第八章 緋はまた昇る④
少しずつ。
あの男の乗った鉄鋼車輛が速度を落として向かってくる。
ホランは、内心では緊張を――いや、強い恐怖を抱きつつも、それは表情に出さずにあの男の到着を待った。
そして、
「おう! ホラン!」
あの男――ダイアンが二カっと笑って、ホランの前で停車した。
「……申し訳ありません」
ホランはダイアンに頭を垂れた。
「足止めの任務を失敗してしまいました」
「構わねえよ」
敗走でありながらも上機嫌なダイアンは、鉄鋼車輛から降りた。
「こうして戻ってきただけでも上出来だ」
言って、ホランの腰を抱き寄せた。
次いで、彼女の唇を奪う。
男の舌が口内を這い、まるで蛭が唇に張り付いたような不快感を抱くが、ホランは無表情を通した。彼女の臀部を掴んで触手のように蠢く指先の不快感も無視する。
代わりにダイアンの腰に両手を回した。
(……あった)
ホランは強くそれを掴んだ。
振動が激しく横転のリスクもある鉄鋼車輛を使っていたので、ここに入れているのではないかと睨んだが、当たりのようだ。
ホランは気づかれないように、そっとそれを確保する。
と、ダイアンが銀の糸を引きつつ、唇を離した。
「俺のホラン。もっとお前を堪能してえところだが……」
ダイアンは言う。
「今はヤべえ。あの怪物小僧が追ってきている」
「…………」
ホランは無言だ。
自然に左手の中のモノを隠す。
ダイアンはそれに気付かずに背を向けた。
「とにかくお前も乗れ。まずは安全圏まで逃げるぞ」
そう告げる。
ダイアンは背を向けたまま、鉄鋼車輛に向かう。
ホランはそれがチャンスだと思った。
腰の短剣を抜く。
切っ先が震える。緊張と恐怖で視界が歪む。
この男と過ごした最悪の日々がフラッシュバックする。
何もかも奪われた悪夢のような記憶が――。
(臆するな!)
ホランは震える自分の心を叱咤した。
(私は騎士なんだ!)
ギリ、と強く歯を軋ませる。
全身を縛る恐怖をホランは勇気と誇りでねじ伏せた。
そして、短剣を振りかぶる――が、
「ああ。そうだ。ホラン……」
最悪のタイミングで、ダイアンは振り返った。
ホランは、短剣を振り上げた状態で硬直してしまった。
流石にダイアンもギョッとした。
その変化を切っ掛けに、硬直していたホランも短剣を振り下ろしたが、それは後方に跳んだダイアンにかわされてしまった。
「……てめえ」
ダイアンは険しい眼光でホランを睨む。
「何の真似だ?」
「…………」
ホランは答えない。
短剣の切っ先は小刻みに震えていた。
しかし、無表情から一転、その眼差しは敵意に満ちていた。
「……おいおい。ウソだろ……」
ダイアンは忌々し気に吐き捨てる。
「ミイラ取りがミイラってやつか?」
「…………」
やはりホランは何も答えない。
いや、言葉ではなく、震えながらも短剣を構えて応える。
「このクソ女が」
ダイアンはホランを睨み据えて告げる。
「返り討ちにあったか? あの小僧にねじ伏せられて再調教でもされたのか?」
一呼吸入れて「ケ」と唾を吐く。
「だとしても、そんな時間はほとんどなかったはずだろ。なら、たった一回でか? てめえはどんだけ尻軽なんだよ」
その悪意に満ちた言い草にホランは、
「……ああ。その通りだ」
あえて乗った。
「あの方はお前とは格がまるで違う。剣の腕は無論のこと、男としての格もな。私は騎士としても、女としても、あの方に幸せを頂いた」
そこで恍惚の表情を見せて、
「確かに寵愛を頂いたのは一度だけ。時間もわずかだったかも知れない。だが、それで充分すぎた。まさに至極の幸せだったぞ」
女の表情から一転、意趣返しのように彼女は意地悪く微笑む。
「本当にお前なんぞとは違う。一晩相手をしてやっても女を満足もさせられないお前と違って、彼相手では何度果てたことか。今の私は――」
一拍おいて、
「身も心もあの方のモノなんだ」
「…………」
今度はダイアンが無言になる。ギリと歯を軋ませる音がした。
ホランは言葉を続ける。
「今や私はあの方の女であり、忠実な臣下だ。そしてあの方は私に任務を与えた。この場でお前を足止めしろと。私はそれを果たした」
そこで彼女は、視線をダイアンの上方へと向ける。
「そうですよね。私の愛しい閣下」
そう呟いた。
ダイアンはゾッとした。
思わず振り返る。あの怪物に追いつかれたと思ったのだ。
だが、
(なにッ!?)
