プロローグ
――これは一体どういう状況なのか。
コウタには何一つ分からなかった。
しかしながら、本能が告げていた。これは恐るべき危機であると。
自然と、断界の剣を握る手にも力が籠っていく。
場所は翡翠色の宝珠の中。コウタたちしかいない異界の館だ。
そこに、コウタと彼女がいた。
コウタと同い年の十六歳の少女。これまたコウタと同じく、エリーズ国の騎士学校の制服を着た可憐で美しい少女だ。先端がカールした蜂蜜色の長い髪が印象的なのだが、コウタが贈って、いつもつけてくれている赤いリボンは床に落ちていた。
――リーゼだった。
レイハート公爵家の令嬢たるリーゼは淑女の鑑であり、常に公平で穏やかな性格をしているのだが、今の彼女は異質だった。
(……リーゼ)
コウタは表情を険しくする。
目の前に立つリーゼ。そこに普段の面影はまるでない。手には長剣を持ち、それを構える訳でもなく切っ先を床に付けている。だらりを両腕を下げて、足は大きく横に広げつつ重心を落としていた。普段の彼女の構えではない。凛々しい騎士でもあるリーゼはこんな雑な構えは取らない。
だが、普段と最も違うのは、瞳に宿すのは激しい敵意だ。
まるで追い詰められた獣の眼光。
彼女がこんな眼差しをコウタに向けることなど一度もなかった。まだそこまで親しくなかった頃でさえだ。
「……リーゼ」
コウタは緊張しながら一歩前に踏み出した。
「動いちゃダメだ。君はまだ発熱していて――」
そう告げようとした時だった。
いきなり彼女の姿が消えた。コウタはギョッとして驚きつつも、迫る殺気に感じて反射的に断界の剣を身構えた。
――ギィンッ!
鋭い音が響く。それは断界の剣と交差したリーゼの長剣だった。
(―――な)
コウタは目を剥いた。
凄まじい速度だ。だが、それ以上に驚愕すべきは剣戟までの軌道だった。
リーゼは予備動作もなく天井にまで跳ぶと体勢を反転、天井を蹴りつけて今度は壁へと移動。そこも蹴りつけてコウタの間合いへと入ったのだ。
一度の跳躍がとんでもない。信じ難いほどの身体能力だった。
しかも、
(――クゥ!)
重い剣の一撃に、コウタは真横へと押しやられてしまった。
全身を使った攻撃とはいえ、リーゼのあの軽い体重と華奢の腕でだ。
コウタは大きく間合いを取った。
しかし、リーゼの攻撃は終わらない。今度は走り出すと、そのまま壁を駆け上がって壁沿いに間合いを詰めてくる。流石にコウタも息を呑んだ。
――ギィンッ!
再び斬撃。それも断界の剣で凌いだ。
だが、やはり重い。狭い寝室から廊下へと吹き飛ばされる。コウタは転がるように回転して立ち上がると、その勢いのまま廊下を駆け出した。リーゼも追ってくる。
(――く!)
ちらりと後ろを見て、コウタは眉をしかめた。
リーゼの追跡方法が異常だった。走るのではなく床を始め、天井、壁を連続で蹴りつけて追ってくるのだ。
(……リーゼ)
コウタは走りながら、険しい表情を浮かべる。
明らかに普段のリーゼではなかった。
彼女の剣はもっと洗練されている。体捌きにしてもあんな獣じみた動きはしない。
そもそもあれは人間に出来るような動きではない。身体能力に優れたアヤメや、焔魔堂の戦士たちでも難しいだろう。
リーゼに何かしらの異常が起きているのは明白だった。
(それにあんな動きをしてリーゼは大丈夫なのか?)
そこが一番心配だった。
リーゼの瞳には敵意しかない。どこか追い込まれたような敵意だ。
時折、咆哮まで上げて、普段は可憐な口元に今は唾液も垂らしている。
コウタは、ギリと歯を軋ませた。
(……あいつは!)
リーゼに毒を盛ったという女山賊を思い浮かべる。
(一体、リーゼに何をしたんだ!)
苛立ちを抱く。が、そうこうしている内にリーゼに追いつかれた。
刃が奔る! それも縦横無尽にだ。
天井、床、壁。狭い通路を十全に利用してリーゼが襲い掛かってくる!
コウタも足を止めて、斬撃の嵐を凌いでいた。
その間も苛立ちは消えない。
ただ、
(……ああ)
コウタはこうも思った。
凄く綺麗だと。表情こそ獣のようだったが、リーゼの動きは煌めくようだった。凄まじい速度で跳躍する姿は、黄金に似た蜂蜜色の髪が残像を残して輝いている。それは美しいとさえ思えるものだった。
(リーゼはやっぱり綺麗だ)
コウタは、改めてそう思った。
――ギィン!
彼女の斬撃を払いつつ。
コウタは再び走り出す。狭い空間ではジリ貧となると判断したからだ。
彼女の追撃を凌ぎながら、コウタは最も広い場所を目指した。
そうして解放された大きな門をくぐって、その場所へと到着した。
そこはこの異界でもコウタが最もよく利用した部屋。天井も高く、鎧機兵さえも召喚できる広い修練場だった。ここならば彼女も充分には動けないはずだ。
リーゼも遅れて修練場に到着した。
「―――――ッ!」
声も出さず、コウタを睨みつけている。
かああ、と口を開き、重心を低く構える。ポタポタと唾液を床に落としていた。
「……リーゼ」
コウタは断界の剣を、ヒュンと一振りして彼女を見据えた。
「ここなら広さは充分だよ。リーゼ」
コウタは告げる。
「君はどんな状況になっても本当に綺麗だ。初めて見せたその姿さえも」
「…………」
リーゼは無言だ。
切っ先を床に降ろして敵意を剥き出しにコウタを睨みつけている。
コウタはふっと苦笑を浮かべた。
「ボクは悪竜だ。強欲な悪竜なんだ。君のすべてを手に入れると宣言した。そう覚悟したんだ。だから」
コウタは改めて、断界の剣を構えた。
「今の君も例外じゃない。今から君のすべてを喰らい尽くす。全力で来なよ。リーゼ」
そう告げた。リーゼは一拍の間を空けて、咆哮を上げた。
ただの一歩で間合いを詰める。
――ギィン!
剣戟音が響く。
銀の刃と黒い刀身が交差した。さらに幾度も交わる。終わる様子は見せない。
煌めく怪物と、悪竜の騎士の剣舞は始まったばかりだった。




