第三章 光と闇をその腕に③
時節は初夏だった。
訪れた頃は春だった。
――異界にも四季はあるのですね。
そんなことをメルティアは感じていた。
ここに来て一ヶ月半ほど。
メルティアは料理に頑張っていた。
それは、まさしく生まれて初めてのことだった。
自分が造る一切の作品にも頼らず。
自分の腕だけで料理にチャレンジしているのである。
それもいつもならば一度の失敗で挫折するところ、何度も挑んでいた。
しかしながら、その成果は芳しくない。
レシピ通りに作っているはずなのに、どうしても上手くいかない。
せめて一品だけでも、とハンバーグに限定して挑んでいるのだが、今もフライパンの上では黒焦げの暗黒物質が仕上がっていた。
少し切り取って味見をする。
「―――~~~っ」
思わず眉をしかめた。
やはり、これは食べ物ではないと思った。
味は無論のこと、とにかく固い。歯応えがもう肉ではない。
ただ、それでも彼は初めて作った日にガリゴリと食べてくれたが。
――こんなことではダメですね。
メルティアは嘆息した。
結局、この異界での最後のチャレンジも失敗に終わってしまった。
練習用の食材はせめて最小限にしているが、申し訳なさそうに失敗作を処理してエプロンを取り外す。首元を抑え、背中が大きく開いた白いワンピース姿が露になる。
――発明以外にも頑張らなくては……。
メルティアはそのままキッチンから出た。
彼の本心は、この世界に来た時に聞いている。
『よく聞いて欲しいんだ。メル』
この異界に初めて来た日の夜。
二人のための寝室にて。
彼はメルティアを見つめて、そう切り出した。
彼がどんな未来を考えているかはエルとリッカからも聞かされていたが、彼自身の口から改めて聞かされると、やはり少し動揺した。
ただ、それはメルティアも覚悟していたことだった。
返答は一つしかなかった。
その決断にも。
そして、何よりその後のことにも一切の後悔はない。
――それは当然の愛の帰結なのだから。
本当に幸せで胸がいっぱいだった。
ただ思い出すと恥ずかしい。
幼少期からの思い出があるからこそ、より恥ずかしい。
今も思い出して廊下で赤面し始めていた。
「~~~~~っ!」
あの日の夜だけではない。
今日までのことを思い出して顔や肌がどんどん赤くなる。
この一ヶ月半、本当に初めての経験ばかりだった。
呼吸が止まってしまいそうだったあの痛みも。
心と体の芯が震えるようなあの感覚も。
そのすべてが初めてだった。
まるで灼けつくようだったあの夜。
全身が火照り、あまりに熱く激しくて思考も定まらなかった。
いつしか時間の感覚もなくなって。
このままでは自我までなくなってしまいそうで怖かった。
卓越した知性を持った彼女だからこそ、より強くそう感じた。
だから、幾度目かに彼に抱きかかえられた時、彼の背中を必死に掴んだ。
――ふるふる、と。
上手く回らない言葉の代わりに首を横に振ったのだが、彼は『ごめん。無理』と言って聞いてくれなかった。メルティアは目を丸くした。彼が自分の懸命なお願いを聞いてくれなかったことも初めてだったからだ。
『……メル』
彼は彼女の名を呼ぶと、さらに強く抱きしめて、
『本当にごめん。メル。だけど』
とても止められそうにない。
そう囁いた。
そして――。
「~~~~~~~っっ!」
その後の自分の醜態を思い出し、プシュウっと頭から湯気を出すメルティア。
両手で顔を隠して悶えてしまう。
完全に知性が消し飛んでしまう事態があるなんて考えてもなかった。
本当にお馬鹿になってしまったと思う。
ややあって、
――ふ、ふううゥ……。
全身に籠った熱を放出するように大きく息を吐いた。
まだ火照る頬を両手でパンパンと叩く。
どうにかクールダウンすると、改めて思うことがあった。
これで課題が浮き彫りになったと。
彼の考えている未来には、流石に父も良い顔をしないだろう。
最悪、彼はアシュレイ家を追い出される可能性だってある。
だからこその料理だ。
いざとなった時、彼を支えるスキルが一つでも欲しかった。
極度の人見知りも、並みぐらいには改善しないといけないとも思っていた。
今までのメルティアにはなかった思考だった。
――世界が変わるということはこういうことなのですね。
廊下を歩きながら思う。
本当に、世界が一変したと思う。
廊下の窓に映る自分の姿を見やる。
容姿が変わった訳ではないが、自分でも大人びたようにも思える。
まあ、もっと変わったのは彼の方かも知れないが。
メルティアは少し早足で廊下を歩く。
十数分ほど進んである部屋の前に到着する。
メルティアと、彼の寝室だ。
メルティアがノックすると、「開いているよ」と声が返ってきた。
彼女は部屋に入る。
すると、彼は椅子に座って読書をしていた。
メルティアからすれば入門書レベルの内容だが、かなり難しい鎧機兵の構造について記した専門書である。この世界に来て、彼は武術の訓練のみならず、様々な知識を勉強するようになっていた。
その横顔はとても大人びている。
彼もまた真剣に将来を見据えて自身を磨いていることがよく分かった。
「メル」
彼はメルティアの方に視線を向けると破顔して本を閉じた。
次いで目の前にある丸テーブルに本を置き、
「料理は上手くいったの?」
そう尋ねてくる。
彼女は気まずそうに、ふるふるとかぶりを振った。
彼は「そう」と優しく瞳を細める。
「けど大丈夫だよ。メルは頑張ってるから。すぐに習得できるよ」
そう言ってくれた。
メルティアは嬉しくなって、彼の元に駆け寄った。
次いで家猫がするように彼の膝の上に座る。
そうして彼の首に腕を回して、耳を少し赤くして囁くようにお願いする。
明朝には帰還する予定だ。今夜はここでの最後の夜になる。
どうせなので少し我儘を言ったのである。
彼は「え?」と驚いたような顔をした。
「……体は大丈夫? 前回からまだ二日ぐらいだよ?」
膝の上のメルティアを見つめて尋ねてくる。
――が、頑張りますから。
紫銀色のネコ耳をピコピコピコ。頬を朱に染めてメルティアはそう返した。
一方、彼は考え込むが……。
「……うん。分かったよ。メル」
そう言って、メルティアの背中を支えて彼女の体を抱き上げた。
そのままベッドへと向かう。
この部屋に一つしかない天蓋付きのキングサイズのベッドだ。
彼はメルティアをベッドの淵に座らせると、
「……大好きだ。メル」
優しい眼差しのまま、彼女のネコ耳に触れてそう告げた。
メルティアは愛の言葉に全身を震わせて小さな吐息を零す。
そして、
――ボフンっと。
柔らかなベッドの上に背中から倒れ込んだ。
両腕を上げて、彼の前でしかしない無防備な姿を見せる。
金色の眼差しは蕩けるように熱を帯びていた。
そうして彼女はこう伝えた。
「私もです。あなたを誰よりも愛してます。コウタ」
――と。




