第六章 闇の中で……。①
暗い暗い、執務室にて。
――カラン、と。
ハワード=サザンは、ワイングラスを傾けていた。
眼前には開けた大きな窓があり、わずかに風が吹き込んでいる。
外には明るい月と瞬く星。そして街明かりが輝いていた。
「……ふん」
紅いワインを一口呑み、ハワードは目を細めた。
彼はこの景色が好きだった。
わざわざ照明を落としているのも、この景色を楽しむためだ。
光とは、闇の中でこそ映えるモノ。
ハワードの美学の一つである。
そして彼が再びワイングラスに口をつけた時。
――コンコン、と。
執務室のドアが鳴った。
ハワードはドアを一瞥して「開いている」と告げた。
するとドアの向こうにいる人物は「失礼いたします」と返答し、入室してきた。
入ってきたのは、四十代後半ほどの体格のいい男だった。
「……ルッソか」
ハワードが壮年の男を見やり、ワインを少し揺らした。
男の名前はベン=ルッソ。先代からサザン家に仕える執事長である。
「旦那さま」
ルッソは深々と一礼すると、主人に報告する。
「ワイズが動き出したようです」
「……そうか」
ハワードは、執務机の近くまで歩み寄ると、グラスをコツンと置いた。
「ワイズめ。相変わらず行動が速い奴だ」
そう言って、ハワードは昔を懐かしむように苦笑をこぼした。
五年ほど前に気まぐれで拾った男だが、その部下も含めてかなり重宝した。
恐らく、今回もハワードの望む結果を出してくれるだろう。
本当に役に立つ人材だった。
「……ふん。さて」
ハワードは、ルッソを一瞥して告げる。
「では、我々も準備をすることにしようか」
◆
「……ふう」
夜風が心地良い三階のバルコニーにて、コウタは小さな溜息をついた。
時刻は夜の十時頃。コウタは、つい先程まで泣きじゃくるメルティアを、必死に宥めていたのだ。この上なく骨の折れる仕事だった。
「はあ……プレゼント、か」
バルコニーの手すりに両腕を置き、コウタは再び溜息をついた。
彼女の話と様子からすると、リーゼにはプレゼントを贈ったのに、自分には贈られなかったことが、とてもショックだったらしい。
『コ、コウタは、私のことは嫌いなのですか?』
『そ、そんなことないよ!』
金色の瞳に涙を溜めるメルティアに、コウタは本当に慌てたものだった。
結局、パドロに戻り次第、メルティアにも、何かプレゼントを贈るということで決着したのだが、そこまで至るのに二時間も要したのだ。
「けど、考えてみれば、メルにプレゼントなんてしたことがなかったな」
コウタは、少し反省した。
恩という意味では、メルティアにこそ真っ先に感謝の証を贈るべきなのだ。あまりに近くにいたため、その発想を失念していたのは迂闊だった。
『なあ、コウタ。言葉で感謝を伝えるのもいいが、機会があんなら、感謝を形にして贈んのも大切なことなんだぞ』
村にいた頃の兄の言葉が蘇る。今回、リーゼにプレゼントを贈ったのも、兄の言葉が脳裏に浮かんだことが、理由の一つだった。
だというのに、最も感謝を贈るべき相手のことを忘れるとは。
「はあ……ボクはやっぱりまだまだだよ、兄さん」
夜空の星を眺めて、コウタは呟く。
そこでは、兄が呆れ果てた笑顔を浮かべているような気がした。
コウタはそんな自分の妄想に苦笑を浮かべつつ、
「けど何を贈ろうかな? まあ、メルなら何でも似合うだろうけど……」
と、贈るべきプレゼントを今から考えていたら、
「……ヒラサカさま。宜しいでしょうか?」
唐突に、後ろから声をかけられた。
コウタが驚いて振り向くと、そこには恭しく頭を下げる女性がいた。
レイハート家のメイドであるシャルロットだ。
「あ、シャルロットさん。こんばんは。何かご用ですか」
と、コウタが頭を下げて尋ねると、
「はい。実は先程、オルバンさまからお話をお聞きしました」
シャルロットは、表情を変えずにそう答えた。
コウタは「ああ、なるほど」と納得した。
そう言えば、コウタがメルティアを宥めるのに必死な時に、ジェイクは先にシャルロットの所へ行くと言っていた。
「……例の襲撃の件ですか」
「はい。オルバンさまはご自身の推測と共に――」
そこで、シャルロットは少しだけ困惑するような表情を浮かべるが、
「とても詳しくお教え下さいました」
と、すぐに平静を装って言葉を続けた。
コウタは訝しげに眉根を寄せる。
「あの、シャルロットさん? ジェイクと何かあったんですか?」
「……いえ」
シャルロットは、かぶりを振り、
「ただ……オルバンさまは、その、襲撃の件以外にもとても熱心に語られまして、少々驚いただけです。饒舌な方であるイメージがありませんでしたので」
「……は、はあ、そうですか」
コウタは何となく察した。
確か、ジェイクはこの目の前の女性が想い人だと言っていた。きっと普段は豪胆なジェイクでも流石に緊張して、必要以上に饒舌になってしまったのだろう。
