第1話 湯煙を出れば、そこは異世界だった
「あれ? ここって露天浴場だよね?」
稲岸勇太がはじめその違和感に気が付いたのは、脱衣所の引き戸をガラガラと開いて外に出た瞬間だった。
確かに期待感をさそう湯けむりがその場の空間を支配している。
ここは職場の慰安旅行で訪れたとある温泉旅館であり、この旅行のセッティングをした社員がどこからか調べてきた露天の混浴場があるという場所だったのである。
風呂に入るのだから当然勇太はタオル一枚片手に全裸だった。
イマドキはインターネットが普及しているので、そういう事を検索するのも簡単だ。
と同時にそれは温泉旅行を楽しむ女性にも簡単に調べられると言う事である。
近頃は盗撮を試みる馬鹿もいるという事で、混浴温泉などというものは次々に撤廃されているらしい。
だからこの、男の理想を叶えてくれる秘境を見つけてきた担当社員は、同僚たちから英雄の様に称賛されたのだった。
ただし勇太自身はその点についてとても懐疑的だった。
稲岸勇太、二十六歳は童貞である。
もちろん露天混浴場にエッチな漫画の様なハプニングをまったく期待していないと言えば嘘になるが、今日この日までことごとく恋愛や告白に失敗して童貞を貫いてきた彼にとってみれば、そう簡単に物事がうまくいくはずないと斜に構えていたのである。
「どうせ女性が混浴風呂にいたって、おばちゃんとかなんだろ?」
それにしても様子がおかしいなとキョロキョロ周囲を見回す勇太は、振り返ってひとまず仲間を呼ぶことにしたのだ。
「おい、何か湯煙の色がピンクなんですけど。おかしくね?」
「おかしい事は何もないですよ。どうせライティングでピンクな雰囲気を醸し出しているんですよセンパイ。さあ早く行きましょう!」
今年入社の後輩くん、寺岡は元気そうに勇太へそんな返事を返して見せる。
「ネットにはそういう情報書かれて無かったじゃないか」
「きっとその情報が古いんですよ。最近になって追加されたサービスなんでしょう。不倫旅行にも使われるなんて話も書かれていたし、サービスですよサービス」
釈然としない気持ちでいる勇太に対して、寺岡はあっけらかんとしたものだ。
後輩の彼もまた全裸の格好でタオル一枚だが、勇太が気恥ずかしそうに前を隠しているスタイルなのに対し、寺岡の方は正々堂々ぶーらぶらである。
「何やってるんですかセンパイ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。石鹸を持っていくからさ」
「そんなの後でいいじゃないですか、混浴ですよ混浴、わかりますか?!」
息子がご立派な後輩を見て勇太はとても嫌そうな顔をした。
なんのかんのと理由を付けて中に入るのをためらっていると、後輩の寺岡に続いて大ベテランの先輩、瀧脇さんがのしのしとピンク色の湯煙の中に入っていくではないか。
「そうだぜ稲岸、俺たち先に行っているからな」
何の不思議さも感じない堂々とした瀧脇先輩は、職場でもこの道二〇年のベテランで、何事にも動じない性格な点を頼りにされていた。
無駄に鍛えられた職場の先輩の大きな背中を見送りながら、勇太はゲンナリとした気分になったのである。
「まあ、考えすぎてもしょうがないよな……」
勇太の性格はいつも物事を慎重に考えるタイプだ。けれど日頃の職場の疲れを癒しにやって来たのに、気疲れをしてもしょうがない。
どうせ石鹸は普段使っているのじゃなくても、浴場なんだから据え置きのモノがあるだろう。こだわりが勇太の中にあったわけではない。
そう考えて彼らの後を追いかけた矢先に、
「ほげぇ! 何だコレハ?!」
「ど、どうしましたか瀧脇さん、うぎゃー!!」
ピンク色の湯気の向こうからけたたましい瀧脇の絶叫が聞こえてきたかと思うと、今度は寺岡の悲鳴が続いたのだ。
焦った勇太は、まだ脱衣所で服を脱いでいる途中だった仲間たちに声を荒げる。
「おい、中から瀧脇さんの悲鳴が聞こえてきたぞ!」
「え、何があったんだよ。岩場で足を滑らせたのかな?」
「わからん。とにかく行ってみよう!」
勇太は数名の同僚たちと真っ裸で駆けだした、そして湯煙の中に身を投じる。
「ちょ、ここはいったい、どうなってるんだこれは……」
「あっセンパイ」
果たして勇太たち職場の同僚が飛び込んだ先にあったのは、温泉旅館の混浴場などでは無かった。
まるで教会スタイルの結婚式場みたいな荘厳さと清楚さ、そしてすがすがしさがある様な、露天浴場とは似ても似つかない様な西洋建築の宗教施設に見えたのだ。
「ようこそ、選ばれた勇者のみなさん。わたしはこの世界を創りし主母神の眷属、女神マリンカーです」
誰だよお前、とあっけにとられた全裸の同僚の言葉に、目の前にいる美しい女性がそう答えたのである。
大きな布切れ一枚を古代のローマ人の様にその肢体に巻き付けた様な着衣スタイル。
よく見れば、たわわな胸を隠す布切れには突起物が浮き上がっている事が理解できた。
職場の同僚たちは一同揃って息子をあわてて抑えながらも、状況判断をするために必死に思考を巡らせるのだった。
「どうも女神のお姉ちゃん。わたくし、株式会社インペラトル電設二課の瀧脇ってもんです」
「勇者タキワキ、はじめまして」
何を普通に自己紹介してるんですか瀧脇さん?!
勇太が何事にも動じない瀧脇さんに動揺を隠せないでいたところ、今度は後輩寺岡も「あ、俺は寺岡っす」などと挨拶を気軽にしている。
周りもお互いに顔を見合わせながら、そういう空気なのかと次々に挨拶をするものだから、最後に勇太だけが取り残されるのだった。
「あなたのお名前は? 猛き勇者さま」
「あ、どうも。稲岸勇太、二十六歳です。あのそれで、勇者ってどういう事ですかね?」
「そうですね、まずはあなたたち勇者のみなさんにこの世界について説明しなければなりません。けれどもみなさま、一身に何も纏っておりませんので、まずはお召し物を……」
職場の慰安旅行に出かけた先。
ピンク色の湯煙を飛び出してみれば、そこは異世界だったのである。
2017.1.26改稿