幕間一 三人目の花嫁
……チチチ。
とある朝。小鳥の声が耳朶を打つ。
(………ん)
その時。
一人の少女が目を覚ました。
場所は寝室。異界にある館の一室だ。
彼女は黄金に似た蜂蜜色の長い髪を流して上半身を起こした。
リーゼ=レイハートである。
ベッドの上のリーゼは、片腕を上に伸ばして「ふああ」と欠伸をした。
常に淑女を心掛ける彼女らしくない所作だ。
ただ、それも仕方がない。それだけ疲れているせいだった。
リーゼは一糸も纏わない裸体だった。きめ細かい肌を惜しむことなく露出している。
「…………」
リーゼは一度室内を見渡してから、ボーっと宙空を見つめた。
そして、
「……はあ」
大きく息を吐いた。
「……なんて情けない」
両頬を押さえてかぶりを振った。
「昨夜もダメダメでしたわ。これでは悪竜の花嫁失格です」
と、昨夜のことを思い出して嘆息した。
この異界で過ごして数ヶ月。すでに幾度も閨を共にしたというのに、自分は初めての夜から何も変わっていない。
騎士の顔も、淑女の面影もなく、一人の女として彼の腕の中で甘えるだけ。彼の力強さと激しさの前に、最後は理性も言葉も失って必ず先に果ててしまう。昨夜も結局同じだった。しかも翌日は今のように爆睡だ。激しい疲労のせいではあるが、いつも彼より起きるのが遅いのは、妻としてはどうしても情けなく思ってしまう。
『……リーゼは』
初めての夜。
彼はリーゼを腕に納めながら、彼女の髪に触れて言った。
『いつも危険な目に遭う。いつも奪われそうになる。だから今夜ボクは――』
彼の腕はどこまでも力強かった。
『たぶん貪欲になる。後悔しないでね。リーゼ』
彼はそう告げた。
後悔などあるはすもない。覚悟などとうに済ませている。
リーゼは彼のすべてを受け入れた。
そうして、
(……コウタさま)
リーゼは唇に指先を当てた。
あの夜、メルティア、リノに続き、遂に自分も悪竜の花嫁となった。
薄々理解はしていたが、彼の強欲さを改めて思い知る夜となった。
そして、その強欲さ、容赦のない貪欲さに目を回すほどに、自分がどれだけ深く彼に愛されているのかも知った。
(それは嬉しくはあります。ですが……)
リーゼは「……はあ」と溜息を零した。
初夜は仕方がない。しかしながら、以降の夜、全然彼に尽くせていなかった。
ただただ目を回すばかり。間違いなく彼には愛されているが、今のままだと、何もできずに強欲な魔竜に食べられているだけのような気がする。
ここまで自分が無知であり、無垢であるとは思ってもいなかった。
(最低限の技術だけは習得すべきでしたか……)
そんな風にも思う。
(この世界なら望めばそういう書物も手に出来ますが……)
リーゼは「う~ん」と片手を頬に当てて小首を傾げた。
そこで気になるのは、他の先達の花嫁たちはどうしているのかだ。
(リノ=エヴァンシードは)
リーゼは少しむすっとした表情を見せた。
(コウタさまの愛する者に対する貪欲さを完全に秘匿してましたわね。わたくしたちも貪られてしまえといったところですか)
それはある意味でリノも抗えなかったということだ。
まあ、あの強かな少女なら、いつまでもそのままではいないとは思うが。
(メルティアは)
最も親しい少女のことを思う。
ややあって、少し苦笑を浮かべて、
(まあ、彼女は甘えるのでしょうね。むしろコウタさまに甘えることに関してはプロフェッショナルです。ありのまま、きっと今も全力で甘えています)
ただ、それはきっと夜だけの話だ。
メルティアの心はすでに変化している。
――そう。愛する男に愛された女が変化しない訳がない。
それ以外の面で彼女は密かに努力をし始めていた。
(わたくしも)
リーゼはシーツで身を覆い、ベッドから立ち上がった。
(夜伽では未熟。というより抗える気がしませんわ)
ここは無垢のプロであるメルティアを倣って受け入れよう。
すべてを受け入れて、女としてはコウタだけの色に仕上げてもらうのもいい。むしろ、ちょっとだけそれを望んでいる自分がいた。
(ま、まあ、それはともかく)
赤い顔でリーゼはふるふるとかぶりを振って、表情を改めた。
(悪竜の花嫁としては、他の面で自分を鍛え上げるべきですわね)
リーゼは方針を決めた。
悪竜の花嫁とは、ただ愛されるだけの存在ではない。
すでに愛された花嫁たちも。これから愛される花嫁たちも。
その心には確かな強さを持っていた。だからこそコウタに望まれるのだ。
そもそもリーゼの生き方として、自己を磨き続けられない者など、騎士とも淑女とも呼べない。努力とはし続けるものなのである。
(まずは日課の修練からですわ)
周囲を見やる。
床には昨夜脱ぎ捨てた寝間着。壁には騎士服が掛けられている。
どうにも対照的な衣服だが、どちらもリーゼのモノであることに変わりない。
しかし、いま選ぶべきは騎士服だった。
「すでにコウタさまは朝の修練に出かけられているようですわね」
リーゼは歩きながら呟いた。
疲れて眠るリーゼを無理に起こしたくなかったのだろう。
彼はいつだって優しい。だが、それに甘えていてはいけない。
「せめて次は同時に起きるぐらいは頑張りましょう。さて」
リーゼはシーツを脱ぎ捨てた。
そのまま裸体で室内のシャワールームに向かう。
まずはシャワーを浴びて心と体を引き締めるためだ。
それから修練だ。
「あなたに相応しくあり続けるために」
リーゼは言う。
「わたくしは常に高みを目指し続けますわ」




