第八章 緋はまた昇る➄
「………は?」
気付いた時。
ダイアンは遥か上空にいた。
異界の空だ。
横には雲。眼下には森に覆われた大地が見える。
「―――はあッ!?」
思わず目を見開いた。
「待て待て待てェ!?」
ジダバタと四肢を動かすが、空中では掴めるモノなどない。
強風を受けつつ、ダイアンは落下した。
「あのクソ女アアアアアッ!」
よりにもよって。
あの女は、こんな場所にダイアンを転移させたのだ。
ダイアンを異界に閉じ込めるのではなく、確実に殺すために。
高さ的には五百セージルほどか。
人間が落下して助かるような高さではない。
「ふざけんなあああああああ――ッッ!」
ダイアンは絶叫した。
時間停止を使ってみるが、それでダイアン自身が停まる訳でもない。
死のダイブは続行された。
「クソオオオオオオオオオオオオ――ッッ!」
声が枯れんばかりに絶叫を続ける。
地表は凄い勢いで近づいてくる。
このままでは助からない。
もし、助かる可能性があるとすれば――。
(木だ!)
このまま落下すればまず木にぶつかる。
その際に枝を掴むのだ。
こんな高さからの落下である。ただでは済まないだろうが、木の枝と自分の手足を緩衝材にすれば、どうにか即死だけは免れるかもしれない。
一縷の希望を抱いてダイアンは身構えた。
そして、
「ぎゃあああああああああ――ッッ!」
悲鳴と共に大樹にぶつかった。
無数の木の葉に視界を覆われる。顔や腕が枝で切り裂かれる。それにも構わず手を伸ばすと、太い枝で腕がへし折られた。
「ひぎゃあああ――ッッ!」
激痛を堪えて四肢を伸ばす。枝によって四肢は次々とへし折られる。それも一度だけではなく何度もだ。ダイアンは口元から泡を吹いた。
だが、その甲斐あってか、
――ザザザザザ……ドンッ!
落下の衝撃は大幅に減衰されていた。
地面に叩きつけられても即死しないほどにはだ。
「ひ、ひぎ、が……」
だが、それでもダメージは凄まじい。
四肢は粉砕されて、最後の衝撃で内臓もやられたようだ。
口元から涎と混じった吐血もしていた。
しかし、それでも、
(い、生き延びてやったぜ……)
あの女の最期の悪足掻きを乗り越えた。
この異界には館がある。ダイアンにとっての拠点だ。
そこに辿り着けば治療も可能なはずだ。
「は、あ、はあ……」
ダイアンは芋虫のように這いずって前に進もうとした。
その時だった。
「……グルルゥ」
ダイアンは、ゾッとした。
どこからか唸り声が聞こえたのだ。
この異界には、独自の生物も存在している。
面白半分の狩りでよく遊んだものだ。
それを思い出して、ますます血の気が引いた。
すると、
「……グルルゥ」
再び唸り声が響く。
それも一つや二つではない。
周囲の茂みの至るところから聞こえてきたのだ。
そして、それらは姿を現す。
「う、あア……」
ダイアンは茫然とした。
それらは灰色の毛並みの狼だった。
正確には狼に似た生物だ。
しかし、鋭い牙と爪。
そして獰猛さは狼と何ら変わらないケダモノどもである。
狼どもは警戒しつつも、ダイアンに近づいてくる。
「く、来るんじゃ、ねええ!」
ダイアンは時間を停めた。
狼どもは動きを止める。
しかし、三秒もしない内に再び動き出した。
「く、くそッ!」
ダイアンは、青ざめて再び時間を停める。
狼どもは止まる――が、今度は二秒と停止しなかった。
ダイアンは必死になって時間を何度も停める。
しかし、停止できる時間はみるみる短くなっていった。
それに合わせて鼻血も止まらなくなる。
狼どもは目前にまで迫っていた。
まるで命を懸けた子供の遊戯のようだった。
「――旦那ああああ!」
ダイアンは、空に向かって絶叫した。
「助けてくれええェ! 助けてくださいいいイィ!」
助けを求めるが、何の反応もない。
ただ近くの鳥が驚いて羽ばたいていくだけだ。
そうしている内に、狼の一頭がダイアンの折れた右腕に喰らいついた。
「ぎゃあああああああああ――ッッ!」
ここまで酷く負傷していても痛覚だけはまだあった。
激痛に、ダイアンは叫び続ける。
「やめろおおおおおおおおおおおおお――ッッ!」
絶叫と共に狼を見やると、ダイアンの右腕に牙を突き立てていた狼は、何故か離れて行こうとしていた。ダイアンが「はあ?」と唖然とすると、
「う、あ……」
思わず言葉を失った。
狼は、食い千切ったダイアンの右腕を咥えていたのである。
「か、返せえええ! 俺の腕ええええ!」
そう叫ぶが、今度は大腿部に痛みが奔る。別の狼が喰らいついたのだ。
ダイアンは激痛に悲鳴を上げた。
それを切っ掛けに狼どもが一気に襲い掛かってきた!
ダイアンの目には、闇が覆いかぶさってくるように映った。
そして――。
ガツンッ! ガツガツ、ゴリッ、バキンッ……。
恐ろしい音だけが響いた。
(やめろ、やめろ、やめろやめろやめろ、やめてやめてやめてごめん、ごめんなさい。ごめんなさい。おれがわるかった。ゆるして、くうな、おれをくうな、くうな! やろめやめろやめろやめろおおおおおおお)
もう声も出せない。
牙は血に塗れていく。
そうして、
(うあ、うああぁ……やめ、て………)
いつしか。
ダイアンの意識は、闇の底へと消えていったのであった。




