幕間一 もう一つの巡り会い
「な、なんですって……?」
その時、少女は愕然とした声を上げた。
そこは、パドロの市街の一角。学生達によく利用される宿屋兼食堂だ。
その丸テーブルの一つにて。
紅いリボンで結んだ蜂蜜色の髪が美しい少女と、深い緑色の髪を持つ大柄な少年が向かい合わせに座っていた。
リーゼ=レイハートと、ジェイク=オルバンの二人である。
祝日で休校だった二人は共に私服であり、リーゼは上質の白いワンピース。ジェイクはポケットの多いつなぎのような服を着こんでいる。こうして二人で席に着いていると、まるで休日のデートのようにも見えるが、そうではない。
何やら様子がおかしかったコウタを心配し、リーゼがジェイクを呼び出したのだ。
色々とリーゼに対して借りと思惑のあるジェイクには断ることも出来ず、結局教えることになったのが、今週末にあるコウタとメルティアのデートの一件だった。
「コウタさまが『デート』……。そ、それも『キス』ですって……?」
あまりの事態に愕然とするリーゼ。
一方、ジェイクは気まずげに頬をかく。
「まあ、『デート』って言っても真似事みてえなもんだよ。『キス』も含めてな」
と、フォローも入れるが、リーゼの耳には届いていないようだ。
ただただ、出し抜かれた理不尽さに打ちのめされていた。
が、数十秒も経つと、彼女は椅子を倒すような勢いで立ち上がった。
「お、お嬢……?」
そして目を丸くするジェイクを置いて早々と店を出た。
ジェイクは慌てて会計を済ますと、リーゼの後を追った。
肩で風を切る彼女の様子はかなり鬼気迫る。
明らかに尋常ではない様子だった。
「ちょ、ちょい待てよ、お嬢! どこに行くんだよ!」
ジェイクはリーゼの手を掴み、彼女の足を強引に止めた。
すると、リーゼはやや涙目になった表情でジェイクを睨みつけ――。
「決まっているでしょう! メルティアのところですわ! 詳細を聞きだします!」
「いや、詳細って……多分この件についてはメル嬢も相当テンパってると思うぞ」
と、ジェイクが宥めようとするが、リーゼは聞かない。
蜂蜜色の瞳をぐるぐると。
ただ、ぐるぐると回して「卑怯ですわ!」「ずるいですわ!」「わたくしもデートを所望致します!」と口走っている。完全にパニックを起こしていた。
ジェイクは心底困ってしまった。
彼はリーゼの従者であるシャルロットと恋仲になりたいと願っていた。
そのため、リーゼに対してはこれまでも何かと協力してきたが、今回の件を馬鹿正直に伝えたのは失策だったか。具体的な危機を前にした時のリーゼのメンタルは、思いのほか弱いものだった。
「う、うえええ、あんまりですわぁ……」
遂には泣き出す始末だ。
「お、おい、お嬢……」
流石に渋面を浮かべるジェイク。何気にここは人通りが多い大通り。
こんな場所でリーゼほどの美少女を泣かせれば、突き刺さる視線が半端ない。
(こ、こいつはヤベエ……)
これはもしかしてとんでもない状況なのでは……?
このままでは、自分は可憐な美少女を泣かせる極悪人だ。
ジェイクが、内心でそんな危機感を抱いていたせいか、リーゼの腕を掴む手がわずかに緩む。するとリーゼが再び身を翻し、今度は走り出した。
目的地は――間違いなく魔窟館だろう。
「お、お嬢! 待てよ!」
ジェイクは焦った。このままでは自分の手には負えない修羅場が発生する。
当然コウタにも収拾など出来ないだろう。まさに危機的な状況だ。
(マジでヤベェ……どうする!?)
