第三章 光と闇をその腕に④
夜の森。
コテージのウッドデッキ。
そこには今、誰もいなかった。
まだ眠りにつく時間ではないが、コテージは静寂に包まれている。
すると、
――ふっ、と。
唐突に二人の人物が現れた。
コウタとメルティアである。
コウタは騎士学校の制服。メルティアは白いブラウスと黒いパンツ姿。
二人ともいなくなる前と同じ格好だった。
コウタは、メルティアの両肩に手を置いていた。
静寂は続く。
二人は見つめ合っていた。
そうして、おもむろに唇を重ねた。
数秒ほど経って二人は離れた。
メルティアは唇に指先を置いて恥ずかしそうだった。
キスは初めてではない。
けれど、彼女はいつも少し照れていた。
(……ああ)
愛しい少女を見つめてコウタは思う。
(……メル。ボクのメル……)
幼き日から知っている大切な少女。
愛おしさが溢れてしまいそうだった。
遂に彼女と結ばれて。
コウタはこう思うようになっていた。
やはり愛する女性は一人であるべきだと。
そして自分にとってそれはメルティアなのだと。
(……うん。きっとそれが正しいんだ)
心の奥にあるリノたちへの想いが消えた訳ではない。
けれど、今ならその想いも抑えられる。
かつての決意も今なら変えられる。
きっと、彼女たちとは友人でいられる気がした。
(改めて話そう。彼女たちとは……)
心の中でそう決断する。
「あ、あの……」
と、その時。
メルティアが上目遣いでコウタに声を掛けてきた。
そしてピコピコとネコ耳を動かしながら、あごを上げて瞳を閉じた。
その意図は明白だ。
メルティアは恥ずかしがり屋だが、こうして積極的になる時もある。
コウタは微笑みながら顔を近づける――が、
「……流石にまたそれを見せつけられるのは嫌じゃのう」
不意に。
第三者の声が割り込んできた。
メルティアがギョッとして目を見開き、コウタは「う」と気まずそうに動きを止めた。
横を見やると、すぐ傍に腕を両腰に置いたリノが立っていた。
その瞳はジト目になっている。
「ニ、ニセネコ女……ど、どうしてここに?」
メルティアが愕然とした顔でリノを見やる。
すると、リノは「ふふん」と鼻を鳴らして、
「なに。そろそろ帰還すると思うてな。近くで待っていたのじゃ」
豊かな胸を張ってそう告げた。
それから前屈みになってメルティアを睨みつけた。
「……その様子では達成したようじゃな」
「は、はい……」
メルティアは視線を逸らしつつも、
「た、達成です。達成しました……」
うなじ辺りまで真っ赤にしてそう報告する。
リノは「そうか」と双眸を細めて、次にコウタの方に目をやった。
「そうじゃろうな。コウタの面構えも明らかに変わっておる」
「……え? そうかな?」
コウタは自分の顔をペタペタと触った。
「うむ。覇気が充溢しておるのう。父上の言った通りじゃ」
一拍おいて、
「男は女を知れば別人のように変わると」
「……い、いや、それは……」
コウタは思わず口籠った。
「ともあれじゃ。ギンネコ娘よ」
一方、リノは姿勢を元に戻してメルティアに告げる。
「一番槍。見事であったぞ。褒めて遣わそう」
「……何故上から目線なのですか?」
メルティアは、リノにジト目を向けた。
それに対し、リノもジト目で返して、
「正直に言って嫉妬もしておるのじゃ。これぐらいは甘んじて受けよ」
「……う」
メルティアは少し後ろに下がって呻いた。
次いで恥ずかしそうに視線を泳がせる。
「ま、まあ、確かに。そうですよね。私はもう……」
そう呟いて、コウタの方をチラチラと見やる。
するとコウタは「……うん」と小さく頷き、
「……リノ」
リノの方へと視線を向けた。
その表情はとても真剣なものだった。
「……ごめん。とても大事な話があるんだ。いいかな?」
「ああ~、待て待て。コウタ」
しかし、リノは掌を向けてコウタの言葉を遮った。
「コウタの言いたい台詞は予想しておる。こうなることは想定内じゃったからのう。ところでギンネコ娘よ」
「……なんですか?」
メルティアが眉をひそめてリノを見やる。
「お主が一番槍を担うことは、わらわにとっては不本意なのじゃが、満場一致で決まったことじゃ。それについては今更どうこう言うつもりもない。しかしのう、わらわはあえてあの場では口にしなかったことがあるのじゃ」
