第一章 蘇る心①
帳が降りて。
焔魔堂の里、出立前の前夜。
ムラサメ邸の一室にて。
彼女は一人、割り当てられた自室に籠っていた。
「…………」
灯も点けず。
障子越しに届く月明かりだけの部屋で彼女は無言だった。
目の前にはスタンドミラーがある。
彼女は、じっと自分の全身を見据えていた。
年齢は十六歳ほど。
額が見えるほどに短い前髪に、三角状の太い眉。目元はやや険しく、耳にかかる程度の長さの髪はボリュームがあり、波打つような癖毛になっている。
髪の色は灼熱色とでも言うべきか。元々は黄色だったのだが、その色は毛先のみに残っている。それが一層に灼熱を印象付けていた。瞳の色も同色だった。
背は低く、体格はスレンダーである。衣服は膝上まで覆う緋色の制服だが、ゆったりとして大きく外套のように見える。足には黒いストッキングを履いていた。普段はこの上に長い軍靴を履くのだが、この館は屋内では靴が禁止らしく今は履いていない。
「…………」
彼女はそんな自分の姿を見て、美麗ではあるが険しさを宿す眉をさらにしかめた。
そうして小さく「……ん」と声を零した。
少し前屈みになり、胸元を強く掴んで唇を噛む。
すると、スタンドミラーに映る彼女の姿が変化し始めた。
少しだけ四肢が伸びて、顔立ちが大人びてくる。
最も顕著な変化は胴体部だ。
大腿部と臀部、胸部が大きく膨らんでいく。
十数秒後には、十六歳だった彼女は二十歳ほどに成長していた。
身長は少し伸びた程度だが、スタイルはまるで別人だ。体格を隠すゆったりとした制服の上からでも分かる抜群なプロポーションへと大きく変化している。
彼女の本来の年齢。本来の姿である。
彼女は胸元を片手で抑えて、熱い吐息を零した。
そうして、
「……変化まで二十八秒か」
彼女――リッカ=ベースは嘆息する。
これは彼女が『リッカ』の名と共に『主君』より与えられた異能だった。
説明によると、本来これは体の大きさを自在に変化させる異能らしい。
だが、彼女の場合は特殊なケースであり、体の大きさは変えられないが、その代わりに年齢を変化させることが出来た。
試したところ、十二歳ぐらいから実年齢の二十歳までだ。
ゆったりとした特注の服は、全年齢に合わせたモノだった。
このまま年齢を重ねていけば、さらに変化できる幅が広がっていくかもしれないが、過去例がないので、それはまだ分からない。
「……護剣獣か」
リッカは呟く。
それが今の彼女という存在らしい。
彼女の主君の異能の剣を体内にて納める生きた鞘。
それが護剣獣とのことだ。
従って、リッカの体内には今、主君の剣が納められている。
そして彼女の背中には黄金の炎を纏う黒い斧剣の紋章が刻まれていた。
リッカがあの男の呪縛から解き放されて、主君の騎士と成った証であった。
「……閣下」
リッカは唇を強く噛んだ。
あの御方には本当に恩義がある。
命を拾った以上、その恩義は忠義で返すつもりだ。
だが、そのためには二つの問題があった。
一つは護剣獣の異能をまだ使いこなせていないこと。
姿の変化には時間がかかりすぎている。
加え、それ以上に問題なのは主君の剣の抜剣だった。
彼女の胸元から空間を切り裂くように飛び出る柄を主君が手に取り、そのまま抜剣されるのだが、これには五十秒近くもかかった。
抜剣するのに五十秒もかかってしまう鞘など笑い話にもならない。
しかも、抜剣した直後、彼女は膝から崩れ落ちてしまった。
剣と共に全身の力まで抜けてしまって、情けなくも主君に支えてもらった。
主君はとても心配そうに彼女に声を掛けてくれた。
結果的に十数秒ほどで全身の力は戻って来たが、これも大きな問題だった。
これらはすぐにでも克服しなければならない弱点だった。
そしてもう一つ。
「…………」
リッカは手で口元を抑えて表情を歪めた。
腰にも手を添えると、肩が大きく震え始めた。
リッカの抱えるもう一つの問題。
そちらは極めて深刻だった。
リッカは極度の男性恐怖症に陥っていたのだ。
忌まわしい過去は勇気を振り絞って乗り越えた。
だが、その心に深く刻まれた傷はそう簡単には消すことなどできない。
まだ顔見知りの男性ならば、緊張しつつも会話は出来る。
けれど、近づかれたらダメだった。
全身が震えて動けなくなる。
顔見知りであっても歯が鳴り始め、見知らぬ相手なら涙まで零れそうになる。
怖くて怖くて怖くて怖くて。
あの男の下卑た笑みが脳裏に浮かび、その場で硬直してしまう。
(……私は)
渋面を浮かべるリッカ。
唯一、恐怖を抱かない例外は命の恩人である主君ぐらいだった。
主君に対しては、恐怖よりも憧れの方が強いからだと彼女は分析している。
いずれにせよ、ほとんどの男に恐怖を覚えることには変わりない。
夜には汗まみれになって目覚めることもある。
(……なんて情けない)
リッカは自身に対してそう思うが、この症状は彼女の受け続けたあの悪夢を鑑みれば、仕方のないことである。
誰も責めることは出来ない。
断じて責めていいことではない。
しかし、リッカはこれを誰にも相談できなかった。
男相手では動くことも出来なくなる騎士などあり得ない。
ましてや、本来は男勝りの性格の彼女だ。
意地だけで今はひたすら周囲を誤魔化していた。
だがしかし、
(このままではダメだ)
口元を掴む手に力を込める。
いずれはこのメッキもはがれてしまう。
平時ならばまだいい。
しかし、もしそれが敵の襲撃時ならば――。
ギリ、と歯を軋ませる。
自分は騎士だ。主君の――閣下の騎士だ。
あの御方が望んでくれたから、今も命を繋げられたのだ。
恩義を危機で返すなど、断じてあってはならない。
(絶対に克服しないと)
口元から手を離し、強い眼差しでミラーの中の自分を見据える。
だが、心の復調には長い時間を要することになるだろう。
どんなに早くても数ヶ月。下手をすれば年単位だ。
そんな長い時間を足手まといのままでいることなど、仮に閣下や姫さまがお許しになっても自分が許せなかった。
(時間が、時間が足りない……)
もどかしい状況に、リッカは強く拳を固めた。
なにせ明日には旅立つのである。
全くもって時間が足りていなかった。
が、その時、ふと気付く。
(いや待て。時間だったら……)
彼女は制服のポケットに手を入れた。
そこにある確かな感触を掴む。
リッカは再び唇を噛む。
これは恐らく世界に一つしかない極めて貴重な戦利品。
同時に彼女にとって悪夢そのものだった。
とても一人では使えない。
たとえ、あの男が、すでに死亡していると分かっていてもだ。
そもそも彼女の心の復調は一人だけで克服できることではない。
異能の修練も行うのなら、やはり一人では無理だ。
ここで頼れるとしたら……。
「申し訳ありません」
リッカは、ポケットからそれを掴んだまま手を抜いた。
「本当に申し訳ありません。ですが、どうか、どうか今回だけは私の我儘をお聞き入れ願えないでしょうか」
そう願って、手の中のモノを見やる。
それは翡翠色の宝珠だった。
「閣下。何卒私にお力とお時間を」
そう呟いて、彼女は覚悟を決めると、部屋を出るのだった。




