第一章 蘇る心②
翌朝。
まだ日の出から一時間も経っていない早朝。
一人の和装の男性がムラサメ邸の廊下を歩いていた。
歳の頃は四十代前半ほど。
紅い双眸に、額からは一本角。
肩まで伸ばした灰色の髪を持つ精悍な男性だ。
――ライガ=ムラサメ。
この屋敷の主人である人物である。
(いよいよ御子さまが出立される日か)
長い左右の袖に腕を入れて物思いに耽る。
(御子さまの護衛の選別は終わった。いずれも手練れだ。御子さまは表立った警護は望まれない。陰からの護衛になるが成し遂げることだろう)
出来ることならば自身が護衛に就きたかった。
しかし、ライガは最年少ながらも長老衆に名を連ねる者。
こうして御子さまが遂にお出でになられた今、責任ある者として、むしろ里から出るのが難しくなってしまった。
(無念だ)
つい渋面を浮かべて、そう思う。
ただ、生まれたばかりの息子の顔を毎日見れることや、苦労ばかりをかけている妻を労うことが出来るようになったのは嬉しくもあるが。
(いずれにせよ、御子さまの護衛はアヤメと陰たちに託すしかないな)
そう割り切って廊下を進んでいると、
(………ん?)
ふと気付く。
少し離れた前方に一人の女性がいることに。
光栄にも御子さまに護剣獣に選ばれた娘だった。
名はリッカ=ベースと言ったか。
リッカの名は、有難くも御子さまから授かったそうだ。
今は十六歳ほどの姿だった。
一度は御子さまに刃も向けたこともあり、一族には彼女に対して不満を抱く者も多い。
再び御子さまに刃を向けるのではないかと危惧しているのだ。
その心情は分からなくもないが、彼女は御子さまご自身が選ばれたのである。
臣下としては御子さまのご意志を尊重するまでだった。
(それにこの娘は……)
微かに双眸を細める。
彼女が抱える事情についてはライガも概ね知っていた。
それがどれほど過酷なモノだったかも。
嫁獲り方法にこそ強引な慣習が残る一族ではあるが、女性に対してはむしろ尊さと強い敬意を抱いているのが焔魔堂の男である。
ライガにしても、話に聞く件の男には相当に思うところがあった。
……下衆や外道という言葉も生温い。
もし妻を同じ目に遭わせたら八つ裂きにしても飽き足らない。
すでに死亡していなければ、死より辛い責め苦を与えてやりたいほどだった。
(お優しい御子さまだ。そんな傷ついた娘を放っておくなどできぬか)
ライガはそう思う。
――と、
「……おはようございます。ムラサメ、殿でしたか?」
ライガに気付いた彼女が一礼する。
「ええ。おはようございます」
ライガも一礼した。
「お早いですな。ベース殿」
「ええ。少々早く目が覚めまして」
そう返しつつ、彼女はライガに目をやると、
「ああ、ところでムラサメ殿」
一拍おいて。
「申し訳ありませんが、少々うろ覚えでして。確か今日の出立は午前の九時で間違っていないでしょうか?」
「ええ」ライガは頷く。
「それで合っていますが?」
そう返答するが、少し不思議にも思う。
出立の日時を決めたのは数日前だ。
うろ覚えになるようなことだろうか?
「ありがとうございます」
彼女は頭を下げた。
「ふむ。ベース殿」
ライガはあごに手をやって問う。
「ここ数日は体調が優れないご様子でしたが、今日は顔色がよろしいようです。お身体の方はもう大丈夫で?」
見たところ、本当に顔色は良い。
先日までは平然を装いつつも、どこか無理していることが隠しきれていなかった。
御子さまもそれをとても案じておられた。
だが、今日はそれが完全になくなっているように見える。
「ええ」
彼女は微笑んだ。
ライガは内心で少し驚いた。
彼女が微笑むところなど初めて見たからだ。
「昨夜は充分すぎるほどに休ませてきましたから」
「……そうですか」
ライガは彼女を見据えた。
今の笑みも無理をしている様子はない。
「ならばよいことです」
ライガは頷く。
「皇国までは距離があります。お体にはお気をつけて」
「ええ。ありがとうございます。ムラサメ殿」
彼女は感謝を告げる。
「申し訳ありません。あなた方には多くのことにご迷惑をおかけしました」
「いえ。こちらこそ申し訳なく思っております」
ライガはかぶりを振った。
「元を正せば我らの悪習が招いたことです。御子さまにもお叱りを受けました。これからは改善していくことになるでしょう。ですがそれは今後のこと」
言って、深々と頭を下げる。
「あなたには本当に辛い思いをさせてしまった」
「……いえ。それこそお気になさらず」
そう答えて、彼女は遠い目をした。
「今回のことは切っ掛けに過ぎません。あの男はいずれどこかで行動を起こしていたことでしょう。それを考えれば……」
胸元にそっと片手を添える。
「私は閣下に出会えた。それだけでも今回には救いがあります」
「……ベース殿」ライガは顔を上げた。
「我らが御子さまのこと、何卒よろしくお願い致します。ですが、同時にあなたご自身のこともご自愛ください」
「……ええ」
ライガの言葉に、彼女は少し間を空けて頷いた。
「本来ならば、閣下の騎士として、そして護剣獣として命を懸けて閣下をお守りすると宣言すべきなのでしょうが……」
そこで彼女は真っ直ぐライガを見据えて。
「今の私は閣下からもう一つ重要な使命を仰せつかっておりますので、無理はいたしません」
「……もう一つ?」ライガは眉をひそめた。「それは一体?」
すると、彼女はかぶりを振って、
「申し訳ありません。閣下のご意志でそれはまだ申し上げられません」
「そうですか」ライガは首肯した。
「なるほど。御子さまのご意志では秘匿も仕方がありませんな。では、私は準備がありますので、これで」
そう告げて、彼女の方へを近づいていった。
一方、彼女も自分から近づいていき、
――ペコリ、と。
すれ違う際に一礼した。
ライガも一礼して二人は互いに背を向ける。
そうして。
そのままライガは廊下の奥へと消えていった。