そこで困惑した様子のコウタを見やり、小さく嘆息した。
「予想はできておった。お主が一番槍を担えば、コウタは間違いなくお主を選ぶということはな。お主を生涯における唯一の伴侶としてじゃ」
「……え?」
メルティアは驚いた顔でコウタを見やる。
「……リノ」
コウタは再び真剣な眼差しを向けた。
「ごめん、リノ。ボクは――」
「だからちょい待て。コウタ」
だがしかし、リノはまたしてもコウタの台詞を遮った。
「一番槍をギンネコ娘に託した時点で、わらわは更なる先のことを考えておった。そう。実のところ、最も重要な役割とは――」
そこで再び前屈みになってメルティアの胸元を指先で突き、
「道を切り拓く一番槍のお主よりも」
一呼吸入れて、今度は自分の胸元を突く。
「運命を決める二番手のわらわの方だったのじゃ」
「え?」
目を瞬かせるメルティア。
「え? リノ? なんの話?」
コウタも同様に困惑の表情を見せている。
すると、リノは額に片手を添えてかぶりを振った。
「二番手として蜂蜜ドリルはダメじゃ。あやつにはコウタの本気の頼みは断れぬ。ある意味、あやつは誰よりも魔竜の贄たらんと心がけておるように見えるしのう。褐色ピンクと犀娘も押しは強いようじゃが、コウタの意志を曲げさせるほどの我の強さはない。ロリ神は年齢的にまだアウトじゃ。ジェシカとフルレンジ娘は『刃』と『鞘』。コウタには絶対服従のスタンスじゃ。そもそもジェシカは不在じゃしのう」
一気呵成にそう告げてから、
「そういった理由から、わらわしかおらぬのじゃ。二番手を担う者はな」
おもむろにリノは後ろ手に構えた。
「重ねて言うが二番手は極めて重要な役割じゃ。その成否によって未来が分岐すると言っても過言ではない。ゆえに悠長に構えてはおられん。時が経つほどに不利になろう。機を逃せば、わらわとてしくじる可能性は高い。そこでな」
リノは不敵に笑った。
そして後ろ手を前へと差し出した。
その手には――。
「……え?」
メルティアは目を見開いた。
コウタも「え?」と驚いた顔をする。
リノが見せた手には翡翠色の宝珠が握られていたのである。
メルティアは慌てて自分の衣服を確認する。
持っていたはずの翡翠色の宝珠はどこにもなかった。
どうやらいつの間にか、すられていたらしい。
「わらわは犯罪組織の長の娘なのじゃぞ」
リノは悪戯っぽく笑う。
「この程度の児戯、造作もない。そして――」
リノは宝珠をコウタに向けた。
「今こそが運命の岐路! ここが分水嶺なのじゃ! ゆえに有無は言わせぬ! 間髪入れずに行くぞ! コウタよ!」
「え? ちょ、ちょっと待って――」
コウタがそう叫ぶが、次の瞬間にはリノとコウタの姿は消えていた。
ウッドデッキが一気に静かになる。
ややあって、
「――――え?」
一人残されたメルティアは目を丸くした。
そして、
「――ええええええッ!?」
驚愕の声を上げるのだった。
………………………。
…………………。
……そうして。
二人が戻って来たのは深夜の一時過ぎだった。
場所は同じくウッドデッキ。
虚空から唐突に現れた二人は、互いに何も語らず向き合っていた。
沈黙が続く。
コウタは困ったような顔をしていて、リノはどこか不機嫌そうだった。
そして、
「……まったくもう」
ようやく口を開いたのはリノからだった。
「なんという頑固者なのじゃ。お前さまは……」
「ご、ごめん……」
コウタは本当に申し訳なさそうに肩を落とした。
リノは嘆息した。
「よもや半年もかかるとはのう」
少し遠い目を見せるが、すぐに不敵な笑みを浮かべて、
「それでも最後にはわらわの勝ちじゃったな。大勝利じゃ」
「……君って子は……」
コウタは深々と嘆息した。
「本当に凄いよ。ボクの完敗だった」
「ふっふっふ……」
リノは腰に両手を当てて、ドヤ顔で笑う。
「じゃが、これで運命は確定したの~。とにかく頑固じゃった最初の半年は実に不満じゃったが、結果的にこの一年間はコウタを独り占めで来たので大満足なのじゃ」
「……まさか一年も閉じ込められるなんて思わなかったよ」
コウタが疲れ果てた顔で言う。
すると、リノは「む」と片眉を上げて、