背後にあるのは森だけだ。悪竜の騎士の姿はない。
ハッとして再び振り返ると、目前にホランの刃があった。
(くそがッ!)
ダイアンは、咄嗟に短剣を握るホランの手を掌底で打った。
短剣は手から離れて宙に飛ぶ。
しかし、ホランにとって、それはただの囮だった。
しなやかな足を振りかぶり、
――ドンッ!
全身全霊。渾身の力を以て蹴り上げた!
それもダイアンの股間をだ。
グシャリ、と音が響く。
ダイアンは思わず目を見開き、口から呼気を漏らした。
両手で股間を抑えて、その場に倒れ込む。
意識こそ失っていないが、青ざめた顔でホランを見据えていた。
「……て、てめえ……」
「……無様だな」
ホランは言う。
「これでお前は男としては再起不能だ。二度と女を抱くことも叶わないな」
「ふ、ふざ、けんな……」
歯を軋ませるダイアン。
「だが、当然ながら、それで終わらせるつもりはない」
ホランは短剣を拾い上げた。
「お前はここで殺す。姫さまと彼のためにも」
そう言って、ダイアンに近づいていく。
その時だった。
「……うっせえ、よ」
ようやく激痛に慣れてきたダイアンが言う。
「てめえが死ねや!」
そう宣告して、ダイアンは力強く奥歯を噛んだ。
直後、
――パンッ。
とても小さな破裂音と共に鮮血が散った。
「……え?」
ホランは唖然とした。
それは彼女の腹部からの鮮血だった。
そして彼女の膝が崩れ落ち、前のめりに地面へと倒れた。
「……くそが」
一方、ダイアンはゆっくりと立ち上がる。
「……マジで潰れちまった。くそ! オズニアでも治せるかこれ? 旦那に頼むか? もしくは《金色の星神》の力でも使えば……」
そう呟きながら、頼りない足取りでホランに近づいていく。
「クソ女が!」
――ガッ!
彼女を蹴りつける!
ホランは転がり、仰向けになった。
「あんだけ可愛がってやったのに、この恩知らずがッ!」
身勝手なことをダイアンは吐き捨てる。
ホランは、
――ゴポ。
大量に口元から吐血した。
腹部からの血も止まらず、どんどん血の海を作っていく。
「そのままでも死ぬだろうが……」
ダイアンは凶悪な眼差しを見せた。
「てめえのその綺麗な顔をぐちゃぐちゃッに踏み潰して殺してやんよ! 親でも分かんねえぐらいな!」
そう宣告する。
そしてホランの顔の横に移動する――が、
「……あン?」
そこでダイアンは眉根を寄せた。
何故なら、彼女は笑っていたからだ。
死を目前にしてなお、彼女は不敵に笑っていた。
「てめえ? なんだその顔は――」
と、言いかけたところで、ダイアンはハッとする。
もはや死に体のホランが、左手をこちらに向けていたのだ。
その手には翡翠の宝玉が握られていた。
「――て、てめえ!」
ダイアンは慌てて腰に手をやった。
そこにはポーチがある。
しかし、その中に入れていた異界の宝珠が無くなっていた。
「返せッ! それを――」
青ざめた顔でホランに手を伸ばすが、すでに遅かった。
次の瞬間。
ダイアンの姿はこの世界から消えていた。
ゴトン、と。
彼女の左腕が力なく地面に落ちる。
そうして、ホランは自らの血の海に沈んだ。