「今時の学生は、いきなり『結婚して下さい』という冗談を言うのですね」
(ジェ、ジェイク……)
どうやら、ジェイクは相当テンパったらしい。
時に老獪な雰囲気を放つジェイクも、やはり十四歳の少年なのである。
ともあれ、コウタは気を持ち直し、
「そ、それで、シャルロットさん。襲撃の件ですが……」
「はい。ヒラサカさまとオルバンさまの推測は正しいと私も思います。リーゼお嬢さまは今も狙われている可能性があります。ですが――」
シャルロットは渋面を浮かべた。
「現状、護衛を呼ぶにも夜間伝達用の梟がいません。かと言って、今からパドロに戻るのも危険です」
「そうですね。夜間に移動するのは相手にとっては襲撃の絶好の機会ですし、朝一に出立するのが無難ですよね。けど……」
そこでコウタは、真剣な顔つきを浮かべて。
「一応、他の対策も考えています。聞いてくれますか」
そう切り出して、シャルロットに説明をし始めた。
彼女が真剣な面持ちで、話に耳を傾けて数分後。
「……なるほど。分かりました。その対策をお願いします」
と、シャルロットは首肯した。コウタも「はい」と頷き返す。
「けど、充分気をつけ下さい。一応みんなにもこのことを」
「はい。お伝えしておきます」
シャルロットは、そう答えると、「では、まだ仕事がありますので失礼します」と言葉を続けて一礼の後に踵を返した。
コウタは彼女の後ろ姿を眺めて――ふと、あることを思いつき、声をかけた。
「ああ、そうだ。シャルロットさん。素朴な疑問なんですが……その、シャルロットさんには、意中の方とかはいらっしゃらないんですか?」
シャルロットはピタリと足を止めて。
「ヒラサカさま? その質問には、どういう意図があるのでしょうか?」
振り返って眉根を寄せる。
「え? あ、いえ、昨日、サザン伯爵がいらっしゃったじゃないですか。シャルロットさんはサザン伯爵と同級生だったそうですし、その……」
と、言葉を詰まらせるコウタに、シャルロットは納得した。
「ああ、そういうことですか。私とサザン伯爵が恋仲だったのではないかと」
「い、いえ、まあ、そこまでは……」
コウタはボリボリと頭をかいた。シャルロットは口元を綻ばせる。
「私とサザン伯爵が、恋仲だったことはありません」
「あっ、そうなんですか」
と、内心でホッとするコウタだったが、
「ですが意中の男性ならいますよ」
「………え?」
コウタは目を丸くした。
「え、も、もしかして、恋人がいらっしゃるんですか?」
と、コウタが少し動揺して尋ね返す。
ジェイクのために、それとなく情報を探ってみようかと思っただけなのだが、下手すると親友を地獄に突き落とすような行為だったのか。
そんな後悔を抱くコウタだったが、シャルロットの返答は少し違っていた。
「恋人ではありません。私が『彼』と会ったのは四年前の一度だけ。それも少々厄介な事件に巻き込まれていたため、ゆっくりと会話をした記憶もありません」
と、自分の台詞に苦笑を浮かべるシャルロット。
彼女はさらに言葉を続けた。
「ですが、『彼』との出会いが今もずっと心に残っているのです。変ですよね。『彼』は私よりもかなり年下なのに」
「そ、そうなんですか」
少し唖然としてコウタは呟く。シャルロットの想い人が、歳の離れた年下というのは朗報かもしれないが、やはりジェイクとってはかなりの悲報のようだ。
「そ、その、シャルロットさんは年下が好みなんですか?」
せめて一つだけでも前向きな情報が欲しい。
そう思い、コウタが尋ねると、シャルロットは小首を傾げた。
「いえ、特に意識したことはありませんね。そもそも『彼』は子持ちで、そんなことに気を回す余裕もありませんでしたし」
「え? ええっ!? こ、子持ち!?」
まさか、シャルロットの想い人とは既婚者なのだろうか。
予想外の情報に、ただただ愕然とするコウタ。
一方、シャルロットは、もう会話は終わりとばかりに沈黙する。
そしてしばしの間、コウタを吟味するように見据えつつ。
シャルロットは、小声でポツリと呟いた。
「襲撃を防いでくれた件。次に備えた対策。お嬢さまを大切に思っていることは良く分かります。どことなく『彼』にも似ていますし、まあ、仮合格としておきますか」
「……? シャ、シャルロットさん?」
コウタは眉を寄せる。小声すぎて聞こえなかったのだ。
「どうかしたんですか?」
と、尋ねたら、シャルロットは「いえ」と呟き、
「では、失礼します」
シャルロットはそう告げて一礼すると、今度こそ立ち去って行った。
残されたコウタはしばらく唖然としていたが、不意に大きく息を吐いて脱力すると、再びバルコニーの手すりに両腕を乗せて体重をかけた。
そして一人空を見上げる。
夜空は、月と星のおかげで明るい。
実に活動しやすい夜だった。
「まあ、賑やかな夜にならなければいいんだけど」
そう言って、コウタは皮肉気に笑った。