と、リーゼを追いながら、冷たい汗を流したその時だった。
「……あら、どうしたの?」
不意に大通りに響く優しげな声。
同時に、リーゼの身体が押し留められた。
彼女の前に一人の女性が現れ、泣きじゃくるリーゼを受け止めたのだ。
「………ひ、ひっく。え……?」
リーゼは抱きしめられたまま、顔を上げた。
年の頃はリーゼ達よりも少し上。十六歳ぐらいか。
黒曜石のような黒い瞳と、腰まである長い黒髪が実に印象的な少女だ。
温和そうな顔立ちは同性であるリーゼでさえ見惚れるほど美しく、彼女を抱きとめた双丘はとても豊かで柔らかかった。まるで女神を思わせるような女性である。
身長はリーゼよりも少しだけ高い。
抜群のプロポーションの上には、背中や半袖の縁に炎の華の紋が刺繍された白いタイトワンピースを着込んでいる。どこか制服に似たコートを思わせるデザインだ。そして足には黒いストッキングと茶色の長いブーツを身につけていた。
彼女はまじまじとリーゼを見やると、
「どうかしたの?」
心配そうに声をかける。
「あ、いえ……」
年上の女性の言葉に、リーゼはようやく少しだけ落ち着きを取り戻す。
途端、気恥ずかしくなってきた。いくら取り乱していたとはいえ、こんな場所で子供のように泣きじゃくったのだ。淑女としてはあるまじき失態である。
思わず口籠っていると、黒髪の少女は眉をひそめてジェイクの方に目をやった。
「あのね、君」
少し厳しい口調で彼女は言う。
「男の子が女の子を泣かしちゃダメでしょう」
「い、いや、オレっちは……」
やはり誤解されてしまったらしい。
ボリボリと頭をかいて、ジェイクは渋面を浮かべた。
一方、リーゼも状況を察したようだ。慌てて黒髪の少女に告げる。
「い、いえ、違いますわ。オルバンは悪くありません。ただ、彼から少し取り乱すような話を聞いてしまって……」
「……取り乱すこと?」
黒髪の少女は眉根を寄せた。
すると、そこにジェイクがやって来て、
「えっと、初めまして。オレっちの名前はジェイク=オルバンって言います」
頭を下げると、そう挨拶をした。
それに合わせて、リーゼの方も黒髪の少女から一旦離れると、スカートの裾を軽く巻くしあげて淑女と呼ぶに相応しい挨拶をする。
「初めまして。わたくしはリーゼ=レイハートと申します。お見苦しいところをお見せして申し訳ありません」
思いのほか礼儀正しい二人に挨拶され、黒髪の少女は「ふふっ」と笑い、
「丁寧なご挨拶ありがとう。私の名は――」
そこで何故か言葉が止まった。が、すぐに彼女は笑みを深めて。
「サラよ。そう呼んで」
そう名乗ってから、改めてリーゼ達に目をやった。
「それで、どうしてリーゼちゃんは泣いていたのかな?」
そして十数分後。
場所は騒がしい大通りから移動して、ひっそりとした路地裏。
プライベートなことなので、この場にいない個人名だけはあえて伏せつつ、リーゼとジェイクはサラに大まかな事情を告げた。
「………う~ん」
一方、サラは大きな胸を支えるように腕を組み、渋面を浮かべていた。
「そっかぁ。油断している内に出し抜かれちゃったのか。けど、何と言うか、どこの国にもいるものなのね。鈍感な天然たらし系は……」
と、独白する。その声は実に疲れ切った様子だった。
リーゼとジェイクは顔を見合わせ、首を傾げる。
すると、おもむろにサラは真剣な顔をして――。
「あのね、リーゼちゃん」
「は、はい。なんですの?」
どこか緊張した面持ちをするリーゼに、サラは自身の経験談を語った。
「そういう人を好きになった以上、この程度で動揺してはダメよ。私の恋人もその系統だったわ。本っ当に苦労するわよ。その人は別に浮気症なんかじゃなかったんだけど、とにかく無自覚で女の子を落としまくってね」
「は、はあ……」
いきなりそんなことを語られ、とりあえず相槌を打つリーゼ。
サラの熱弁はまだ続く。
「そういう人はもう覚悟を決めるしかないの。この戦いは結婚しても終わらないのよ。それこそ死ぬまで続くんですからね。果てしなきバトルなのよ」
その声には、しみじみとした感情が籠もっていた。
恐らく彼女の恋人である人物を思い浮かべているに違いない。
「……はははっ、なんかサラさんも相当苦労しているんすね。一度、サラさんの恋人っていう人に会ってみたいっすよ」
と、ジェイクが苦笑を浮かべて告げる。
