、恋愛する機会は多い。
でも、二人とも交際する気はない。紗菜はともかく美郁は完全に恋愛に興味が沸かないようだ。なんで?
こちらとしては、尊敬する姉とできた妹なのだから是非とも幸せになってほしい。ずっと独り身なんて訳にもいかないだろうし、ここで一人や二人、将来の相手を見定めるのも悪くないだろう。
ホントに好きな人なんていないのかな…。
俺が空を見上げて嘆息した時だった。
「筧先輩」
声が聞こえた方に振り向くと、そこには一度見たことがある女子生徒の姿があった。
君は…確か紗菜の友達の…
「覚えててくれたんですね。嬉しいです」
朱里ちゃんは柔らかな笑みを浮かべ、自然な動作で隣に座る。…ちょっと距離近くないですか?
「ここは気持ちいいですね」
そうだね、と頷いておく。ここは常に心地よい風が吹いて、俺のベストプレイスになりつつある場所だ。
「ねぇ先輩。先輩は…好きな人って、いますか?」
全く予想してなかった話題に思わずむせかけた。どうにか堪えていないよ、と返す。
「それなら、私と付き合ってくれませんか?」
自分の心臓が飛び跳ねるのが分かった。頭の中がごちゃ混ぜになって、思考が停止する。俺は今…告白されてるのか?
「私、いつも紗菜ちゃんに先輩の話を聞かされるんです。何度も何度も…でも、聞いてるうちに段々気になって、初めて見たときにちょっといいかもって感じたんです」
紗菜…お前は何を話しているんだ。やっぱりあいつ俺に依存してるんじゃないかと疑ってしまう。って、今はそれどころではなく。
「先輩は…私の事どう思いますか?」
上目遣いで聞いてくる彼女に、俺は生唾を飲み込んだ。初めて家族以外の異性を意識している。経験したことのない現実に呂律がうまく回らない。
返答を待つ彼女に、俺は───────────
_______________________
「兄さん、何かあったの?」
その日の夜。三人で夕食を食べていると紗菜が尋ねてきた。いつかの日の逆だな、と俺は内心悪態をつく。
「えーと…」
「言いにくい事なの?」
確かに言いにくい事だ。それもあるがこれを言ったときの二人の反応が気になるので上手く言えない。しかし、紗菜はちゃんと言ってくれた訳だし俺も意を決して口にした。
「俺…今日告白されたんだ」
ガチャン!
最初に聞こえたのは紗菜が箸を落とす音。
「……へぇ。そう、なんだ」
そして紗菜がそう呟く。目の前の妹は顔こそ笑っているが、その目は全くと言っていいほど笑っていなかった。
「…相手は誰なの?」
美郁が静かな声で聞いてくる。彼女はおかずの卵焼きをこれでもかとバラバラに分裂させていた。
「名前は言えない。その子のためにもな」
「うんうん、それは別にいいよ。それで?」
紗菜が満面の笑みで俺に顔を近付けてくる。それに続き美郁も俺に体を寄せてきた。男としては嬉しい状況なのに、今はたまらなく怖い。
「兄さんは」
「天馬は」
「「なんて答えたの?」」
心が冷却されるかのような寒々とした声。このとき俺は確信した。二人の好きな人は、こんなにも身近に居たのだと。今更ながら気付かされたのだ。
「…付き合えないって、断ったんだ」
あの時はテンパって、そう答えるしかなかった。朱里ちゃんはただ頷いてくれて、「諦めませんから」とその場を去っていった。小柄な体には不釣り合いな、強かな心を持ってるんだなと感心してしまった。
俺に度胸がないばかりに…情けない。
「ふふ…そっかぁ」
「全く、驚かせないで」
安堵する二人。いや、何に安堵したのかは分からないが、先程までのどす黒いオーラは二人から消えていた。
「でも兄さん。もし兄さんに好きな人ができたなら、そのときは必ず私に紹介してほしいな。兄さんの好きな人…とっても気になるから」
「私もよ、天馬。やはり姉として、弟の交際相手はちゃんと把握しておかないといけないわ。…しっかりと、ね」
二人の笑い声がただ響く。最早夕食の味など分かるはずもなく、俺も渇いた笑いをするしかなかった。
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こうして俺の日常は続く。望まなくとも太陽は勝手に昇り、時間は無意味に過ぎていく。
何気ない会話。何気ない日々。
そんな世界で、これからも俺は生きていく事を強いられるのである。
ああ恭也…俺はお前が羨ましい。
お前のように何も気負う事なく、ただ自分の本能がままに生きていける前向きな心がひたすら羨ましい。
ついでに恋愛を馬鹿にしてしまってすまん。これは俺が思った以上に奥深く、ややこしいものなんだな…。
とりあえず分かった事は──────
「兄さん! 今日は一緒に学校行こうよ」
「私も生徒会の仕事がないの。行きましょう、天馬」
この二人が側にいる限り、俺がまともな恋愛をできる日は訪れないという事だった。