「何を言うか。褐色ピンクは二年じゃろうが。本音を言えば、わらわだってもう一年ほど延長したかったのじゃぞ」
不満げにそう告げる。が、すぐに大仰に肩を竦めて、
「まあ、そこは次の予約も入っておるしのう。次は蜂蜜ドリルか、褐色ピンク、それとも犀娘かのう? 誰から愛でてやるつもりなのじゃ?」
「い、いや、ちょっと待ってよ」
コウタは顔を引きつらせた。
「そりゃあ、リーゼたちに関してはこの一年で改めて覚悟はしたけど、そんなすぐって訳じゃあ……というよりその宝珠はもう止めてよ。ボク、実時間だと一週間も経ってないはずなのに、もの凄い勢いで人生過ごしているよ」
このコテージで過ごす一夜。
コウタだけは、すでに一年と一ヶ月半過ごしていることになる。
焔魔堂の里に拉致されてからだと、さらに二年と八ヶ月が加わることになる。
コウタの感覚ではもう四年近くも経っているのである。
いくらあの異界では、肉体的にはほとんど歳は足らないといっても、流石に感覚が狂ってきそうな状況だった。
「ふむ。そうじゃな」
腕を組んでリノは言う。
「確かに精神的にしんどいのう。今後の使用は異界時間で三日までとするか。まあ、初めて使う蜂蜜ドリルと犀娘、それと不在のジェシカ。数年後じゃろうがロリ神に対しては初回だけは充分な時間は与えてやることじゃな。それよりもじゃ」
コホンと喉を鳴らして、
「実はのう。今宵は皆とは別にコテージを一室借りておる」
「……え?」
リノの台詞にコウタはキョトンとした。
「へ? なんで?」
「むむ」
片手を腰に当てて、リノは不満そうに頬を膨らませる。
「一線を越えても鈍いところは変わらんのう」
そう呟いてから、
「今宵はまだまだわらわのターンということじゃ」
「――――あ」
そこまで言われて、コウタはようやく察する。
思わず顔が赤くなっていく。
「……ええい! 赤くなるでない!」
自分自身も頬を朱に染めつつ、リノは上目遣いに言う。
「今さら恥ずかしがることか。夜など幾度も越えておるではないか。初めての夜だけでお前さまの腕の中で何度果てたと思っておるのじゃ。この貪欲な魔竜め」
ギロリと睨みつけるリノ。
「確かに出会った頃、わらわを奪い尽くせと啖呵を切ったがあれはないぞ」
一拍おいて、
「あれはないぞ」
二回言う。
「え、えっと、それはごめん……」
コウタが赤い顔のまま、謝罪を口にした。
「その、あの日はもうボクも我慢が限界だったっていうか……」
「よく言う。あの日以降もじゃろうが」
リノの眼差しがジト目に変わる。
「もはや、わらわの身体においてお前さまが知らぬことなどなかろう。傾国の雛鳥と謳われたわらわを見事なまでに自分の色に染め上げおってからに……」
「……ううゥ。ご、ごめん……」
コウタが今にも頭を抱えそうな様子で呻く。
「だから謝るでない」
ふうっと嘆息して告げるリノ。
「すべて覚悟の上でわらわはお前さまの女になったのじゃからな」
「……リノ」
コウタはリノを見つめた。
「それともなんじゃ? わらわに手を出したことを後悔しておるのか?」
リノが意地悪く微笑んでそう尋ねると、
「そんなことはないよ」
それに対しては即座にかぶりを振るコウタ。
「そんな訳がない。それは絶対にだよ。リノ」
「ふむふむ。そうかそうか。うむ!」
リノは嬉しそうに双眸を細めると、その場で、トンと高く跳躍。ウッドデッキの柵の上に音もなく着地した。
蒼いドレスの裾を揺らして、くるりくるりと回転。
そしてコウタへと向けて再び跳躍した。
コウタは、両腕で彼女をしっかりと抱きしめた。
「夜月が輝く刻、わらわは猫じゃ」
自身の高鳴る鼓動を伝えるように。
リノはコウタの背中に腕を回して言う。
「お前さまだけに甘えるただの猫なのじゃ。だから」
妖艶に。
可憐に。
「今宵もフワフワに。わらわを愛でてたもれ。わらわの愛しいお前さま」
彼女は心からそう願った――。
――光と闇。
全く違う真逆の人生を歩んできた二人の姫君。
だからこそ対とも呼べる二人は遂に愛する人と結ばれた。
だが、ここで終わりではない。
むしろ、ここからが始まりだった。
ようやくのスタートなのである。
……幸あれ。
そんな言葉だけでは到底足りない。
もはや前途多難な人生が確定している少年であった。