「ふふ、そうね。正直なところ、『私が正妻なら、もうハーレムでもいいかな~』って思った日が何度もあったわ。本当に苦労したものよ」
と、サラは嘆息してかぶりを振った。長い黒髪が緩やかに揺れる。
――しかし、その後のことだった。
不意に、サラは美しい顔立ちを曇らせた。
そして一拍の間を置いて、とてもか細い声で呟くのだった。
「……けど、それでももう一度逢いたいの。本当は今だって傍に……」
「………サラさん?」
その声はほぼ独白だったのだが、わずかに耳に届いたリーゼが眉根を寄せた。
すると、サラはハッとした表情を見せた後、
「ま、まあ、それはともかく!」
まるで秘めたる心情を誤魔化すように、リーゼの肩を力強く掴む。
「しっかりしなさいリーゼちゃん! 少し出遅れたかもしれないけど、挽回ならいくらでも出来るわ。あなたがその男の子を諦めない限りね!」
「は、はい!」
経験から出た言葉だったからだろうか。
凄まじく説得力のあるサラの台詞に、リーゼはコクコクと頷いた。
それから胸元まで拳を上げると、グッと握りしめ、
「そうですわね! サラさんの仰る通りですわ! この程度で絶望してはレイハート家の名折れ! わたくしは諦めませんわ!」
「うん! その意気よ! 頑張ってリーゼちゃん!」
と、激励してリーゼの背中を後押しするサラ。
傍らにいるジェイクは、少女達のテンションに頬を引きつらせるだけだった。
「ではオルバン!」
と、不意にリーゼがジェイクの方に振り向いた。
「早速行きますわよ。まずはこの状況を詳しく調査しなければ!」
「お、おう。そうだな」
少女の気迫に圧されるジェイク。
それからリーゼはサラに優雅に一礼し、「サラさん。ご助言ありがとうございます。またいつの日かお会い出来る日を楽しみにしております」と告げて、
「さあ、行きますわよ!」
「お、おお。そんじゃあサラさん。またどこかで」
と、ジェイクも別れを告げ、二人は路地裏から大通り向かって行った。
その様子を、サラは手を振りながら見送り、
「ふふっ、楽しい子達だったわね」
立ち去った少年と少女の姿を思い浮かべて、優しげに微笑む。
そして、しばし彼らの騒がしい様子の余韻を楽しむサラだった――が、
「……終わったようですね」
いきなり後ろから、そんな声をかけられた。
振り向くとそこにいたのは、未踏の地を行く冒険者が好むような動きやすそうな服を着た一人の女性だった。腰には短剣も差してある。
年の頃は二十代半ば。黄色い短髪が印象的な女剣士だ。
サラの従者兼護衛でもある彼女は、名前をジェシカと言った。
「姫さま」
ジェシカは頭を垂れて主君に進言する。
「いくら偽名とは言え、見知らぬ他人に名乗るのはどうかと。万が一ではありますが、そこから足がつく恐れもあります」
「ああ、ごめんなさい」
対し、サラは気まずげな表情を浮かべた。
確かに、少しばかり迂闊だったかもしれない。
そう反省しつつ、彼女は後ろに手を組んで歩き出す。
ジェシカもサラの後に続いた。
「私の弟――実際は『彼』の弟になるんだけど、もしも、今も生きていたらあの子達と同じぐらいの歳になるんだなって思っちゃって……」
そこで、サラは長い黒髪を揺らしてかぶりを振った。
「つい、話しかけちゃったの。咄嗟にもういない友達の名前まで借りてね」
そう告げるサラの黒い眼差しは、とても寂しそうだった。
彼女の事情を知るジェシカは、わずかに視線を落とした。
「……姫さま」
ジェシカは改めて少女に尋ねる。
「本当に宜しいのでしょうか。あの組織は姫さまにとって……」
そこで言葉を止める。
その先は、主人である少女を傷つけるのではないかと思ったからだ。
「……ふふ。優しいね。ジェシカは」
と、従者の心中を察したサラは微笑みを浮かべた。
それから、わずかに空を見上げて語る。
「確かにあの組織には強いわだかまりがあるわ。私にとっては絶対に許せない相手よ。でもそれはあくまで私個人の話なのよ」
「…………姫さま」
ジェシカは、主君の小さな背中に目をやった。
彼女のこの背には一体どんな想いが宿っているのだろうか。
路地裏を歩きながら、二人の間にしばし沈黙が続く。そして、そのまま大通りの前に出ると、人の流れが移りゆく様子に目をやって――。
「わだかまりは一旦捨てるわ。私はもう個人じゃない。だって、今の私は――」
サラと名乗った少女は振り向き、従者に決意の笑顔を見せた。
「《ディノ=バロウス教団》の盟主なのだから」




