幕間一 懊悩なる夜明け
とある日。
翡翠の宝珠の異界にて。
コウタは館の一角――普段は武芸の訓練場として使っている煉瓦造りの部屋で一人、座禅を組んでいた。
双眸を閉じて瞑想する。
時刻は明け方。ようやく日が出たところだ。
身につけているのはトレーニング用の服。
全身をぴっちり覆う特殊な布で出来ているらしい服だった。この異界で何となく求めたら入手できた品である。通気性がよく訓練時は彼女も愛用している。
まあ、体のラインが浮かび上がる服でもあるので、彼女的には目的を果たすために狙って着ていたようだが。
「…………」
コウタは無言だった。
ただ静かに座禅を続ける。
しかし、ややあって、
「……うわああぁ」
両手で額を押さえて天を仰いだ。
「ボクは、ボクって奴は……」
呻いてしまう。
それは二日前のことだった。
現在、コウタは彼女――リノと共に訪れた……実質的にはまたしても拉致されてしまったような気もするが、ともあれ、この異界にまた滞在することになった。
コウタにとっては非常に困った状況だった。
この異界が嫌いな訳ではない。むしろ、強い思入れがある。
リッカと共に療養した場所であり、何よりもメルティアと結ばれた世界なのだから。
――そう。遂に……。
この異界にて、遂にコウタはメルティアと結ばれたのである。
メルティアは世界一可愛い女の子だ。
笑うと可愛い。
怒っても可愛い。
拗ねても可愛い。
ピコピコするネコ耳も可愛い。
そんな可愛すぎる彼女を独り占めして。
コウタの想いはもう完全に爆発してしまった。
いや、暴走してしまったと言った方が正しいかもしれない。
翌朝。
ポカポカポカ、と。
頬を膨らませたメルティアが無言でコウタを叩き続けたのがその証明だった。
そんな仕草も、やっぱり可愛くてそのまま抱きしめてしまった。
その後はもう言わずもがなだ。
……正直、反省した。
ともあれ、コウタにとってメルティアがどれほど大切なのか再認識したのだ。
結果、コウタは考えを改めた。
かつてエルと異界で過ごして。
心の中に好きな少女が複数いることを自覚し、その中から『一』を選べず。
悩みに悩んで『零』か『全』かの両極端に至った。
そうしてエルと一緒に異界から無事脱出し、彼女たちと再会した時、自分の想いをはっきりと自覚した。
――彼女たちを離したくない。
自分の進む道は『全』の道なのだと。
そう悟ったのだ。
しかしながら、こうして愛する少女と結ばれて。
やはり愛する人は『一』。
――そう。ただ一人でいいと思い直したのである。
自分は所詮、平民で庶民なのだ。
奥さんが沢山いるなど一体どこの王さまなのかという話だ。
そもそも、メルティアだって公爵令嬢だ。彼女を伴侶にするということは、コウタは次期アシュレイ公爵になるということだった。
恩人であるご当主さまには本当に申し訳ないことをしたと思う。
なにせ、たった一人の愛娘を傷物にしたのである。
その場で斬り捨てられても異論はなかった。
けれど、それでもご当主さまを真摯に説得し、公爵家の後継になるつもりだった。
アシュレイ家の家督を継ぎ、メルティアと一緒に生きるために。
メルティアと異界で過ごしながら、コウタはそんな決意をしていた。
だがしかし。
コウタは見くびっていた。
メルティアの勇気にも匹敵するほどの覚悟を秘めていた少女のことを。
(……本当に)
未だ額を押さえながら、コウタは思う。
(リノは凄い子だ……)
彼女はコウタの心情を完全に読み切っていたのである。
それを踏まえて、この速攻即断の拉致だ。
コウタは生来からの頑固者だ。
それもあって半年間は頑張った。必死に頑張ったのだ。
しかし、毎日溢れんばかりの魅力を容赦なくぶつけてくる彼女に、先々日、とうとう陥落してしまったのである。
相手は元々強い好意を抱いていた少女。
その上、一度は『全』の悟りを開いてしまっていたコウタだ。
耐えきれるはずもなく、またしても暴走してしまったということだった。
「うああああぁ……」
自己嫌悪で呻くコウタ。
リノも……。
やっぱり、リノも凄く可愛かった……。
そこまで必死に我慢していたこともあって、最初の夜は本当に歯止めが効かなかった。
いつも堂々とした彼女の切なげな声を聞いてからは尚更だった。
『……お前さまよ』
あの夜、彼女はコウタの腕の中でこんなことを語った。
『愛する女は一人でいい。確かにその考え方もあるじゃろう。世の多く輩は……あっ、うあぁ……そ、そう、思うじゃろうな……』
頬から汗と、熱い吐息を零す。
彼女の白磁のような肢体は全身が汗で輝いていた。
部屋の窓から注ぐ月光で、より輝いているように見える。
彼女は喉を大きく鳴らしつつも、言葉を続ける。
『じゃ、じゃがな、愛が一つだけと誰かが決めた訳ではない。例えば、わらわの父上は母上たちを愛しておる。母上たちに……ふわあっ!?』
リノは大きく目を見開いた。
同時に呼吸が止まる。
『~~~~~っっ!』
全身を震わせて唇をきゅうっと噛む――が、
『――は、母上、たちに不幸な者など、一人もおらんっ!』
熱い吐息と共に、彼女はそう言い放つ。
『お前さまもそうすればよいのじゃ! ギンネコ娘を愛せ! わらわを愛せ! 他の者たちもじゃ! 誰一人不幸にしなければ――』
とっくに覚束なくなってしまっている身体を奮い立たせて、リノはコウタの両頬を掴んで互いの額をゴンッとぶつけた。
その紫色の眼差しは燃えているようだった。
『皆が幸せならば、誰にも文句を言われる筋合いもなかろう!』
雄々しくそう断言する。
その後、力尽きたようにコウタに全身を預けた。そのまま肩で息をしていたが、コウタが彼女の背中と腰に手を回すと、ビクッと体を震わせて、
『ちょ、ちょっと待って! その、ところでじゃな……本当に、ギンネコ娘はこれに付き合えたの? 今は何度目なのじゃ? いや、ずっとフワフワで愛されて幸せいっぱいなのじゃが、その、そろそろ加減を……』
そんな声も零した。
まあ、暴走しているコウタには届かなかったが。
その夜はとても長かった。
そうして現在。
(皆が幸せだったら、か……)
ゆっくりと、コウタは額から手を離した。
リノの言葉は強く心に残っていた。
(ボクは強欲だ。だけど……)
手を下ろして、両掌をじいっと見据える。
(好きだから彼女たちを離したくない。けど、それだけじゃない。彼女たちを幸せにしたいんだ。そのためにできることは――)
そこで小さく息を吐く。
今はまだその方法は見つからない。
(とにかく頑張らないと)
コウタは座禅を組み直す。
自分が選んだ道。
それは次期公爵になることよりも遥かにハードルが高いのだから。
「…………」
アロンの血なのか、こうして座禅を組むと落ち着いてくる。
懊悩も少しは和らぐようだ。
何はともあれ。
こうして心を決めたコウタだった。




